真夏の夜の夢 |
サラリ―――。 剥き出しの肩に覚えた心地よい感触。 「―――?」 深い眠りの中にいた京一が、重たげにまぶたを持ち上げる。 ゆっくりと首を回して自分の肩先へと視線を向けた。 薄ぼんやりとした視界に光沢のある黒が映る。 左肩の上に散る、艶やかな黒髪。 「…………」 無意識のままに手を伸ばして指へと絡めた。 絡めてもすぐに指の間を流れ落ちていく張りのある質感。 すべらかな感触が指先に心地よい快感をもたらしている。 眠りの淵をさまよう意識のどこかでそれを楽しみながら、京一は再び目を閉じた。 すぅ―――と沈んでいく意識に合わせて落ちた指が、絡めたままの髪をぐいと引く。 「ってェえ!」 野太い男の悲鳴が、狭い部屋の中に響き渡った。 「………あ?」 一拍おいて、寝ぼけたような声をあげながら京一が薄目を開ける。 「―――なんだよ京一」 その傍らで、頭を撫でさすりながら清次が身を起こした。 申し訳ていどに躰を覆っていた白いシーツが分厚い胸板を滑り落ちて腰の辺りで溜まり、がっしりとした上半身が剥き出しになる。 「ツゥ……」 低く唸りながら、清次はガリガリと頭をかきむしった。 容赦なく引っ張られた髪の根本―――頭皮が痛い。 ベッドに片腕をついて上半身を支えながら傍らを見下ろした清次は、恨みがましい視線を京一に向けた。 「ああ……悪ぃ」 返しながらも、京一の視線は清次を映さずにゆらゆらと宙を揺れている。 眠りにつこうとしていたところを引き戻されたものの、意識はいまだに微睡みの淵をさまよっているらしい。 「いきなり引っ張るんじゃねェよ。驚くだろ」 「そこに……あった」 「あのなァ………」 かみ合っているようでかみ合っていない会話に、清次が苦笑する。 時計を見上げれば、午前四時。 色褪せたカーテンの向こうでは、わずかに空が白み始めたばかりである。 唐突に与えられた痛みですっかり目が覚めてしまったのだが、加害者たる京一はいまだ安寧の中をたゆたっているらしい。 「………なん、だ」 かすれた声は、今にも眠りへと落ちていきそうなほどに低い。 「―――いや、いい」 「…………」 「まだ早いから寝てろよ」 それを聞いた京一のまぶたがすぅと閉じていく。 「そろそろ邪魔っちゃあ邪魔だよな。切るか……」 肩先を覆うぐらいの長さのある自分の髪をつまんだ清次が、独り言のように呟いた。 「……切るのか」 寝たのかと思っていたら、目をつぶったままの京一からいらえがあった。 「うぜェだろ?」 「……そうでもねぇ」 目を閉じたままだというのに、驚くほどの正確さでゆっくりと男の首筋へ手を伸ばした京一が、先ほどと同じように清次の黒髪に指を絡めて潜らせる。 「おい?」 「……気持ちいい、ぜ」 肺活量のありそうな深い息を吐きながらそう言った京一は、満ち足りた猫のような気配に包まれていた。 その唇にはかすかな笑みが浮かんでいる。 「そ、そうか?」 珍しいものを目の当たりにしてしまった清次がどきまぎと狼狽えながら口ごもる。 「俺は好きだ……が」 「………京…いち?」 あまりにもらしくない言葉に驚愕した清次は目をしばたたかせた。 「………なぁ……このまま伸ばせよ」 絡めたままの指を緩慢な動作で引き寄せた京一は、すべらかな黒髪に乾いた唇をあてた。 「―――う、あ」 髪を引かれるまま斜めに頭を降ろしていた清次の頬が、わずかに赤くなる。 臆面もない言葉と、見ようによっては甘えているように見えなくもないその仕草に思わず動悸が速まっていた。 目を閉じている京一には見えないと分かっているが、熱くなった頬を隠すように慌てて横を向こうとする。 清次の顔の動きに合わせて、京一の指の間から髪が滑り落ちた。 絡めるものを失って物欲しげにさまよった指が、あきらめたように清次の広い背中をゆっくりと滑り落ちていく。 「―――ッ!」 剥き出しの背を伝った温かく乾いた感触に、清次はビクリと身を竦めた。 数時間前まで飽かず貪っていた躰に ぬくもりに またしても手を伸ばしたくなる衝動に駆られた清次は、片目を強く眇めながら欲求をこらえようとする。 事に及ぶとき清次に躰をまさぐられても、意識が通常のそれから切り替わり欲望の中に堕ちるまではほとんど無反応である京一なのに、ひとたび躰に火がついた後は―――。 「つ……やべ…ェ」 低く呻いた。 清次の腕の中で―――低くかすれた声が放ったあえぎや、熱を奪おうと貪欲に絡みついてきた躰を思い出して、早くも体内に重い熱がこもりはじめている。 シーツの下ではまたしても性器が頭をもたげようとしている。 だが清次には、すぐ傍らにいる京一を起こすことはできなかった。 京一は時おり清次の求めに応えることがあるが、自分の欲求が満たされた後は相手から執拗に求められることを嫌う。 ―――京一の目は俺に向いてるわけじゃあねェしな……。 抱くにしろ抱かれるにしろ、欲望を満たすための情事の相手には事欠かない京一である。 その場の弾みのように始まった関係で幾たびか躰を重ねたからといって、思い上がることなど清次にはできなかった。 ―――俺に抱かれるのはただの気まぐれなんだろ……京一。 甘い期待など持てようはずもない。いや、持つ方が間違っているのだ。 興味の先が眠りにしか向いていない今の京一へと無理に手を伸ばしても、逆鱗に触れるだけであろう。 切り裂くような視線や冷たい無表情を見たい訳でもなく、清次は腹の底の重い熱を散らそうとして丹田に力を込め、何度も深い呼吸を繰り返した。 「………ふゥ」 どうにかやり過ごして苦笑しながら傍らを見下ろすと、京一からは既にしてもう穏やかな寝息が洩れているだけだった。 「………京一?」 呼びかけてもいらえがない。 静かに眠る京一を、清次はただじっと見つめていた。 荒削りな男らしい顔は白いシーツの中に埋もれたまま、今度こそぴくりとも動かない。 その輪郭をなぞるようにそっと、視線でたどっていく。 「寝ちまったのか……」 囁くような声を落とした。 京一……。 音もなく唇で名をたどり。 その顔の上にゆっくりとかがみこむ。 口吻ける寸前。 さらり―――と両脇に流れ落ちた黒髪がその空間に紗を作った。 「―――お前がそう言うんなら」 京一から躰を離し、傍らに身を横たえた清次は床を探って煙草を取り上げる。 ライターで火を付けながら筋肉の発達した片腕を頭の下に敷き、煤けた天井を見上げた。 「まあ、それはそれで……」 くわえた煙草を深く吸い込んで、ふぅ―――と紫煙を大きく吐き出す。 ゆっくりと首を回した。 規則正しく深い息づかいが頬にあたる。 「……伸ばしてみるのも悪くはねェか」 真横にある京一の寝顔を見つめながら、小さく呟いた。 「暑い。何とかならねェのか清次」 バタバタと団扇をあおいで自分だけに風を送っている京一の眼は、はっきりと据わっていた。 ただでさえ鋭く切れ上がっているまなじりが更に吊り上がり、凶悪なまでの人相になっている。 「しょうがねェだろ、エアコン壊れてんだよ」 「早く直せ」 「金がねェ」 「―――ちッ」 手元でおざなりにめくっている雑誌へ顔を向けているものの、京一の視線は何度も同じ場所をさまよっているように見える。 着ていたTシャツはとうに脱ぎ捨てて筋骨逞しい半裸をさらし、ワークパンツだけの姿となっている京一は、いつもの定位置としている清次のベッドの上ではなく、床板の上に腰を落ろしパイプに背を当てて、少しでも涼を得ようとしていた。 「そんなに暑いなら、もっと熱い事でもして発散するってのはどうだ?」 金かからねェぜ? 冗談まじりの口調で言いながら、清次が京一の背に 剥き出しの上半身に視線を這わせた。 浅ましく喉が鳴りそうになるのを何とか飲み下す。 軽い口ぶりで暗に情事を誘ってみたものの。 ここ最近、暑苦しいと言っては跳ねつけられてご無沙汰している清次としてはその言葉にかなりの本気が交じっていたのだが。 「てめぇふざけてるのか。―――しねぇよ」 不機嫌極まりない唸り声が返ってきただけだった。 「なんならどっか涼しいとこ行くか?」 言うだけ無駄だったかと苦笑しながら清次が次の案を口にする。 「面倒くせぇ」 いつもの如き問いかけにいつのも如くだるそうに答えた我が儘な男に、処置なしと肩を竦めた清次はベッドの上にゴロリと転がった。 真っ白いシーツの上に、長く艶やかな黒髪がファサリと広がる。 その一端が京一の肩先に触れた。 「うぜぇ……」 煩わしげな表情で、京一は自分の肩先のそれを払いのける。 「切れよ。なんでこんなに伸ばしてるんだ、男のくせに」 京一の眼には暑苦しくしか映らない真っ黒なそれを忌々しそうに睨みつけた。 「………京一?」 その言葉に清次が自分の耳を疑う。 「何だ」 「……お前、去年自分が言ったこと覚えてるか?」 今聞いた言葉が信じられずに茫然と目を見開いた清次は、仰向けのまま天井に向かって問いかける。 「何の事だ」 ふん、と鼻を鳴らさんばかりの冷たくも素っ気ない京一の態度だった。 「伸ばせって言ったの、お前だろ?」 清次は驚愕の表情を貼り付けたままでゆっくりと身を起こし、言ったよな確か、と京一の背にすがるような視線を当てた。 「俺がそんなこと言うわけねぇだろ」 だが京一は清次を振り向きもせずにあっさりとそう決めつける。 「―――お前な」 両手両膝をついて起きあがった清次は、パイプベッドの横枠にもたれている男の背に信じられないという目を向けた。 「言ってねぇ。切れ。うっとうしい」 ただでさえ汗ばんでいる肌へ髪の気配が触れるのも嫌だというように、京一は億劫そうな動きで清次のそれが届かぬ場所へまでベッド沿いにズルズルと腰をずらしていく。 「……………」 そんな京一を無言のままで凝視してしまった清次だった。 ―――京一。 あの時の……あの甘やかさは何だったんだ? 俺のこの一年間は。 お前があの時……伸ばせって言ったから俺は―――。 それなのに。 ―――覚えてねェってか? 京一の背後でがっくりと肩を落とした清次はシーツの上に両手をつき、崩れそうになる自分の身を必死になって支えようとする。 「お前はそういうヤツだよな………」 笑っているような泣いているような、ヒクヒクと震えを帯びた声。 京一は嘘をついている訳でもとぼけている訳でもないのだろう。 ただ覚えていないだけだ。 「何ワケの分からねぇこと言ってるんだ」 ようやく首をひねってベッドの上を見上げた京一は、相変わらずおかしな奴だなと険悪な表情で眉根を寄せた。 「……俺が悪かったよ」 清次が地を這うような声を洩らす。 真に受けて本気にしていた自分が悪いのだ。いつもの如く―――とは頭で分かっていてもそう簡単に感情の整理がつくわけではない。 「当たり前だろ」 何を今更、と言わんばかりの態度で平然としている京一の顔を穴の空くほど見つめながら、清次は手元の白いシーツを両手で強くぎゅうッと握りしめた。 ―――犯すぞこの野郎……。 ギリリと奥歯を噛みしめながら胸内に呟いたところで、それを実行に移せるべくもない。 あまりにも京一らしくなかったあの時のやり取りを後生大事にしていた自分が悪いのだということは嫌というほど分かっているのだが、だとしても。 もうすでに幾度となく情を交わした間柄だというのに、あまりにも薄情すぎる男の顔を凝視した。 ―――チクショウ絶対切らねェぞ!! その顔を見つめながら心に固くそう誓う。 せめてもの清次の意地だった。 だがその意地が京一に通じる日はおそらく―――。 永遠に訪れないであろうことは想像に難くない。 ― 了 ― |
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