2月14日夜。明智平。


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「何でオレがそうなるんッすか!?速見さんッ!!」
 こらえきれずに爆笑を始めた男に峰岸がひしっと視線をすがらせる。
「何でも何も事実だろ?身から出た錆ってヤツよ。お前も可哀想になあ……ま、自分のことは自分で面倒見ろよ。お前ももうハタチだしな」
 立派なオトナだろ、うん。
 くだんの件には自分も一枚噛んでいたことはあくまでも都合よく棚に上げている男が、ひとり納得したように頷いた。
「二十歳になったのとこれとは問題が……」
 だいぶ違う―――と言いかけた青年を。
「オレは今、忙しいんだよ。可愛いオンナノコ達の前じゃあ男の友情なんかゴムより薄いっての」
 薄情にもしっしっと犬でも追い払うように手で払った速見が背を向けた。
「ひっ、ひでえ―――ッ!!」
 公然とホモの烙印を押されそう――もう押されているという話もあるが――になっている峰岸が必死の形相で速見に食い下がり、足を踏み出す。
「きゃあっ!!」
 その勢いで、どんっと押された女の子がよろけて地面に転んだ。
「痛……」
「―――んだよ」
 頭に血が上っている峰岸が、誰かれ見境なしの視線でぎろりと睨む。このへんはもう立派なエンペラーの一員である。
「お前な……女の子相手にスゴんでんじゃねえよ、恐がってるだろ?」
 気付いた速見が、青年の頭をべこりと殴りながら首根っこを引き寄せた。
「こいつには謝らせるから。―――ごめんな?」
 峰岸の後ろ頭を上からぐいと押さえつけ、無理やり頭を下げさせてゴメンナサイをさせる。
 お前はもういいからあっちに行ってろと輪の外につまみ出してから、目の前の女の子が両手にしっかりと握っているチョコレートの箱に視線を落とした。
「お詫びとして、直接渡せるようにしてあげようか?」
 それ、誰宛?と指を差す。
「……す……須藤、さん……に」
 どぎまぎと狼えたように視線を泳がせながらその娘が言った。
「う。……京一さん、か」
 その答えに、さしもの速見も一歩を引く。
「あのひとはなあ」
 がしがしと髪に指を突っ込みながら難しい顔をした。
「……だ、駄目ですか」
 唇をふるりと震わせた娘の目に見る見るうちに光る珠が盛り上がっていく。
「うわ、泣かなくていいから!」
―――しょうがねえか、オレが言ったんだもんなあ。
 口の中でぶつぶつ呟くと覚悟を決めたように女の子へと向き直る。
「あのさ。直接渡そうとして受け取ってもらえねえのと、渡したけどそのまま持ち帰って捨てられるのと、直接は渡せねえけど一口は食べてもらうのと―――どれがいい?」
 究極の三択を突きつけた。
「…………え」
 その場で固まった女の子が、男のセリフをゆっくりと反芻しながら一生懸命考える。
「―――ひと口でもいいから……食べて欲しい、です」
「ん、OK。じゃ、それこっちにもらえる?箱の中身出してもいい?」
 そう言いながら手を差し出した男にチョコレートの箱を手渡しながら、相手が頷く。
「悪ぃけど一つだけだぜ?それ以上は………無理だ」
 女は嫌いではなくとも京一はこの手の甘い菓子類には一切の興味を持たない。
「それでも……いいです」
「オンナノコってのはみんな―――けなげだねえ」
 金色の包装紙に包まれて箱の中で綺麗に並んでいるチョコレートを一つ取り上げながら呟いた。
 重さを確かめるように手の中で放り投げると、手首の銀鎖がシャリンと澄んだ音を鳴らす。

「それじゃ、と。こういうもんは……」
―――京一さんにアタマ使わせたら終わりだからな。
 真正面から渡しに行っても鼻先で冷たくあしらわれるだけだ。
 後ろへと引いた片足に重心を移し、チョコレートを握った腕を大きく振りかぶる。
「京一さ―――んっ!!」
 よく通る声でそう叫ぶなりチームリーダーめがけて手の中のものを投げつけた。

「受け取ってくださーいっ!!」


 ヒュン――――――。


 明智平を金色の矢が走る。

 誰一人近づけまいとの決意も固く、男達が万全の体制で京一を守備する空間の合間を縫って。
 インベタの更にインならぬ、全くのコース外である空中からそれは飛来して―――易々と守備網を突き破った。
 弧を描かずに数メートルほどの距離を一直線に走った金色が、狙い違わず京一の顔面を襲う。

「―――ッ!?」
 聞こえた声に振り返った途端、顔の真正面へと飛んできたものを目にした京一が反射的に腕をあげた。

 パシ――――――ンンン!!

 気付いた時にはそれを手のひらで受け止めてしまっていた。
「…………………」
 無言のままでゆっくりと指を開いた京一が、手の中のものを見つめながら眉根を寄せる。


「投げるモンなら任せとけってね。……ほら、受け取ってくれたぜ」
 指さしながら、速見が女の子に向かって嬉しそうに言った。―――やや違う。
「京一さーん、それ一つだけ食ってください」
 お願いしまーッす。
 口元に両手を当てながら声を投げた。
「………………」
―――今日はあの……クソ忌々しい日だったのか。
 駐車場の一角を見やった京一が、以前にもあった騒動を苦々しく思い出しながら、手にしたものと女達の集団の関係を正確に理解する。だがそこは京一である。
―――何で俺がこんなものを食わなきゃならねぇ。
 顔をしかめながら、さっさと手放そうと地面に視線をさまよわせた。
「まさかですけど、捨てるつもりじゃないッすよねええ?」
 敏感に京一の気配を嗅ぎ取った男がのんびりと放った声は、静かな夜の中でやけに響いた。
 静か―――そう、辺りは静寂に包まれていた。
 速見の大声と京一のやり取り、空中を走った金色のチョコレートの行方を見守るかのように、明智平にいる全員が固唾を飲んで静まりかえっていたのだ。

「……捨てると思うか、須藤さん」
「いや、鬼だ鬼畜だ冷血漢だって言われてる男でも―――」
「……いくら何でもそこまでしねえだろ」
「理由もなく女の純情踏みにじるってのはなあ……」
「ん、だよなあ」
 ぼそぼそぼそぼそ。
「エンペラーほどのチームをまとめてる男がよ―――」
「ああ、そんなキモの小せえことしねえんじゃないの………」
 明智平の周囲のあちらこちらからヒソヒソと囁く声が湧き上がる。
 チーム外の走り屋やギャラリー常連の男達が、小声ながら互いに囁き合っていた。
 そしてチーム員らはと言えば。
「……………」
「……………」
「……………」
 何とか無言を保ってはいたのだが。
 姦しく騒ぐ尻軽な女達と京一の橋渡しなどは金輪際ゴメンだという連中ではあってもそこはそれ、微妙な男心という奴である。

 俺らが渡してもやっぱりそうやって捨てられるのかなあ。

 彼らの心の声を代表して言えば、そういうことになる。
 どんなに巌のような外見の持ち主ばかりであろうとも、たとえ性別が男であろうとも、チーム員の京一への思慕の念は純情一途なのである。
 いや、純粋かと問われれば―――それはまた一人一人に聞いてみないことには不純の混じり具合は不明なのだが。

「………………」
 大勢の視線が一極集中する中―――わずかに顔をしかめた京一が長さのあるチョコレートを指先でつまみ、金色の包み紙の中程までを剥く。
 それ以上の躊躇は見せずに茶褐色の塊を口の中へと突っ込んだ。

 ガリッ。

 柔らかい硬さのあるものが噛み切られ、口腔内で砕け散る。
 京一の舌の上でコクのある甘さが広がった。
「………………ぅぐ……」
 ほのかな甘味を含んだ煮物などは好物だとしても、それとは全く質の違う――こう、あからさまな濃度のある甘さが本当に得意ではなくて。
 味蕾へと強烈に存在を訴えかけてくる濃厚な糖度に耐えかねて口元が止まる。
 吐き出そうとしてふと周囲に視線に気付いた京一の頬がひくりと痙攣した。

 明智平はまたもやシン、と静まり返っている。
 みな京一の一挙一動を痛いほどの視線でじっと見つめていたのだ。
「………………」
 仕方なく、苦虫を噛み潰すような顔をしながらも吐き出さずに丸呑みする。 
 手の中に残って顔を覗かせている金色と褐色に気付いてじっと見下ろした。
 どう処理すべきかと考える。
―――捨てる場所がねぇ。
 ここには護美箱が設置されていない。かといって地面に投げ捨てるのはさすがにためらわれた。
 ふと思い出したように、京一が傍らへ立つ男へと視線を向ける。
―――ちょうどいいのがいるじゃねえか。
「おい、清次」
 不要なものを捨てるにふさわしい先を見つけた京一が、手近にいた人間にこれ幸いと押し付けようとする。
「お前にやる」
 剥きかけの金色の包み紙ごと、チョコレートを清次に手渡そうとした。
「い、いいのか」
 何故か動揺している清次が口ごもりながら確認する。
「甘いもんは好かねぇんだよ」
 舌へ残る甘さに苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべながら京一が言った。
「……あ……ああ、そうか」
 ごくりと唾を飲み込んだ清次が、京一の手からチョコレートをそっと受け取る。
 取り返されまいとするかのように、慌ただしく包み紙を剥いた。
 夜目にもわずか頬が染まっている清次の手は、かすかに震えている。
「あ!?」
「清次待て!」
「独り占めする気かッ!?」
「待ッ―――!」
 制止の声には耳を貸さず、褐色の塊を口の中に放り込んだ。

「―――あ、あああッ!!」
「うわぁああああ―――ッ」
「ぎゃあああああああああ―――ッ!!」
 明智平に、雑巾引き裂く男の悲鳴がいくつも疾る。

 急いで噛み砕いた塊を、清次の喉がゴクリと嚥下した。
 舌の上でとろけた柔らかい塊の残りをじっくりと堪能する。
「…………ふぅ」
 満ち足りた表情の清次が甘い息を吐いた。
 嫉妬と殺気で知覚敏感になっている男達の鼻先に、幻覚ならぬ幻嗅のごときチョコレートの甘い匂いが拡散されてふわり―――と漂った。

「清次てめぇ……」
「京一さんからの……チョコを」
「それも……京一さんの食いかけ……を」
「一人で……食いやが……」
 怨嗟に満ちた呟きが地面を這った。
 夜の明智平に息詰まる空気が流れていく。

 ボキボキと指の鳴る音、ゴキリと肩を鳴らす者。
 シュシュと空を裂く擦過音。
 ジャリ、と足元を踏みしだく音。低く腰を落とす者。

 場の空気が張りつめていく。
 満ちていく緊張感。高まる殺気。据わる眼光。

「何だお前ら。こんなモンが食いてぇのか」
 その様を眺めながら京一が口を開いた。
「そんなつまんねぇ事でガタガタ騒いでんじゃねぇよ」
 わずらわしげに眉間を寄せる。
「欲しいんなら―――速見が持ってるぞ」
 分けてやれよ、と京一が振り返った。


 京一さん…………。


 がくりと脱力した男達の膝が、揃って地面に向かって折れそうになる。
 場の緊張感が、ガラガラと音を立てながら一気に崩れた。
「いや、それは…………」
「……その…………」
「……………少し……」
 四方八方から茫然としたような声が湧き上がる。
 今まさに戦闘体制に入らんとしていた矢先に、強烈なカウンターを喰らったようなものである。そうそう衝撃から立ち直れるものではない。
 ともすれば力の抜けそうになる足を踏みしめるのが精一杯という有様であった。
「言いたかねえが。………京一さん、それ違います」
 数メートル離れた場所で傍観を決め込んでいた速見が、やれやれといった顔で教えてやる。
「なんだ。これで最後だったのか?―――だとよ。残念だったなお前ら」
 問題の物体を投げて寄越した男の言葉を聞いた京一が、話を終わらせようとする。


 そうじゃねえ!!


 誰もが一斉に胸うちでそう突っ込んだが、京一に面と向かって言えるはずもない。
「……いや……その」
「それ……は…………」
「…………ええと……」
 口ごもりながらも、自分達の敬愛するチームリーダーをただただ悲しくじっと見つめていた。
 濡れ濡れと潤むような数十の瞳。
 クルマが凄腕だ荒くれ揃いだと評判の高い男達もこうなってしまえば、もはや可愛い――くはないが――ただの忠犬の集団である。
 優れたリーダーとその下に慕い集う男達の友愛、とそう見なせるだけの強靭な意思力の持ち主であれば、なかなか麗しい光景であると目に映るかも知れないが。
 しかしそのままではいつまでたっても事態は進展しないのだ。

―――やっぱりオレが言うのかよ。

「………京一さん。それもかなり違います」
 声を投げた速見は、はぁ、と力なくため息をついたのだった。




 2月14日。11:30PM。
 栃木、日光。第二いろは坂終点、明智平。
 いろはの夜は今日も平和に更けてゆく。




                                    終わり。