復讐の帝王













「やめろォッ!!中に出すんじゃねぇッッ!!」
 耳元で絶叫があがった。
「……ぅあッッ!?」
 清次は反射的に目を見開き、慌てて手を添えると勢いよく自身を引き抜いた。
 ずるっ、と異様な感触を残して、京一の腹腔から圧迫感が消える。
 が。清次はやや間に合わなかったと言える。京一の無駄なく引き締まった浅黒い腹の上から胸にかけて、大量の白濁した飛沫が数回、飛び散った。
「……・・っ!!」
「……す、すまねえッ……京一ッ……・。」
 これ以上はあり得ないという極限まで寒々と凍り付いた空気の中、驚愕の表情を張り付けて清次が口籠もる。京一の大喝と目の前の惨状により、瞬時にして正気に戻っていた。
 先程までの狂犬じみた獰猛さは既に形を潜め、ただただ茫然とする。
 部屋の中で、2人の人間の荒く熱く乱れた呼吸だけがやけに大きく聞こえた。

「……これを外せ……。」
 京一が押し殺した声を放った。
「あ……。」
 清次が身じろぎする。
「外せッ!」
 慌てて清次が、京一の両手首とベッドのパイプを繋ぎ縛っていた麻縄に取り付いた。
 繋がれている間、京一が終始暴れていたので結び目がきつくなっている。一つに括った手首とパイプの間には少し長さの余裕を残しておいた筈だが、何度も転がったせいで捻れて短くなっていた。
 焦っているせいもあり、なかなか解けない。
「……早くしろ……ッ!」
 苛立った声に怯んで、紐解くことを諦めた清次はカッターを取り出すと、ようやく京一の両腕を解放した。

 表情を無くした能面のような顔でギシ、とベッドを軋ませながらシーツに左肘をつき、分厚い胸板をむくりと起こした京一はつかの間、自分の腹の上を凝視した。
 割れた腹筋の合間に白濁した体液が溜まっており、窪んだ筋肉を伝わって腹の上から脇へと僅かに流れ出していた。余りの気色悪さにぐら、と気が遠くなりかけたが、奥歯を強く噛み締めてやり過ごす。
 無言のまま、赤く縄痕と擦過傷が浮き上がり血の滲んでいる右手で素早くそれを掬い取ると、有無を言わせぬ勢いで、京一にのしかかった態勢のまま間近にあった清次の胸から腹にかけて擦り付けた。
「っうおッ!?汚ねぇッッ!!」
 清次が思わず叫んで飛び退く。

 その瞬間。
 くわ、と眼を見開き目尻を吊り上げ、夜叉もかくやという凄まじい形相に変貌した京一が、背筋をしならせて瞬時にして跳ね起きた。常であれば冷徹な光を湛えている筈の色素の薄い灰色がかった瞳は、今や、憤怒に燃えギラギラと蒼白い光を放っている。
「っざけやがって……ッ!!……ッんの野郎ォォーッッ!!」
 一切の予備動作なしで、渾身のカを込めた右カウンターを繰り出す。鍛え抜かれた逞しい上腕二頭筋に撓められた爆発的なパワーが弦を放たれて、清次の頬に炸裂した。

 ドゴォォォンンッッッ!!

 凄まじい大音響と共に、部屋全体がビリビリと震える。
「……・・があぁッ!」
 周囲の様々な物を巻き添えにして倒れ込みながら、清次の褐色の巨体が部屋の入り口の方まで吹っ飛んだ。そのまま白目を剥いて崩れ落ちる。

 ッはぁっ……はぁッ……。

 部屋の中央に仁王立ちになった京一は肩で大きく息を調えながら、倒れたままぴくりとも動かない清次を睨み据えた。

 バトルでは自分の指示そして警告を無視する。
 相手を軽視した挙げ句、手もなくハチロクにやられる。
 平手打ちにすると、逆恨みしたヤツは事もあろうに自分を縛りつけて嬲り者にした。
 そして事がなされている間、劣情に突き動かされ律動を刻む清次の躯の下で、時折ツキンと背を這い上がった奇妙な刺激。その度に自分の喉を漏れた煽られたような声音。
 何もかもが厭わしく受け容れ難い。
 今夜の出来事の全てをさっさと記憶の底に封印したかったが、努力しようとすればする程いくつもの映像が鮮明さを伴って脳裡に浮かび上がってくる。こういう時だけは、発達した自分の記憶能力が心底疎ましかった。

 ふと自分の体を見下ろした京一は憮然とする。
 目の届く範囲をざっと見ただけでも、歯形の形に青黒く腫れ上がっている箇所をいくつか発見した。清次の頑強な顎で血の滲むほど噛みつかれた場所だ。
 その他にも胸や脇腹、内股、肌のあちらこちらに紅い鬱血の跡が散っている。見えない場所もきっと多かれ少なかれこの調子なのだろう。これでは当分、人前でシャツも脱げまい。
 何故時分がこんな目に遭わねばならないのか。
 不快気に唇を歪める京一には、切羽詰まった挙げ句になりふり構わぬ暴挙に出た清次の想いを理解する日は、永遠に訪れないであろう。
「日頃の行いは、そう悪かぁねぇと思っていたんだがな……。」
 無理な態勢で散々責め苛まれたせいで、躯中いたる所の筋肉が軋みを上げている。更には、躯のもっと奥深いところでズキズキと熱い疼痛を訴え続ける箇所がある事に、苦々しい思いを抱きながら独りごちた。
 最低の夜だった。

 殺人衝動さえも覚えた目の眩むような一瞬の激情は去っていたが、さりとてたったの一発殴っただけで気が済む筈もない。もっと殴ってやるべきか……と、本気で考える。
 しかしそれにも増して。清次に舐められ含まれ、また冷たい脂汗に濡れた体中の肌がベタつき、この上なく気持ちが悪い。言うまでもなく腹の上は最悪だった。
 このままの状態でいる事にはこれ以上、一分一秒足りとも我慢がならない。とりあえず、手近にあるティッシュボックスから2、3枚をまとめて鷲掴みにすると、腹部を拭った。清次に擦り付けた時にこびりついた残滓が糊の役目を果たして、掌にティッシュが貼り付くのを苛立たし気に引き剥がす。
 勝手知ったる他人の家とばかりにシャワーを浴びに行こうとしたが、入り口には自分が殴り倒した清次の体がある。
 この上なく邪魔だった。
―――チッ。殴り飛ばす方向を間違えたか……。
 せめてもの腹いせにと、汚れたティッシュの束を清次目がけて投げつける。ふわりと宙を舞った白い紙が、清次の胸の上に落ちた。ティッシュの落ちる先には目もくれず、邪魔な粗大生ゴミを大股に跨ぎ越そうとしたが、そんな必要はないとふと思い直す。
 表情こそ感情を伺い知れぬいつものものに戻り、冷静さを湛えていたが、腹の中では未だ全く持って沸々と込み上げる怒りが収まらない京一は、持ち上げたままの状態で足を止めた。
 腹を踏んで行こうとしたが、先程自分がそこへ大量に塗り広げた物の事を思い出してかろうじて踏み留まる。
 空中の右足を少し横に移動させた。
 そして、右足に全体重をかけて気を失った清次の顔を思い切り踏みにじって通り過ぎた時、足裏のミシリとした感触に少々の満足感を覚えながら風呂場へと向かった。







                                              ― 了 ―