掟破りのスーパーウェポン side-A













 今日はホームコースである日光から足を延ばし、京一と清次はエボIVで秋名までツーリングに来ていた。群馬エリア制圧の足固めをしていく上での、軽い各地コース偵察をも兼ねている。
 曲がりくねるコーナーを脳裡に刻み込んでコース取りシミュレーションへの糧とする作業を中断して、京一はそのままの姿勢でコクピットに声を掛けた。
「そろそろ一服しねぇか。清次」
 清次は、ナビシートに体を預け頬杖をついて、車外の景色を眺めている京一に目をやる。
「おう……そうだな。そこいらでちっと休むか」
 秋名湖のほとりを走っていたエボIVを、清次は目についた適当な空き地に入れた。京一はナビシートから身を起こすと、ブーツの底でジャリ、と地面を踏みしめて車外に降り立つ。
 快晴の空の下で湖面が美しく煌めいていた。軽く肌を撫でゆく爽やかな風が心地よい。
 清次はセンターコンソールに転がるライターで煙草に火をつけ、エンジンを切ると京一の後を追った。ターボタイマーが始動し、低い振動音を発しながらエボIVがクールダウンを始める。


 パッケージから煙草を振り出して口に銜えた京一は、ワークパンツのポケットからシンプルな銀のジッポを掴み出す。
 ヂッ。ヂッ。
 青白い火花が散るだけで一向に火がつかない。
―――ち、オイル切れか。
 諦めてジッポを戻すと、傍らに来た人影に向かって右手を差し出した。
「清次。火」
「……っと。あ、クルマん中だ。今取って―――」
 きびすを返そうとした清次の肩口を、京一がぐいと押さえて呼び止める。
「面倒だ」
 清次よりわずかに上背のある京一は顔を近寄せて傾けると、清次の銜えている煙草に自分のそれを軽く押しつけ、深く息を吸い込む。素早く火口を移して、す、と身を離した。
「……うぁ?」
 この間、清次は目を見開いて硬直したままであった。
 一瞬感じた相手の暖かい肌の気配は既にして霧散していたが、京一が好んでつけており、最早体臭ともなっている嗅ぎ慣れた残り香が鼻孔を嬲る。滑らかに削げた頬、がっしりした顎、細めた目蓋の間から垣間見えた、やや色素の薄いグレイがかった双眸が鮮やかな残像となり、記憶中枢が刺激される。

「清次、お前何考えていやがる?」
 清次は激しく眼を瞬かせて頭を振り我に返ると、肩で大きく息をした。唇に貼り付けたままの煙草から長い灰が落ちる。
 慌てて声のした方に眼を向けると、嫌そうにしかめられた顔に出会った。
「ぁあっ?……い、いや俺は何も……っ!」
 京一は疑わしそうに眉をひそめたが、それきり清次に興味を失った風情で、何事もなかったような平然とした表情に戻ると、旨そうに紫煙を吐き出した。

 荒削りながら彫りが深く男らしい横顔を盗み見る清次の、浅黒く巌のような頬へ今頃になってカッと血の気が昇り熱を帯びる。今更ながらではあるのだが清次には未だ慣れない事が多い。動揺した己に対して口の中で小さく舌打ちをする。
 赤らんだ顔のまま無理に眉根を寄せてみたが、無骨な顔が珍妙な面相になるだけだった。
 京一に自分の表情を見られまいとして俯くと、両の拳を強く握り込み気を静めようとする。
―――……ふん。
 清次の狼狽える様を視界の片隅に捕らえた京一は、しかし一向に頓着せずに無遠慮にそれを眺めやった後、そのまま背を向けた。
 暫くの間。清次には間が悪く京一には爽やかな風の中で一服を楽しむ、沈黙が空間を漂った。


 クールダウンを終えたエボIVが完全に沈黙する。その気配に二人は白い車体へ目を向けた。
 京一を乗せてのちょっとした遠出とあって、清次は今朝少し早めに起き出して出発前に洗車した。ポリマーをかけてある為、短時間の水洗いで済む。
 手入れの行き届いたエボIVは太陽光線を受けて真っ白に輝き、オーナーの誇らし気な心持ちをより一層引き立てる。
「ゾクゾクする程キレイだぜ……俺のエボIVは。走る為の機能を徹底的に追及していったらこうなるってぇ見本だ。例えて言えば鍛え抜かれたボクサーのボディのようなモンだ。ランエボはラリーの世界選手権を闘う為に開発され熟成されたクルマだからな」
 かすかに京一が頷く。
「ハイパワーターボ。プラス4WD。この条件にあらずんばクルマにあらずだ……」
 清次が勢いを得る。
「ランエボこそストリート最速ランナーだ。京一、早く群馬エリアのFR小僧どもをかたづけちまおうぜ!」
 一目見ただけで泣く子がぴたりと沈黙する野太くゴツゴツとした強面へ、新しいオモチャに夢中になる子供のような表情を満たし、期待を込めて京一を見る。
 京一が口を開こうとしたその時、エンジン音が耳に滑り込んできた。ついと振り向く。二人のいる空き地に走り込んで来た車体がある。京一とのランエボ談義に水を差された形の清次が、不快げに口元を歪める。次いで思い出したような顔になった。
―――ん……ハチロクか?確かさっき途中で一台抜いたっけなぁ……。

 彼らの立つ空き地の一角とは反対側に設置されていた自販機の近くに、車体が止まった。ナビ側のドアが開き、すらりとした少年が降り立つ。すたすたと自販機に向かった彼の、栗色の髪を緩やかな風が乱す。

 ふぅう―――っ……。

 清次が最後の煙を吹き上げ、地面へ落とした吸い殻を靴底で踏み消す。
「へっ。ふっふふふ……」
 意味ありげに含み笑いながら京一の傍らを離れて、ハチロクへと踏み出した。コクピットに収まったままのもう一人の少年の顔が、ぎょっとするのがフロントガラス越しの遠目にも分かる。
―――げっ!こっちに来る!!
 多分そんなところであろう。
 閉まっているウィンドウを軽く叩くと、引きつった顔の少年が急いでそれを引き下ろした。愛嬌のあるダンゴ顔の一面に薄く脂汗を浮かべていたが、清次は全く意に介さない。
「ぃよう!ちっと道を聞きてぇんだけど?」
「え!?はぁあい……っ!」
 恐ろしげな巨体と髪を後ろで一つに括っている、得体の知れない男を間近に見上げて怯みつつも、少年は車外に出て道を指差しながら説明を始めた。

「あ。こっちのルートが近いっすよ」
「そぅか。ありがとよ。ところでちょっと聞くが……」
 おざなりな礼を返した清次は、耳をかっぽじりながら次の問を放つ。
「この秋名で一番早い走り屋ってのは?」
 身に付いた習性で、抜き去る時に確認したナンバーは群馬のものだった。地元のヤツに声を掛けたのはこっちを聞きたかったからだ。
「いっちばん早い?あ。ひょっとしてハチロクに挑戦しようと……秋名に?」
 ダンゴ顔の少年が上目遣いに尋ねる。
「あぁあーん?俺達がハチロクに挑戦―――っ!?」
 呆れ返った清次は背後を振り返った。
 つかの間清次と視線を合わせた京一は、無言のまま薄く笑んで眼を伏せると、手にした煙草を銜えてゆっくりと紫煙を吐き出す。我が意を得たとばかりに清次は向き直り、嘲笑とともに少年へ返す。
「へっへへへ。冗談は顔だけにしてくれよぉ。レヴィンの少年。ハチロクに勝っても誰も褒めてくれねぇよ。それどころかチーム仲間に笑われちまうぜぇ。ハチロクなんか乗ってる奴ぁ、アウトオブ眼中!頼まれたってバトルなんかしねぇよっ!」
 聞いた相手が悪かったかとばかりに言い捨て、京一を促してその場を立ち去ろうとした清次の背に、激しい声が掛かる。

「秋名のハチロクを一度も見たことないクセに!」
 二人の足が止まった。
「んぁあ?」
 身体ごと向き直った清次の口から、獰猛な唸り声が漏れた。
「そう言うこと……言わないで欲しいな!秋名のハチロクはまだ一度も負けたことがないんだ!FCにもFDにも!RBにだってっ!」
 ダンゴ顔の少年がいきり立って叫ぶ。
「ほぅお。そりゃあ……よっぽど下手なヤツが乗ってたんだろう?」
 相手はまだ子供だと思い直し、宥め賺すように言いながら清次は自分の顎を撫でさする。
「下手じゃないよ!県内でもトップクラスの走り屋ばっかりだよ!」
 両の拳を握り締めて叫ぶ少年。
「トップクラスかぁ。レベル低いねぇ?群馬エリアも」
「な、なんだってぇ!!」
 自分の身体のゆうに倍以上はあるだろう体格の清次へ、無謀にも殴りかかろうとする。
「やめとけ!イツキ!」
 自販機の前から素早く駆け込んで来た栗毛の少年が、羽交い締めにした。思わぬ成り行きに清次も気色ばむ。そこへ背後から低く鋭い制止が飛んだ。

「お前もだ。清次。そこまで言うこたぁない……。喧嘩しに来てるワケじゃあねぇぞ」
 振り向いた清次は、京一の底光る視線に心臓を刺し貫かれる。
―――う、やっべぇ……。
 清次はぐっと怯んで口を噤むと、バツの悪そうな顔で天井を振り仰いだ。
―――学習能力のねぇバカが……っ。俺に何度同じ事を言わせりゃあ気が済む……
 常のことながら不必要なテンションを作る清次への苦々しい想いを奥歯でギリと噛み潰すと、京一は少年達の前に歩を進める。
「悪かった。俺の連れは口が悪くてな」
 真摯な態度で謝罪を口にする。
「いえ……」
 言葉少なに栗毛の少年が応える。
「誤解のないように一言言っておくが。そのドライバーをけなすつもりはない。きっと相当のウデだろう。だけどクルマがな。今の時代にはハチロクぁもう……ダメだ」
 穏やかな口調ながらも鋭い眼光を少年にひたと当て、それだけを告げると背後の清次を省みることもなく、きびすを返しエボIVへと向かった。
「そういうこと!そのドライバーに伝えとけ。も少しパワーのあるクルマにのってりゃあ相手にしてやらねぇこともねえってな。だけど俺達が負けるこたねぇ。峠の王者はランエボだ!」
 少年達に向かって指を突き付けながら言い放つと、清次は急いで京一の後を追った。

 京一は既にナビシートに収まっており、エボIVはアイドリングを終えていた。自分の身をもレカロシートに滑り込ませ、四点式シートベルトをセットした清次が様子を伺うように尋ねる。
「……京一?」
「出せ」
 正面を向いたままの京一が静かに応じ、清次はエボIVをスタートさせる。熱い炎を吹き込まれ、一時の眠りから覚醒したエンジンが唸りを発し、四つのタイヤは同時に勢いよく回転しながら路面を噛み大地を蹴散らす。ウィンドウ外の風景が瞬時にして視界を流れ出した。
 『皇帝』を意味する名を冠したチームのリーダーとその片腕は、空き地に置き去りにした二人の少年の視界から消失する。
「……っく、悔しいーっっ!!」
 ダンゴ顔の少年の叫びが、かすかに風に乗って聞こえてきたような気がした。

 スタートする瞬間サイドミラーにちらと目をやった京一は、佇む栗毛の少年に対して何がしかのものを感じていた。思索の触手を伸ばしてそれが何なのか掴もうとしたが、漠然とし過ぎている。とりあえずそのままの情報を頭の中の未整理の引き出しに放り込むと、速やかに頭を切り換えた。
「清次。チンタラ走るんじゃねぇぞ」
 軽く促す低い声が車内に響く。
「お、おう」
 清次はハンドルを握り直し、ぐんっとアクセルを開けてゆく。それに応えて愛車が力強い咆吼を上げ、車内に慣れ親しんだ加速時の振動を伝える。京一は休憩によって中断された作業へと戻っていった。
 コースを脳裡に刻み込む時の常で、無表情となった隣の男を見やる清次はほっとした顔つきになると、次第にエボIVのドライブにのめり込んでいく。京一が自分に怒りを残していない事を知った今、不興を買う原因となった先程の少年達の事は既にして、彼の頭からきれいさっぱり消し飛んでいた。


 この時まだ清次は。
 かの少年に大敗を喫する己の未来を知らない。






                                              ― 了 ―