ENDLESS RONDO


 











 「よ。何してる?」
 その声は突然、京一の背に浴びせ掛けられた。
 同時に、背後に感じた人間の体温。
「………!!」
 いつ忍び寄ったものか。
 つい最前までは確かに何の気配も感じなかったのに。
「貸してみな」
 どこか面白がっているような男の声は。
 京一のよく知るところのものであったそれは、あまりにも近すぎる場所――耳許――から聞こえていた。
 背後から素早い手が伸びてきた瞬間、それよりもいち早く京一の指が携帯のフックボタンを押下していた。
「…………」
 男は僅かに眉根を寄せて、自分が捕らえた手の中に握り込まれている携帯へと目を遣る。
 不自然に切断された回線に相手は不審を覚えたに違いないが――後日それをまたネタに何やらあげつらわれるのだろうなと京一は淡々と思いつつも――構ってはいられなかった。
 軽く息を吐いた京一は、気の進まぬ意識を背後の男へと振り分ける。

 寒風の吹きつける明智平パノラマハウス前の駐車場に彼らはいた。
 県内に帰って来ている事は知っていたのだが。
 だからといって、こんな場所にいていい筈のない男だった。

「どこから湧いた」
 京一は前方に視線を投げたまま、トモに問いとも言えないような問いを放つ。
 掌の中では今しも握り潰されそうな圧力を掛けられたシルバーグレーの無機物がギシリとたわみ、京一の拳を包み込むようにして手を沿わせているトモにもその軋みは伝わっていた。
「久しぶりだってのに随分なご挨拶だな、京一。会いたかったぜ」
 だがそれを全く気にかける様子ひとつ見せずに、どこ吹く風といった態度で馴れ馴れしく京一の肩を抱いた男は、更にその上へ顎を乗せて自分の唇を耳朶に近づけると、ふざけた口調で睦言のような言葉を吹き込んだ。
「…………」
 チラとだけ煩わしげな表情をよぎらせた京一は予備動作もなしに、背後へ張り付いている男へ向けて鋭く左肘を突き出していた。
 だが、一体どこに目が付いているのか、それとも京一の反応を見越していたものか。
 腹を締め、紙一重の必要最低限な動きのみで軽くスウェイしながらそれを避けたトモは、何事もなかったような平然とした顔で、京一の動きに合わせてすい、とまた元の体勢に戻っていた。
「俺の名前が聞こえたぜ……気のせいか?」
 くつ、と薄い笑いを含んでいる、猫が鼠をいたぶるような聞き慣れた響き。
「気のせいだ」
 対して。京一の気配からは完全に感情の彩は払拭されていた。
 トモが、かつて何度も耳にした声音。
 こちらからは見えぬその表情も恐らくは。
 かつて何度も出会ったそれを浮かべているのだろう。
 まるで目に見えぬ紗をかけたかのような無表情。
 ひいては、トモの存在に対する無言の拒否。
「チッ」
 こうなった京一からはもはや、何らかの反応を引き出すのが至難の技であるという事を、トモは嫌という程知っていた。
「全くもってお前が相変わらずで嬉しいぜオレは」
 悠長に、そんな態度すら懐かしいなどと寝惚けた事を思えるほどトモは年を嵩ねている訳では勿論無く。京一を嬲る事に無上の楽しみを覚えるという悪趣味な男は、拗ねた子供のようにつまらなそうな顔を見せながら言った。
「他に言う言葉はねぇのかよ」
 それでも遊び足らなそうな風情を見せながら、何かあるだろ?と催促する男に。
「ない」 
 京一はすげなく答えた。
「言いたい事はそれだけか。……どけ、邪魔だ」
 トモの拘束をものともせずに、京一は身を翻してその場を立ち去ろうとした。
「おぉっと。そう言われてハイそうですか、たぁ言うワケねえだろ?」
 はん、と鼻先で笑ったトモは、強靱な腕を伸ばして京一の肩先を引き戻す。
 男の顔の上には、得体の知れぬ笑みが復活していた。
 振り向いて何かを言おうとした京一の視線がトモのものと真っ向からぶつかる。
 男の瞳の奥底を覗きこむ事になった京一の動きが瞬間、凝着した―――ように見えた。
「………ッ」
それと分からぬ程の微かな憤りが、京一の双眸に浮かんで、消える。
 しまった、というような表情が僅かに一瞬、トモの顔の上を疾った。
「…………」
 京一だからこそ気付いた。
 トモだからこそ気付かれた事を悟った。
 二人の間へ唐突に生まれた気まずさは、だが、どちらからともなく巧妙に隠されて闇の中へと消失していった。


「さっき、この近くでランエボの群れに出くわした」
「うちの連中か」
「そうだろうな……でもお前のクルマがいなかったから」
 まだここに残ってるのかと思ってな。
 流した視線で漆黒の車体を見ながらトモが言った。
「…………」
 京一の返した無言が、空間を闇に沈める。

 トモは、京一が話していた内容の見当はついているだろうに誰から聞いたとも相手は誰だとも問わなかった。
 京一は、トモがなぜここに来たのか、なぜ初めて見るはずの自分のクルマを知っているのかを尋ねなかった。

 それらには理由なぞない。だが、互いに口にしなくとも分かることはある。
 否が応でも積み重ねてきた年月がある。更には、それだけでもなかった過去がある。
 京一は、広大な駐車場にただ一台だけ停まっているランエボに視線を投げているトモに目を遣った。
 歳月を挟んで今なお、この男の思考が視えてしまう自分が疎ましい。
「お前に会いたかったってのは、満更ウソでもねえんだがな」
 独り言のように呟かれた台詞が、京一の思考を遮った。
 小さく照れたような笑いを目元に滲ませた男の口の端は、同時に、微かな歪みをも刻んでいた。
 それを目にした京一は無表情のままに、顔だけをふいと背ける。
 何があったか知らねぇが。だが俺は。
 そんなものを見たくはない。見るつもりもない。
―――見せるな。トモ。
 苦々しさが喉元に込み上げる。
「クルマは」
 唐突に京一が口を開く。
 だが……。一度くらいなら、見なかった振りをしてやってもいい……。
「……下に置いて来たが」
 それがどうかしたか?
 尋ねる気配には答えずに、頷いた京一は背を向けて歩き出した。
「とりあえずそこまで行くぞ」
 親指を立てた拳を肩越しに投げて京一は、ついて来いというような仕草を見せた。
 乗っていけという事らしい。
「京一?」
 トモが訝しげな声を出す。
「宿は決まってるのか」
 京一は何の関係もないような事を聞いた。
「これから適当に探すさ」
「またクルマの中で一晩過ごすつもりか」
「馬鹿。いつの話をしてるんだ」
 男が苦笑する。
「走らねぇか、俺と。お前が勝てば今夜のねぐらを提供してやってもいい」
 ふと立ち止まった京一が、ゆっくりと振り返る。
 意外な言葉を聞いた気がしてトモは僅かに眼を見開いた。
 京一とオレが走る。
 その結果として自身が受け取るかもしれない結末に一筋ほども臆してはいない事が伺える鋼の双眸を見つめた。

 聞いた申し出にふと惹かれた下心を別とすれば。
 謂れのないそれであれば受けるつもりは更々ない。
 京一とて、他人にそういった施しを与えるほど甘い男ではない筈だった。
 だが、勝敗を賭けてその如何で決まるという事であれば結果は白か黒。はっきりと二つしかありえない。
 その代償としてという事であれば、トモには京一の言葉に乗る事への否やはなかったが。
 しかし。それであっても。
―――堕ちたか、オレも。
 闇の中で一瞬、苦しげな笑いが閃いた。

 口では何と言おうとも、走りには操る人間の精神状態が如実に現れる。
 並の人間なら気付かせずにおれたとしても、京一の眼を誤魔化す事ができない事は分かっていた。
 どんなに桧舞台で腕を磨き、その技術に格段の進歩を見せているとしてもその本質、その魂が変わる事はあり得ない。
 だから京一のその言葉は同時に伝えていたのだった。
 無様な走りを見せた時には俺の前から消えろ、と。
 トモは、無言の断罪を突きつけられたも同然だった。

「……お前、このオレに勝つつもりか」
 ようやく笑う事を思い出したようにニヤリと。トモが嗤いを見せた。
「そう簡単にいかせると思うか」
 京一が本気で言っているのは間違いなかった。
「ふん、そうか?」
 言いながらもトモは、どこかに置き忘れていたような感触がこの手へ確かに戻ってくる手応えを感じていた。
「忘れてやしねぇか。ここは俺のホームグラウンドだ」
「なら俺が勝ったら……」
 トモが京一の躰を睨め回す。チロリと覗いた舌先が乾いた唇の上を這った。
「寝場所だけだ」
 その目線の意味を悟った京一がピシャリと口にする。
「冷てえなあ」
 トモは詰るような口調でぶつぶつと文句を言った。
「嫌なら勝手にしろ」
 京一が冷え冷えとした声音を響かせる。

 常に怯む事のない双つの眼を爛と光らせる男。
 トモはそれが崩れたのを未だ目にした事がなかった。
 飢えた眼と餓えた心を厚い膜の下に覆い隠し、走りを追求して速さのみを全ての基準に置き、それ以外の何物にも。自分にすらも何の価値をも見出さず、一切の感情を殺したまま己の身を処して、伸ばされる数多の手に一欠けらの関心も抱かぬままで身を委ねていた、過ぎし日の青年の姿が瞼裏に蘇る。

 外に出ればそれなりの腕の持ち主として知られている人間が、少しばかり本気になって束になってかかったとて到底手の届かぬ速さと、他人を見下しているとしか思えない無関心な態度。
 塾内では私闘は禁止されていたが、塾の存在意義から言っても当然、序列を定めるのは速さだった。だのに、それへすらも何の関心を見せなかった京一は、一部の男達から目の敵にされる事も多かったが。
 自分の知る限り、京一は自らを貫き通していた。
 そして。
 あの双眸が、今またトモの眼前に在る。
 自分でもしかとは分からぬながらも不思議な感慨を覚えたトモの腹の底からは、ふつふつと沸きあがるものがあった。
 おそらくそれは。
 自分の所有物と印した男が、変わらずに孤高を保つ存在である事を目にしての誇りと。
 京一がそうした存在である事の。それ故の尽きせぬ憎しみ。

 この眼だったのかも知れねえな。オレが見たかったのは……。

 勝ったと思って快哉を叫ぼうと見返る度に、くそムカつくような無表情に出会った。
 勝ったのは俺なのに。こいつには何度、後味の悪い思いを味合わせられた事か数知れなかった。
 社長の目を掠めて伸ばされる数多の手に身を委ねながらも、触れる他人の全てを拒否する無反応は、塾内での誰もが知るものだった。他人の存在の一切を歯牙にもかけぬその驕り高ぶった−−今となってはそうではなかった事を知ってはいるが−−態度をしか見せぬ京一を踏みにじり、堕ちていく様を。哀願し、許しを求めて顔を引き歪める様を見たいばかりにさまざまな人間がさまざまな事をしたのを知っている。当時、最大の力を有していたトモも、ありとあらゆる手を使って京一を貶めた。こいつを完膚なきまでに叩き伏せて。全てにおいて捻じ伏せたいと思った。
 今となっては子供じみた嗜虐心だと思っていた。
 しかしそれならば、今また京一の姿を目にして思う事が同じなのは何故なのか。
 それとも自分が成長していないだけなのか。
 京一はいつでも、何某の感情を泡立たせる存在だった。
 そして今も。
 自分の心情の源を未だ知らぬトモの顔に自然、不敵な笑みが蘇る。
「ふん」
 取り付く島もない京一の態度に合わせて、トモは肩を竦めてみせた。
「……行くぞ」
 それを了解の合図と受け取った京一は、背を向けて歩き出した。
「……ああ」
 らしくない京一の言葉に同情を引いた自分を知り、狂おしさが滾っていただろうに。
 それを微塵も感じさせぬまま、底知れぬ深さを響かせる静かな声を返した男に。
―――お前もあの頃と変わってねぇよ。相変わらずだ。
 背後の足音を聞きながら、京一は低く胸に呟いた。


 やがて、二対の光芒と兇暴な波動が絡み合いながら彼方へと消え去って。
 全てを見届けた明智平にも、ようやく真の闇が訪れる事になる。






                                         ― 了 ―