ONE MORNING |
目を閉じている筈なのに視界が異様に明るい。 射るような朝の日差しが瞼越しに瞳の中へと突き刺さり、半ば暴力的に覚醒が促される。 どうやら既にカーテンは開けられているらしい―――と、混濁した意識の中で考える。 閉じたままの瞼の中を走る血管が、オレンジ色の瞼裏にうっすらと透けて見えた。 「……ん」 目を瞑ったまま眩しい光の届かない場所を求めて寝返りを打ちながら、右手を伸ばす。 無意識に温もりを求めて動く手に触れるのは、冷たくひんやりとした敷布の感触ばかり。 ぽっかりと、目が開く。 現れた真っ黒い瞳孔に、オフホワイトの天井が映り込んだ。 一度だけ強く瞬きをすると、ベッドに肘をついて気怠げにゆっくりと身を起こす。 躰の上からシーツが滑り落ちて、腰のあたりにクシャリと溜まった。 露わになった筋肉質な躰の上半身を、部屋に満ちる光がくっきりと浮かび上がらせる。 鍛えられたしなやかな背筋の上で、張りのある肌が射し込む陽光を跳ね返す。 立てた片膝に左肘を乗せて自分の顔を二、三度ほど擦っていたその手を、ふと止めて。 改めて自分の傍らを見下ろした。 真っ白なシーツ。残された皺。無人の空間。 温もりの跡形もなく、冷え切ったその場所。 「……いるわけない、か」 俯いて額を覆ったままの手の下で、トモはふっと苦笑した。 「……よお」 部屋のドアが開いて、トモが寝癖のついた頭を掻きながらぼうっとした顔で出てきた。 洗い晒したブルージーンズに、濃紺のシャツ。 腕を通して引っかけているだけのシャツの前から、引き締まった腹が覗いている。 「……」 リビングのソファに深く身を沈め、銜えたタバコから緩やかな紫煙を立ちのぼらせながら雑誌を読んでいた京一は、無言のままチラとだけ視線を上げて、また手元に戻した。 トモはそれを特に気にする風もない。 わずかに顔を上向けると鼻をヒクつかせて、くん、と空気中の匂いを嗅いだ。 以前の記憶にあるのと同じく、部屋の中には香ばしいコーヒーの香りが立ちこめていた。 豆の種類がその時々によって違うのかどうかまで、トモにはよく判らなかったが。 京一は、ごく少量単位でしか買い置きをしない豆を手動のミルで挽き、コーヒーメーカーを使わずに自分の手で、ゆっくりと時間をかけながら優美な形をした青いポットの細長い口から湯を落とす。きめ細かな焦げ茶色の粉がふっくらと蒸らされてぷつぷつと泡立ち、注がれた湯は芳しい豆の香を辺り一帯に漂わせながら濃褐色の液体となって、透明なサーバーの中へ満ちていくのだ。 どうやらこれに関しては京一なりのこだわりがあるらしい、とトモは思っていた。 京一は、リビングテーブルに置いたマグカップに時折手を伸ばしては口許に運んでいる。 注いでからは既に時間が経っているのか、湯気は上がっていなかった。 「オレの分もコーヒーあるか?」 飲むと事前に言っておかないと大抵、無情にも自分の分しか淹れない京一を知っているトモが、そう尋ねる。 京一はクイと顎で指すだけの最小限の動きで、キッチンカウンターの上に置かれているコーヒーサーバーを示した。 聞かずに自分で見ろと言いたげな、煩わしげな仕草だった。 ホットウォーマーにセットされているサーバーに目を遣ると、三分の一程度の量が残っているのが見えた。 どうやら今朝は、多めに淹れたらしい。 「お前、早く起きるのは構わねーけどオレも起こせよ。勝手にベッドを抜け出されんのは嫌いだって何度も言っただろう」 そう言われても京一は、誌面から顔を上げもしない。 トモがここへ泊まった翌朝に京一の機嫌がよかったためしはないが、今朝は特にひどいような気がする。 いつもながら無愛想な態度の京一に肩を竦めながら、トモはキッチンへと足を向けた。 淹れたからといっても当然、注いで持って来てくれないだろうかなどというような甘い考えを京一に期待しても、するだけ無駄だという事は今までの経験で十分に分かっていた。 キッチンのシンク脇に置かれた洗いカゴの中で水切りされていた自分のマグカップを取って来たトモは、サーバーの取っ手を掴み、持ち上げてコーヒーを注ぐ。 視覚へ突き刺さるように鮮やかな濃褐色をした液体が、温かい湯気を上げながら白磁の陶器の底へと滑らかな渦を巻いて流れ込んでいくのは、いっそ爽快な眺めだった。 カチャン。 サーバーを元の位置に戻したトモは、縁までなみなみと注いだカップを口許に運ぶ。 唇に当てたカップの中で、円形の波紋が揺れている。 深くローストされた豆に特有の、焦げたような香りが鼻先をふわりと包んだ。 舌を火傷しないように気をつけながらも大きくコク、と含んだ一口目を味わいながらゆっくり喉の奥へ送り込むと、熱い液体が食道を通って胃の腑に落ちていくのが分かった。 口腔いっぱいに充満した芳醇な豆の香りと同時に訪れた強烈な苦みが、殴るような乱暴さでガツンとトモの脳髄を刺激して、起き抜けの意識が揺さぶられる。 記憶にある限りの朝に、強く濃いコーヒーを京一は淹れていた。毎朝の習慣なのだろう。 良質な豆であるらしく味はいい。それは判るのだが、もう少し薄目に淹れた方がより一層旨いのではないかと、トモは飲む度に思う。しかし京一が淹れたものの相伴に預かっているだけの自分が何を言う筋合いもなく、いつもおとなしくそれを口にしていた。 一口飲んだだけで早くも頭がはっきりしてきたトモは、ゆうべここに来る事になった最大の原因とそれに起因する京一への頼み事とを思い出した。 「なあ、京一」 カウンターに肘を乗せて寄りかかりながら、ソファにいる京一の背へと声をかける。 呼びかけても相変わらず無言の京一を、トモはコーヒーを啜りながら辛抱強く待つ。 「なんだ」 ようやくの、短いいらえ。 「わりーが当分の間、オレをここに置いてくれよな」 置いてくれないか、と疑問形ですらない唐突で強引にすぎる頼み。いや、京一は知らずともトモの中では既に、ここへ居座る事は昨夜からの決定事項であったのだが。 「……」 こちらに背を向けている京一の気配が一瞬、静まり返る。 「業者を呼んでるヒマがないんだよ」 その背を眺めながら、トモが重ねて畳みかけた。 トモの住んでいる部屋の風呂釜は老朽化が進んでいた。いつかそうなるだろうとは思っていたのだが、どうやらゆうべをもってとうとう御臨終になったらしい。 風呂を焚こうとした所、うんともすんとも言わなくなっていたそれを前にして溜息をついてはみたものの、さっさと見切りをつけたトモは昨夜遅くにここへ転がり込んで来たのだった。ゆうべのうちに、京一もそのいきさつは聞いていたが。 「他にもアテはあるだろうが」 よそを当たれ、と素っ気なく返す。 何も京一の家でなくとも、トモを慕う人間はいくらでもいる筈だった。それこそ一声掛ければ先を争って仮の宿を申し出ようとする輩が群をなして、反対にどこを選ぶか迷うぐらいには。 その他にも―――。 だが。 「ここがいい」 トモは、それだけを言った。 京一は手元の誌面を凝視する。 誰に提供されるのでもなく。オレがそう望む、と。 決して強くはないが、ひたと据えられている視線を背に感じた。 ―――この男はいつもそうやって。 静かに瞼を閉じて、開く。 「好きにしろ」 僅かな沈黙の後に京一はそう口にした。 「上辺だけでもいいから、ずっといてくれ、ぐらいは言ってみろよ」 とりあえず許しは出たらしいと知ったトモが、からかいを含んだ声で軽口を叩いた。 「言って欲しいのか?」 前を向いたままの京一が今度こそ、いい加減にしろとばかりに寒々とした低い声で尋ねる。 「……いや、いい」 それ以上余計な口をきいたら逗留するどころか間違いなく今この時点で即刻、叩き出されそうな気配を感じ取った男は肩を竦めると戯れ言――京一にとっては――を引っ込めた。 先に済ませておくべき用件が落ち着いたところでとりあえず一服、と視線を彷徨わせて自分のタバコを探そうとしたトモは、その箱を寝室に置いて来た事を思い出した。 だが、取りに戻ろうと歩き出した足を、ふと止める。 「あ……ゆうべのがラスイチだったか」 口の中で呟いた。 買いに行こうと思えばタバコの自販機は、このマンションの一階に設置されている。 二,三分もあれば往復できる距離ではあったがトモはもう、すぐに外出する予定だった。 少しの間、我慢すればいいかと考え直して、せめてソファでくつろぎながらコーヒーを飲もうと躰の向きを変えたトモの視界に入ったのは。 こちらに背を向けている京一の周囲に、ふわ、と漂っている緩やかな紫煙。 そして鼻腔を擽る、特徴のあるシガーの香り。 買いに行かずとも京一から一本貰えばいいだけの話なのだが、その銘柄はトモのものとは違っていた。 それが嫌いな訳ではなかったが、起き抜けの一本には好みのものを吸いたいような思いが、まだいささかは残っている。 だが、人が吸っているのを見ると自分の我慢が無性に腹立たしく思えてしまうのが人情というものであった。 「一本くれ」 京一の眼前に、ソファの背後からヌッと左手が突き出された。 「ない。これが最後だ」 相変わらずトモの方を見もしないで京一が、すげない口調で言った。 「お前もかよ」 トモが軽く天井を仰いで、ハァ……と嘆息する。ないと分かるとなお一層、物欲しくなった。 「しょうがない。なら、それ一口」 京一の手にあるタバコを指差す。 それは本来の長さの中程までが既に灰になっている。 「……」 トモに短い一瞥を投げた京一は指に挟んでいるタバコを自分の口許に持って行き、深く一服を吸い込む。次いで面倒臭そうにしながら、勝手に吸えとばかりにタバコを持った左手をそのまま肩越しへわずかに持ち上げた。 「ああ」 それを受け取ろうとしたトモの手が、ふと止まった。 京一の、節の張った長い指。目を吸い寄せられる。 人差し指と中指で挟まれた茶色いフィルター。 煙草の葉は火口に点る高熱の焔に燻されてフィルターを通り、唇の中へと吸い込まれる。 京一の、唇の中へ。 白い断面を見せる吸い口の中央には、円形に近い薄茶の影。 フィルターをその唇に銜えていた京一の、呼気が出入りした痕。 タバコを持っている京一の手首が、がっしりとした手に緩く握られた。 同時に京一の右肩へ温もりが乗せられる。トモのもう片方の手だった。 密着した背後の男の体温が、京一の背中に伝わる。 掴み取ったその手首の先に、トモがすっと顔を寄せて。 軽く開かれた薄い唇が、最前まで京一が銜えていたそこへ触れて、覆った。 京一の唇を感じさせるかすかな温もりが残っているような―――錯覚。 数秒前に京一の息遣いが通ったのと同じ箇所を通らせて、トモがゆっくりと息を吸い込んだ。 暫しの静けさが二人の間を満たす。 ふぅ―――……ッ。 深く熱い息が、京一の耳許の空気を震わせる。 トモの呼気に紛れて吐き出された紫煙が、周囲にユラリと淡く漂った。 「やっぱり、そう旨いもんじゃないな」 「人のを吸っておいて、贅沢言ってるんじゃねぇよ」 京一が、ジロリと睨む。 「間接キス、だな」 そんな事では今更こたえないトモが、人の悪い顔で笑いながら思いついたように言った。 「……」 京一は無言で瞼をゆっくりと一度、瞬かせる。 「何だよ、その顔は」 軽蔑したような表情を見せられて、トモが京一に絡む。 「今更、間接キスも何もねぇだろうが」 京一の顔ははっきりと、バカか?と言っていた。 「ふん。それもそうだな」 トモがニヤリとする。 「お前とはキスどころか全部、ヤってるもんな」 冷たい蔑みを浮かべたまま京一は顔を背けたが、トモは逃がさず横から手を伸ばして、誌面に目を向けようとした京一の顎をグイと捕らえる。 強い力で顎を引き寄せてこちらを向かせると、有無を言わせぬ強引さで唇を合わせた。 「……ぅぐっ」 無理な姿勢で後方へと顔を引かれた京一が、思わず呻き声を漏らす。 構わず、トモは更に深く口吻づけた。 反応を見せようとしない京一の口蓋を、伸ばした舌でくすぐるようにしてなぞり上げる。 京一の舌を引き出すと、自分の舌でくるみ込むようにして強引に吸い上げた。 焦らすようにザワリと緩く舐め回す。 ひくりと蠢いた京一の舌が躊躇うようにしながらもトモのそれに、ゆっくりと絡みついた。 「……ふ…」 二人の間に熱い息遣いが漏れて、零れる。 トモの手が京一の躰を辿り、シャツの裾からスルリと潜り込んだ。 肌の上を伝いのぼった手が胸の上を這い回り、親指と人差し指で潰した乳首に爪を立て、強く弾く。 「……ウ」 腕の中の躰がびくりと跳ねて、顎が小さく仰け反った。唇が外れて、絡み合っていたピンクの舌が濡れた光を放ちながら踊るのが、チロリと覗いた。 「よせッ」 京一がトモの手を振り払う。戻す手で唇を拭った。 「ゆうべあんなにヤったのに、まだ足りなかったか?」 わずかに息を乱している京一の顔を覗き込んで視線で嬲りながら、トモが親指ですうっとその頬を撫で上げた。 トモの言い草に、ただでさえ眦が吊り上がっている京一の双眸の、黒目よりも白い部分の優っているその部分の青みが更に増して凄味を帯びる。 だが、揶揄するような口調でそうは言ったものの、自分から仕掛けておきながらトモ自身も、最前の濃厚な口吻けと自分を睨み上げる双眸に、身の裡へ昨夜の熱い疼きを再び呼び覚まされていた。合わせた肌の、燃えるような熱さを思い出す。 チラと壁の時計に眼を遣った。 ―――タイムアウト、か。 心残りではあるが、当分の間はここにいるのだからまたいくらでも機会はあると思えば諦めもつく。 「お前、今日は?」 身を起こして立ち上がりながら、予定を尋ねた。 「別に」 一仕事終わったばかりで今日からはオフの京一が、憮然とした表情のままで答える。 「じゃ、俺はもう出るぜ」 「……」 京一はただ、顎を引くにとどめた。 「京一。行ってらっしゃいのキスは?」 懲りていないらしいトモが、ニヤニヤしながら指先でとんとん、と自分の唇を叩く。 「ふざけろ」 京一が、凍る声で切り捨てた。 「ちっ」 つれない情人にトモが舌打ちをする。 手にしていた雑誌を読み終わったらしい京一は、相手にしていられないという風情をありありと見せながらソファから立ち上がって、私室へと躰を向ける。 あきらめたトモが玄関に向かう為に京一の横を通り過ぎようとした時。 すれ違いざまに京一の足が止まり、次の瞬間には既に背後へと歩き去っていった。 トモの頬の上を一瞬。掠めていったのは、乾いた唇の温かい感触。 「……」 視線で京一の背を追いかけながら、トモが自分の顔へとゆっくり手を持ち上げる。 人差し指の背でその箇所をそっと撫でた。 「何だ」 見つめられている気配を感じた京一が、私室のドアの手前で肩越しに振り返る。 その顔は既に、どんな表情も浮かべていない。 「無愛想なツラでされても、あんまり嬉しくはないもんだな」 軽い冗談を言うようなトモの口振りだったが、それには驚いたような響きが隠しきれなく滲んでいた。 「知るか」 感情の伺えない声でそう言い捨てると、京一はドアノブに手をかけた。 「じゃあな」 その背に、トモが声をかける。 それに対するいらえはもはや無く、パタンと扉の閉まる音だけがトモの耳に返った。 「ま、しょうがないか……」 愛想の欠片もない京一の態度に溜息をつきながら玄関に向かう。乱暴に靴へ足を突っ込むと、ドアを開けて外に出た。 燦々と朝の陽光が降り注ぐ中へと足を踏み出す。 「ったく、つれないヤツだぜ」 ガチャリ、と後ろ手でドアを閉めながら呟く。 だが、穏やかな春の風を頬に受け止めながら鼻先でフン、と不満そうにそう独りごちて歩き出したトモの唇は、かすかな曲線を刻んでいた。 部屋の扉を背にして立っていた京一の耳は、トモの閉めたドアの音を捕らえていた。 ―――行った……か。 今まで堪えていた泥のような疲れが一気に京一へと襲いかかる。 ダンッと扉に背を押しつけて、崩れ落ちようとする躰を繋ぎ留めた。 気力も体力も既に限界だった。 ここ暫くの間の、神経を張り詰めながら根を詰めていた仕事で溜まりきっていた疲労と睡眠不足。にも関わらず煽られるようにしてなし崩しに始めてしまった、ゆうべの激しいセックス。そしてそんな躰を抱えたままで、今朝は早く起きざるを得なかった。 これらの相乗効果であるのは間違いなかった。 ―――だらしのねぇ。 早起きだなと口にしたトモのあずかり知らぬ事であったが京一は夜型であり、元より眠りに就く時間は遅く、そして朝が苦手だった。 毎朝決められた通勤がある訳ではなく、仕事が入っていない時期には躰の目覚めるにまかせた遅い時間に起床していた。 人のもたらす体温を無性に好む京一だったが、眠る時にはその気配を感じると神経が冴えてささくれ立ち、深い眠りに落ちる事ができない。 何故そうなのかと追求する事もなく、深く考える必要性もないままに京一は、そんな自分の有り様を受け入れていた。 ベッドの中で隣に人がいると、ただでさえ遅い就寝時間が更に遅くなり、ついには明け方になる事が多い。そういう朝は、とろとろと微睡むだけのほんの浅い眠りが得られるだけだった。 しかし徹底的に寝起きが悪い京一は、たとえ微睡むだけであっても頭と躰が目覚めるまでにはそれなりの時間を必要とする。 だが、普段一人でいる時には何らそれを感じる事はないのに、人と熱を分け合った翌朝、相手が既に出ていってしまった後の部屋に一人目覚める事を、京一は好まなかった。 『勝手にベッドを抜け出されんのは嫌いだって何度も言っただろう』 トモの声が耳に返る。 ―――残念だったな。俺も嫌いなんだよ。 フン、と鼻先で笑う。 誰かとベッドを共にした朝にはその相手よりも先に起きるのを常としていた。 早く起きてコーヒーを淹れて。普段の姿を取り戻す時間と手段を手に入れる。 強すぎるとトモに思わせるコーヒーは、そんな京一が自分へ強制的に目覚めを促すための手段のひとつだった。必要以上の濃度と苦さはその為であり、故に京一が自分にだけ淹れている事を、トモは知らない。また知らせる必要もない。 ―――だがさすがに、な。 深く息を吐いて、片手で額を覆う。 ゆうべは、強引に京一を欲したトモと何度も抱き合い、深く躰を重ねて狂ったように熱を放った。 狂った、ように―――。 『抱かせろ』 暗がりに底光る双つの眼。爛と。のし掛かる影。喰らおうと。 『聞くかよ』 凍る否定。余地のない拒絶。 振り払おうとし――て―――。 『抱き…たい』 押し殺すような掠れた呻き。首筋に埋められた動かぬ額。両肩を鷲掴んだ強すぎる力。 凝視した虚空。滞空する―――時間。 一瞬の遅延。 『なにす……ッ!』 布地の裂ける喘鳴。バネのように撓む背筋。繰り出される膝。容赦のない。鈍い打撃音。 激しい揉み合い。膨れあがる気配。拮抗する力。荒い息遣い。薄氷の均衡。停滞。 『きょう、い、ち』 祈りのように。微か。 塗り込められた暗闇で。 共に堕ちろと焦がれるように吐くように囁くように。何故。 ならば光ある場所で見せるあの―――。 否。視るな。不可。抹消。――――完了。 静止。宙に移ろう視線。闇に溶けた嘆息。抜ける強張り。静寂。 蠕動する空気。蠢く四肢。這い回る湿った肉片。刺すような痛みが残す痣。 噛みつくような口吻け。強く吸い上げられる乳首。腰骨の上を辿る尖った舌。 触発される扇情。 熱を帯び疼く腰。勃ち上がる欲望。支配する本能。求める躰。伸ばされる腕。 伝わる互いの硬い昂り。どくどくと波打つ血流。跳ね回る舌。貪り合う濡れた音。 濡れ、た―――。 『―――ッア!……あああ…あ……!!』 侵入する怒張。血の下がる異物感。昏い予感。兆しそして奔流。強烈な。 『ち…く……しょうッ!!……キツ…い…』 深く奥までを貫くペニス。我を忘れて突き入れる腰。鋭い刺激。波を堪える唸り。 『バカヤ……ロ……』 駆け抜ける快感。ぬめる摩擦。反り上がる背中。放たれる喘ぎ。染まる双眸。 『ウルセ…ぇ……よ!!』 痺れる先端。荒ぐ呼吸。暴れ回る凶暴な愉悦。止まない律動。 『―――――――――ッ!!』 暴走する体内温度。溶ける自我。融合する意識。彼我の消滅――――。 縺れ合って一つに繋がり、闇を織り交ぜて絡み合う躰が撒き散らしたのは。 互いを灼き尽くすような激しさで荒れ狂った、滾るような熱。堪えようのない。 互いに繰り返す吐精。白濁。引き絞られる射精感。絶頂。迸る欲望。精液。 『キョウ…イチ……ッ!!』 燃えるような熱を孕んで名を呼んだ、声―――。 声。 耳に返り、頭蓋に響く。轟と―――。 声。 「―――ッハァ、ッハァ……ッ」 肩で大きく息をしながら、瞬きを繰り返す。 ―――く…そ……ッ。 まざまざと脳裏に甦った自分達の痴態を、頭を振って追い払う。 ―――挙げ句に…このザマかよ。 自嘲した。 する事を終えてしまえば後はさっさとベッドから追い出してしまえばいいようなものなのだが、それでも、温かな熱を人肌を傍らにしていたいと感じる自分の思考回路は、我ながら笑止だった。 昨日まで大詰めの仕事を抱えていた京一は、ただでさえロクに寝ていなかった。今朝はのんびりと朝寝を楽しむ予定だったのに、ゆうべいきなり転がり込んできたトモのお陰でそれは跡形もなくブチ壊された。 それが今日一日の事であったのならまだ我慢のしようもあったのだが。 ―――当分の間だと? 「勝手な事を」 一度決めた事であれば京一が何を言ってもトモはどうせ引き下がるまい。付け焼き刃のような理由を口にしてみてもあの男は自分の望むようにしかしない事は分かりきっていて、それくらいなら、と許可を出した。しかし考えてみれば続くゆうべのあれだとて、結局はトモの思惑に乗ってしまったようなものだ。 勿論、流されたも同然の自分が忌々しくない訳ではなかったが。 常日頃はからかうような皮肉な笑いばかりを口許に浮かべている男だった。 何を言われようと、それが口先だけの事であれば京一が見抜けぬ筈もない。 そうであれば何らの感慨もなくあっさりと切り捨てる事などたやすい筈なのに。 あの男の口調の中に時折滲む、喩える事のできない響きのようなものが何故か。 いつも京一に最後の最後で否やを言わせはしないのだ。 トモが垣間覗かせる何かをそれ以上知りたくはなくて。知るつもりもなくて。 肯定する事で、言葉を封じる。 きっとトモはそんな京一を知っている。だからこそああして―――。 京一は苦い思いを噛み締める。 ―――俺達は。 「……馴れ合っているのか」 それとも―――。 京一は深く息を吐いて、考えるのをやめた。 この住まいは、知人から破格の安値で譲ってもらった部屋だった。特に使用目的もなく譲り受けてしまったが一人暮らしの男には分不相応なまでに広く、二LDKの間取りである。ご丁寧なことに前の住人は家具も残していってくれた。 今私室にしている部屋に二つ置かれていたベッドのうちの片方を、残る一つの部屋に放り込んである。 ゆうべもトモにはそちらの部屋をあてがったのだが深夜にやって来た男はそのまま戻らずに、二人の残滓で汚れたシーツを取り替えた後も結局、京一のベッドに泊まって行ったのだった。 ―――今夜からは、向こうで寝てもらうぞ。 自分の安眠の為にもそう胸に刻むと京一は、とりあえずゆうべ寝そびれた分を取り返そうかと考える。 部屋の中には、起きた時からはもう大分軌道が動いている太陽が投げかけている陽光が満ちて、眩しいほどになっている。着ていた服を脱ぎ捨てながら顔を上げると、そこには今の京一にとって何よりも価値を持つ光景が具現されていた。 真っ白なシーツ。射し込むまばゆい光条。 春の陽射しを受けて程良く暖まったベッド。 「……好きなだけ惰眠を貪ってやる」 唸るように呟く。 怠い躰を横たえてシーツを胸元まで引き上げる。 全てを頭の片隅に追いやって瞼を閉じると、睡魔はすぐに訪れて。 間もなく京一は、深い眠りに落ちていった。 今日という日はまだ、始まったばかりだった。 爽やかな陽の光が、無人のリビングに満ちて。踊る。 ― 了 ― |
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