after the rain plus














  部屋の中で、唐突に電子音が鳴り出した。
「れ?……ちょっと待て」
 話をしていた相手の声をさえぎった速見は身をひねり、床の上に投げ出してあった携帯電話へと手を伸ばしてひょいと拾い上げる。
 ディスプレイの表示を一瞥すると、通話ボタンを押して耳へと当てた。
「はい、オレです」
 応答すると、聞き慣れた低い声が流れ出す。速見が所属するチームのリーダー、須藤京一からのものだった。
「今ッすか。ええ、まあ。動けるかってことですか。…………ああ、いいッすよ」
 向かいにいる男にちらりと目をやった速見だったが、視線を戻すとそのまま平然として電話の相手と会話を続ける。
 訪問者であるその男もまた、悠然とした態度を崩さずに煙草を口元へと運んでは紫煙を吐き出している。
「運べばいいんですね。―――了解ッす」
 相手の台詞の中にあった車名へかすかな反応を見せたものの、それを気取らせぬ声で速見はオーダーを受け取った。
「で。肝心のソイツが置いてある場所はどこです?」
『―――使用後の感想を聞きたいと言っていたな』
 答えとも思えぬそれを耳にした速見の眼が、記憶の中を探るような光を浮かべる。
「……なるほど。で、京一さんちに持って行けばいいと」
 何か思い当たる節でもあったのか、再びあっさりと会話を繋げた。
「ところで今更なんですが。それ、オレがステア握ってもいいんスか」
 ごく浅く笑うような響きが速見の声の中に入り交じる。
「……じゃあ今から出ます。裏手に停めてキーは下のポストに入れときますんで拾ってください」
 かすかに口元を笑ませながらそう告げて、電話を切った。
「来たばっかりの所にすまねえんだけどよ―――」
 向いに座ったまま沈黙を守っていた男へと視線を向ける。
「呼び出しか」
 言葉の先を男が拾った。
「ああ。久しぶりだってのにな。今日のところは帰ってくれねえか」
 悪びれずに言いながら片目をつぶる。
「いいさ。仕事でこっちに来る用事があったついでだ」
「そのうちまた寄れよ。……で、オレは、と。こんな雨の日でも気前よくアシ出してくれそうな女を探さねえとな」
「相変わらずだな。こっちでも……女、か」
「うるせえよ」
 喉の奥で低く笑った大柄な男に簡潔な言葉を投げつけた速見は、肩までの長さがある髪をばさりとかき上げながら携帯の番号表示を繰り始める。京一からの依頼は、チームの人間を駆り出すわけにはいかないものだった。
「速見」
 向かいから静かな声が掛かる。
「んー?」
 呼ばれた男は、相手を見もせずに声だけを返した。
「アシが要るのか」
「そ」
「俺じゃ、役不足か」
「―――――」
 男の言葉に、速見がゆっくりと視線を上げた。
 その顔の上にはどんな表情も浮かべてはいない。
「今でも俺は…………お前の役に立てるか」
 無言の視線に晒されながら男が言った。
 その男にはどこか不似合いな、わずかに力の欠ける声。
「これはオレの――エンペラーのサードとしての仕事だ」
 お前を関わらせるわけにはいかないと、明確な意図のこもった口調で速見が告げる。
 ここ栃木からは距離のある関東南部だとはいえ、男は他チームの幹部―――トップに次ぐ立場にある人間なのだ。
「関係ない。ここにいる俺はただの一個人だ。好きに使え」
 男が向けてくる視線は記憶の中にあるものと同じだった。
 穏やかな光を湛える双眸。
「そうか。それなら―――指示通りに動けよ、シドー」
「……I,sir」
 余計なことは、聞くも為すも一切を禁じると言外に告げた速見に、志堂と呼ばれた男は静かに応えた。








「この辺でいい―――停めろ」
 雨粒の流れ落ちるウィンドウをこんこん、と指の背で叩きながら速見が男に声をかけた。
降りしきる雨の中、銀のR32がゆっくりと停止する。
「お前はもう帰んな」
 ドアを開け戸外に降り立った速見が、振り向いて言った。
 だがそれとなく周囲を見渡しても目を引くようなものは何もない。目的のものまでにはおそらく、まだ少しの距離があるのだろうと思われた。
「俺の方にはまだ時間の余裕があるぞ」
 車を届けた後で自宅に戻るための足が要るだろうと、志堂がコクピットの中から尋ねるような視線を向ける。
「―――いいんだよ」
 その言葉で、拾いに行く車を速見は自分に見せたくないのだと悟った。情報をもらさぬために排除する気なのだと。情がないわけではなくそれが速見なりのルールなのだとも。
「そうか」
 それが分かる志堂は胸中に複雑なものを秘めながらも引かざるを得ない。であれば、伝えるべき事があった。
「実はな、今日寄った目的をまだ言ってなかったんだ」
 口調を事務的なものに切り替えて、車外に立つ男を見る。
「お前の探してるヴァルキューレだがな。真木のところにネタが入った」
「―――メンバーだった女を見つけたか」
「そっちは相変わらずだ。そうじゃない。お前から引き継いだ情報ルートの一つから流れてきたんだが。最後のヘッドだった女は……カノンと呼ばれていたそうだ」
「間違いじゃねえのか。―――フレイアのはずだ」
「俺もお前からそう聞いていたからな。まあ、どちらかが本名なのかも知れないが……同一人物だとは限らない。真木によると話を持ってきた奴も噂で聞いただけらしい」
「カ…ノン?まさかあれは………人間の名前だったのか」
 志堂の報告の途中からふと、どこか遠くの一点を見つめていた男が低く、噛みしめるような声で呟いた。
「速見?」
「てっきり……カロンだと思ってたんだ」
「……何のことだ?」
「あいつが最期にそう言ったんだよ。…音が似てたんだな」
 声が掠れてたんでよく聞こえなかった。
 そうか違ったのかと、呟くように言ってかすかに笑った。
 それでもまだ尋ねる眼を見せている男に再び口を開く。
「カロンてのはな。北の神話の―――アケロン河を渡って死者の魂を冥界に連れて行く爺さんで。日本風に分かり易く言えば……三途の河の渡し守だ」
 聞き終わった志堂が何とも言えぬ表情で速見を見つめた。
 瞼裏へと甦る光景に、男達の眼の奥で炎がまたたき。
「―――――」
 一瞬の激情を走らせたふたつの視線が絡み合う。
「………………」
 だが自分を取り戻すのも一瞬だった。何気ない間が空く。
「―――ここからの帰りだけどな、気の荒い連中もいるから気をつけろよ。このステッカーじゃ道は開かねえぜ」
 リアウィンドへと親指線を投げた速見は、知らなきゃどうしようもねえからなと言って肩をすくめた。
「気をつけろだと。誰に向かって物を言ってる」
 口の端を歪めてうすく笑った男の表情が酷薄なものへと変化する。
「あぶねーヤツ。オレは不運な連中に同情してやるよ」
 速見の唇がにいッと吊り上がり、笑いの形をかたどった。
 闇夜を支配する悪夢の化身。だがその名を―――名の持つ意味を知らなければ避けることもできない。
「お前にだけは言われたくないぞ」
 男の表情が憮然としたものになる。
「そんなもんかね。ま、いいさ。付き合わせて悪かったな」
「何だ今更。何年もお前の下でこき使われていたことを思えば、こんなものが数のうちに入るか」
 苦笑しながら言った志堂だったが、ふと表情を戻し。
「―――お前は命じればいい。…………速見、今でも俺のアタマはお前だけだ」
 聞こえぬほどの低い声で呟いた。 
「何言ってんだよ、オレはもう降りたんだ。マキに聞かれたら蹴り殺されっぞ。か、ゼファーで轢き殺されるか」
「あいつも俺と同じだよ。お前だけだ……俺達のヘッドは。昔も……今もな」
 穏やかな声が、冗談にしてしまおうとする速見の言葉に付き合うことを自分へ許さず、丁寧にすくい取る。
「お前が降りた時にチームごと潰してもよかった。それでも真木は、お前の帰る場所があるようにと思って続けてるんだ。あいつはお前が戻ったら全部返すつもりだ。だから、その時に……あの頃と同じ状態で渡せるようにってな」
「戻らねーよ。それに……同じだなんてあるわけねえだろ」
 男の言葉を聞いた速見が少しだけ明るすぎる笑顔で笑う。
 自分が戻った所で、欠けた一角だけは二度と埋まらない。
「それでもだ。それでも、なんだよ……速見」
「―――全部終わったことだってのにな」
 くつ、と低く声をもらしながら速見が下を向く。
「ったくあいつもお前も。…………大バカ野郎どもが」
 雨に濡れた地面の上に、静かな笑みが落ちた。
「お前が気にする必要はない。俺達が勝手にそう思ってるだけだ」
 それだけを志堂は言って。だからお前はいつでも好きな時に帰って来いという台詞は喉の奥深くへと飲み込んだ。
 速見に悟られぬよう静かに息を吐いて前へと向き直り、ステアを握りシフトノブに手をかけた。
「―――シドー」
 その声にもう一度振り返る。
 銀の雨がけぶる中、一歩を近づき車内の男へと手を伸ばした速見が、ゆっくりと身をかがめた。


「アシの礼だ」
 短く言うと、シルバーのボディから身を離す。
「無理にそんなことをしなくても……お前は俺に命じるだけでいいと言っただろう……」
 疲れたような声でそう言ってため息をつきながらも、志堂の右手はぎり、とステアを強く握りしめていた。
 その手が意志を離れ―――再び自分の前から去っていこうとする背を引き止めてしまわないように。
「これで貸し借りはナシだ」
「速見……もうすっかりこっちの人間なんだな」
 やるせなく笑った志堂の眼の奥に、それと分からぬほどにかすかな痛みの影が覗く。
「―――行け」
 それには答えず速見が顎を振った。
 指令を下すことに慣れた者だけが持ち得る声の響き。
 放たれる命に、もとより志堂が逆らえるはずもない。
「I,sir …… head, Hayami」
 望まれるただ一つの答えを低く返し、服従の意を告げる。
「またな」
 表情を動かさず当たり前のようにそれを受け止めた速見は、いつまた相まみえるとも知れぬ男にあっさりと背を向けて歩き出し―――二度と振り返ることはなかった。






「けっこう大降りになってきたな」
 足元では茶色の泥水が小さな川を作り、かなりの勢いで坂の下へと流れ落ちていく。
「お、発見」
 車一台がようやく通れる程度の細い道の先に目的のものを見つけて速見が立ち止まる。降りしきる雨に濡れながらもなお目に鮮やかなイエローのボディ。おそらく持ち主は愛車をここに停め、更に自分の足でこの上へと登っていった筈だった。
 顔を上げて斜面の先を視線でたどる。
 速見はこの場所のことを京一の口から聞いたのではなかった。
 手元へと集まってくる様々な情報の中から意味を持つものを洗い出し、点と点を繋げた結果として知り得ていたものの一つがここのポイント―――この場所だったのだ。


『京一さん』
 初めてここを訪れた時。
『―――何でお前がここに来る』
 背後から声をかけた速見に、京一はゆっくりと振り向いた。
 凍てつくような視線だった。
『ここがケータイ繋がらないからッすよ』
 それを正面から受け止めながら、何食わぬ顔で男が返す。
『俺の言った意味は分かっているはずだ。質問に答えろ』
 無表情を浮かべながらも、そこには冷たい怒りがあった。
『前に調べた事があるんで。……まあ知ってたのは場所だけで、来るのは初めてッすけどね』
『情報担当とはいえ、そこまで頼んだ覚えはねぇんだが』
『まあ、身に染みついちまってる習性だってのもありますがね』
 自分の前身を知る京一へ気軽く言って、速見が肩をすくめる。
『けど、ここいらの県内外には携帯のアンテナが立たねえ場所がいくつもあります。いざって時に自分らのアタマの居場所が分からねえで泣きを見るのはこっちなんで』
 だから以前に京一の足跡を調べておいたのだと。
 静かな怒りを放つ男に対して、速見は謝罪の言葉を一切口にせず、単なる利害関係だと割り切った口調で言った。
『あんたはここに来てるってことを誰に言う必要もなかった。オレもここを知ってるってことをわざわざ言う必要がなかった。だからあんたもオレも―――互いに今日まで言わなかった。……でしょ?』
『―――ああ。そうだな』
『けど今日は急ぎの用があったんで、呼びに来ました』
 独りでいるとこ、邪魔したい訳じゃなかったんスけどね。
 少しだけ困ったような顔をしながら速見はそう言った。
『…………』
『それから―――あんたの行動範囲はおおかた知ってます』
 再び感情を交えない声で口を開いた男は、京一の情報を奪った代わりにと自分の手札の一部をさらす。
『だから必要な時には呼びつけてもらって構わねえッすよ。内容の如何を問わずオーダーを受けます』
 これ以後も必要なものは許可を得ずに収集し続ける、その代価だと、言葉にはせず暗黙のうちに男が告げた。
 それも自分の、仕事のうちだと。
『交換条件というわけか』
『まあ、そうですね。取引みたいなもんです』
 悪びれずに速見が笑う。
『どんなによく出来たアタマでも、使える手足がなけりゃ往生するってこともあるでしょ』
『自分が優秀な手足だと言いたいのか』
『さ、それは。……そうッすね、使用後にでも感想を聞かせてください』
 言いながら、速見は楽しそうにくすりと声をもらした。
『それから―――リークはしません』
『分かってる』
 冷ややかさの残る声ではあったが、そう口にしたことで京一は取引を受け入れたことを相手に知らせる。
『……と。時間つぶしてる場合じゃねえ。行ってください』
 気付いたように速見が言い、斜面の下で主を待っている黒の車体へと視線を投げた。
 道の少し手前、Uターンを妨げないような場所には同型をした赤のそれが停まっている。
『お前は』
『……ガス欠なんで残ります。急いでたもんで積まずに来たら―――着いた時にはノッキング寸前ってなザマで』
 みっともねえ話だとぼやきながら、唇をへの字に曲げる。
『間抜けだな。片手落ちじゃねぇのか』
 珍しく渋面を作っている速見を眼にした京一が、うっすらと口元に笑みを刻む。
 だがこの後どうするのだとは問わなかった。自分の始末は自分でつけられる男だということは知っていた。
『ま、そういう時もあります。でもまあ、オレの目的は完了したんで……構わねえっちゃあ構わねえし』
 速見はひょいと肩をすくめながら京一に片目をつぶり。
 そうして―――この地を走り去っていく漆黒のボディを斜面の上から見送ったのだった。







「―――うっわ、さすが。アイポイント低いねえ」
 初めて乗り込むコクピットの中で、着座位置のノッチを調整することもなく座りよく収まった速見が眼を丸くする。
「たまんねー」
 シートに腰を落ち着けると、操縦者をその気にさせるコクピットの内部を興味深げに眺め回した。メータ類や機器がステアを握る者をぐるりと取り囲む設計になっている。
「と、まずは挨拶からか。……あのさ、お前のオーナーじゃなくて悪ぃんだけどよ。少しの間だけオレに……ステア握らせてくれねえ?」
 どこに向かってか、誰に対してか―――真面目な口調で話しかけた。
「これからお前の大切なひとんトコに連れて行ってやるからさ、頼むよ」
 なぁ、と優しくなだめるような声音で速見が続ける。
 躰を押し包む低い振動に馴染みはなかったが、より速く駆けることを至高の命題として生まれたマシンであれば、乗り手に伝わるスピリットもどこか共通で。
 躰の奥底がじわりと熱くなる。
「……やべ。人サマのもんに乗ってコーフンしてる場合じゃねえんだけどな」
 速見はもとより、無茶をするつもりなど毛頭なかったのだが、だとしても。
「かっ飛ばして何かあった日にはなあ。京一さんからどんな仕置き食らうことになるんだか分かったもんじゃねえ」
 ああこええ、と口の中でこっそり呟いた。
「オレだって命は惜しい。ひとつしかない命、大事に使えばまだまだ使える、ってね」
 相変わらずふざけたことを口にしながらステアを握り、シフトノブへと手を伸ばす。
「―――そう長くはねえ道中だが一つよろしくお願いするぜ、グラマラスバディのカワイコちゃん。ジャジャ馬っぷりをオレにも少しだけ楽しませてくれよ」
 まあ、乗り逃げしちまうのは申し訳ねえんだけどな。
 何と混同しているのか、速見の声が次第に楽しそうな響きを帯びていく。
「たまには違う男と浮気すんのもいいだろ?……雨の中のアバンチュールってのも雰囲気あるしな」
 ふたりっきり、ってな密室気分を味わえる。
 相手は車だと分かっているのかいないのか、埒もないことを延々と口にしながら正面へと向き直る。
「さてと、それじゃあ―――待ち人の元に向かうかね」
 オレが待たれてる訳じゃあねえけどよ。
 くすりと笑いをもらしながら静かにクラッチを繋げた速見は、滑らかにイエローのボディを発進させた。
「―――で。京一さんちにコイツを届けた後……オレはどうやって家まで帰ればいいんだ?」
 銀の雨にけぶる視界を見つめながら思案する。
 届けたところで京一達が降りてくるのを待つのは無駄だと分かっていた。それよりは明日の朝陽の昇る方が早い。
「やっぱ手頃なのは清次だよな」
 京一さんのマンションの前に呼びつけてやるか。
「こんなジトつく雨の日には気晴らしの一つや二つもしねえとなあ?どうせくすぶってんだろ。遊んでやらねーとな」
 もっともらしい理由を口にしながらも、すでに速見の顔は悪辣にほくそ笑んでいる。
 なぜお前がアシも無く京一の家の前にいるんだと、猜疑心に駆られて額に青筋を浮かべながら騒ぎ立てるのであろう清次の姿を想像して、速見の唇が嬉しげに吊り上がる。
「じゃあ―――ま、そうするか」
 さてどんな嘘っぱちを並べ立てて遊んでやろうかとあれこれ考え始めながら、楽しそうにくつくつと笑った。






                                                ― 了 ―








「夜来香」の松田ロケット嬢から送られきた合同誌原稿を読んでいたら、
ドシリアス展開中にいきなり知った名前が出てきて深夜に大爆笑。
てことで、この男を使ってくれた御礼&誕生日プレでサイドストーリーを御返杯。