OFFICIAL SECRET


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 土曜日。十一時、AM。
 栃木。日光第二いろは坂、終点。
 燦々と陽の降り注ぐ明智平駐車場にて。


「峰岸明ッす。今日から宜しくお願いします!」
 緊張を滲ませた声が響き渡る。
 磨き上げられた銀のランエボから降り立った青年は、その位置へと自分を誘導した長髪の男に向かって頭を下げた。
「ああ、こっちこそ宜しくな。アキラでいい?」
「は、はいッ!」
「そ。オレは速見っての。ウチの情報担当」
 にっこりと親しげな笑みを浮かべながら青年を見下ろした、優男とも言える顔立ちのその男は。
「―――新入りのお着きだぜえ!」
 次いで大声を張り上げて、駐車場内に溜まっているチーム員らに呼集をかけた。
「お、来たのか新入り」
「ほぉ。若ぇのになかなかいい面構えしてるじゃねぇか」
 集まってきた面々は眼前の青年の前後左右、頭のてっぺんから爪先までをジロジロと興味深げに眺め回す。
「ま、頑張れよ」
「入った早々、叩き出されねぇようにな」
「はいッ、宜しくお願いします!」
 ドカドカと足音も荒く近寄ってきた非常に体格の良い男達に取り囲まれて、緊張気味な面もちを更に引き締めながら――引き攣らせたとも言う――峰岸はしっかりと頭を下げて挨拶をした。
 小柄というわけでもないが、大柄な男の多いチーム員の中に混ざると頭ひとつ分ほどが埋もれてしまう。
 その若々しい顔にはわずかに朱がのぼっていた。
―――俺ってば……エンペラーのメンバーになったんだよなぁ……。
 ここまでの道のりを思うと感慨もひとしおだった。
 栃木県立日光高校時代の記憶が去来する。
 夜な夜な親に隠れてこっそりと家を抜け出して、原チャリを飛ばしていろは坂までギャラリーしに来ていた、あの日々が懐かしい。
 様々な車種が腕前を競い合う夜をギャラリーすることは、最高にエキサイティングな娯楽だった。
 興奮して側溝に突っ込み原チャリを一台ダメにして自分も怪我をしたあげく、深夜に出歩いていた事がバレて母親に殴られた記憶すら今や愛おしい。
 そんな中、いろは坂に突然あらわれたランエボ一車種のみのワンメイクスチーム。
 どこからともなく集まってきた精鋭揃いのチーム員達は、漆黒のエボVを駆る鋭い眼差しの男に率いられていた。
 連中の――その男の凄味すら感じられる走り。身の竦むような威圧感を放つ黒い機影。
 目の前数メートルの場所を、噛み鳴るスキール音とともに吹っ飛んで行くボディ。
 いろは坂という特殊形状の峠を正確無比なラインでクリアする、寒気を感じさせるほどの技術。
 峰岸がそのチームに――リーダーの男へ夢中になるまで大した時間はかからなかった。
………俺もあの中で走れたら。
 そしていつしか、夢は実現に向かって走り出していたのだった。
 バイトをして金を貯めつつ十七歳の終わりから教習所に通い、十八歳になるや否や免許を取ってすぐに両親を説得して金を借り、中古のランエボを買った。
 だがランエボのオーナーだからと言ってそう簡単にチーム入りを許可されるほどエンペラーは甘くない。同期の悪友連中にも同じ夢を持つ者は多数いたが、チーム員として要求される厳しい基準をクリアーしたのは自分が初めてだった。
 峰岸は近所に住む高校のOBとして何度か言葉を交わしたことのある岩城清次を訪ね、頭を下げてアドバイスを求めトレーニングを定期的にチェックしてもらいながら腕を磨き、ここまでの道のりを這い上がってきたのである。
 強面な見てくれの通り、在学中には伝説として残るほどの荒事で名を馳せていた清次だが、意外にも下の者への面倒見がよい男だったことは彼に取って幸いした。そして。
 長いこと憧れていたエンペラーにようやく―――晴れてチーム員となるべく許可が下りたのが、ゆうべの事であった。

『―――いいだろう』
 穏やかな低い声が耳に返る。
 静かに光る双眸が眼前に浮かぶ。

 清次の口利きでゆうべの交流戦前の空き時間をもらい、京一にナビへ同乗してもらった。
 今まで地道に積み上げた成果と全霊での祈りを込めた渾身の二本――上りと下り――を走った。
 走行中、一度も口を開かなかった無表情な横顔。
 合理的で冷酷だとの噂も高いエンペラーのリーダー、須藤京一。
 その人がナビに座るという現実に直面した時は、正直言って足が震えるほどに怖かった。
 ランエボとしてはごく珍しい漆黒のボディ。
 獰猛なそのマシンを精密な手腕で自在に操る男。
 いろは坂に君臨する精鋭集団のトップ、帝王と冠されるその男に強い憧れを抱き続けてきたとはいえ、怖いものは怖い。
 ましてや数刻後の自分の運命をその手に握る男である。
 だが、繰り返し襲い来る横Gと激しいスキール音を響かせるエボのコクピットでステアを握りながら、全身に張ったアンテナで路面のアンジュレーションを読み、地を蹴る四輪にベストなトラクションコントロールを与え、センターに時おり現れるキャッツアイを見据えながら体に刷り込まれているレコードラインを再現する事へと全神経を集中させているうちに意識は白熱し、そんな事は念頭から消し飛んだ。
 その結果。
 およそ十二時間前に、ここ明智平で京一から渡された認可の言葉。
 常に遠くから憧れてやまぬ眼差しで見つめるしかなかったエンペラーのリーダー、凄腕のチーム員らを統率している男の口からそれを聞いた時には、まさしく天にも昇る気持ちであったのだ。
 緊張のあまり、自分が何と返したのか覚えていないほどだった。
―――須藤さん。
 胸内で小さく声にする。
―――俺、頑張ります。ずっとついて行きますから。
 心の中で固く、そう誓っていた。


「そろそろ出るぞ!」
 惚けていた耳に聞こえた声にビクリとした峰岸が、夢から覚めたような面もちでぼんやりと顔をあげる。
「あ…岩城さん」
 手前の駐車エリアに停めてある白エボWの近くにいたセカンドが、いつものようにチーム員らへ出立を告げていた。
 ふと我に返ってみると、周囲では一通り新入りへの興味が満たされた男達がそれぞれ立ち話に興じている。
「じゃ、アキラも適当について来いよ」
 目の前で固まったまま一人で百面相をしていた青年を面白そうにじっと見ていた速見が、気楽に行こうぜと片目をつぶる。
「はいッ!………あの、行き先はどこッすか?」
「あ?ああ。ニチエンだよ。あそこならいくらでも場所あるからな」
 昼なら面倒なことにもならねぇだろ。
 速見が口の中で呟く。
 ゆうべ散会する前に、新入りが来るなら明日は時間の取れる連中で集まって軽い歓迎会でもするかという事になり、それならたまには昼の空気の中でメシでも食うかという話になったのである。
「ツーリングとも言えねえような近場で悪いな。まぁ戦場ヶ原よりゃあいいだろう」
 エボの足なら明智平から数分の場所を口にして肩を竦めた速見は、
「―――ですよね、京一さん」
 ちょうど横を通りすがったチームリーダーに愛想のよい笑顔を向けた。
 夜に走る時以外の指定席となっている白エボのナビシートに向かおうとしていたのだろう。
「…え、うわっ須藤さ……っ」
 背後からやって来た京一に気付かなかった峰岸が、とっさの事にうろたえ焦って口ごもる。
「――――――」
 だが京一は冷ややかな一瞥を速見に投げると、そのまま無言で歩き去って行ってしまった。
「ふわぁ……びっくりした……」
 リーダーのあまりの愛想のなさに目を丸くしながらも、峰岸が京一の背中を追う。
 その周囲では。
「……京一さん、なんか今日機嫌悪くねえか?」
「でも確か、ゆうべ散る時には笑ってたよな」
「……まぁ機嫌悪ぃ時にぁとことん無表情だけどよ」
「今日は特に……なぁ?」
 ぴたりと話をやめていた男達が、京一の背を見送りながらボソボソと囁き合っていた。
「何かドジでも踏んだのか、速見」
 中のひとりが、茶髪の頭をぽりぽりと掻いている男にふと気付いて問いかける。
「んー?ああ、さっきちょっと手が滑ってケツ撫でたからじゃねえの」
 速見があっさりと白状した。
 隠すようなことでもないと思っているのだろう、その口ぶりはしごく軽い。
「なんッ!?」
「てめぇ……」
「マジかよ!?」
 それを耳にしたチーム員らがにわかに色めき立つ。
「ちょっと……だと?」
「本当に手が滑ったのか!?」
 一見、尊敬すべきリーダーに不埒な行為を働いた人間に対して、その不敬罪を咎めるようでありながらも。
 問い詰めるその目その口調には、微妙に屈折したものが見え隠れしていた。―――嫉妬にも似た色が。
「……………?」
―――険悪な雰囲気だけど何となく……ヘン……だよな?
 ひとり新入りの峰岸だけは、チーム員らがいきなり態度を急変させた理由が分からずに、頭の中で大量の疑問符を飛ばしながら首をかしげる。
「……ッたくまたお前は」
「余計なことを……」
 男達はブツブツと不機嫌そうに呟いた。
 だが。
「……まぁ終わったことは仕方ねぇしな」
「ああ……で?」
 その先は聞きたいらしい。
「京一さん、どうした」
 胸内にどんな思惑が生まれたものか――何らの参考にしようとでも言うのか――男達が用心深い声で聞き出そうとする。
 その成り行きに、相変わらず話の見えない峰岸だけは目をしばたたかせていた。
 だが新参者の分際で口を挟んではいけないと自らを戒めて、居心地悪そうにしながらもおとなしくその場で木石と化している。
「―――じっと見つめられた」
 かな?
 速見は、思い出そうとするかのような顔つきで上空に視線を投げながら答えた。
「……そりゃ、睨まれてたんじゃないのか」
「そうとも言う」
「お前な……事をこじらせるのはやめてくれ」
 へらりと笑いながら平然と言ってのけた男に、回りが疲れたように溜息をついて肩を落とした。
「何でよ?」
「ただでさえお前は………」
「ああ、オンナノコ達ね」
 その先をさっさと自分で口にして速見が台詞を奪う。
「―――あ、ああ?……そうだ、それもある!」
 この男はギャラリーしに来ている女達に対して、自分のその適当な二枚目ヅラと一見人畜無害そうな笑顔を有効活用するすべに長けているのであった。
「可愛いじゃねえの。じーっとこっち見てるコ達ってさ」
「何だとォ!?ふざけてんじゃねぇッ」
「軟派な集団だと思われたらどうしてくれる!?」
「体面が悪くてしようがねぇ」
 どう逆立ちしてもそんな器用な真似ができようはずもない面構えの男達が、やっかみ半分で罵りの声をあげながら殺気のこもった三白眼をギロリと向ける。
「そこんとこは実力でカバーしろよ。クルマの腕でほら」
 オンナノコ達に男らしいところを見せつけて。
 な?と速見が爽やかな笑顔を浮かべて好青年を演じてみせる。
「何が、ほら、だ!な?じゃねえッ!」
―――畜生テメェのその笑顔がくせ者なんだよ!!
「俺達は、女引っかけるために車のウデ磨いてるわけじゃねぇッ!」
―――こんな男に引っかかる女も女だ!!どこに目ぇつけていやがる!?
 男達の胸に新たな嫉妬がたぎっていく。
「てめぇちっとぐらい頭が回ってちっとぐらい仕事できるからって……」
「そうだ、デカい顔してんじゃねぇぞ!?」
 すでに速見の手で問題の論点をすり替えられた事に気づいていない男達は、口々に怒声をあげる。
 だがもちろん本気で諍いを起こそうとしているわけではない。
 ある意味、これはエンペラーのチーム員同士―――荒くれた男達のスキンシップの一環とも言える日常風景なのだった。
「気に食わねぇがこいつの腕はウチに必要なんだ。仕方ねぇだろう」
「そりゃそうだが……ったくよう」
 悔し紛れの口調を何とか納めようとしながらも、噴飯やるかたないといった表情は隠せない。
 速見はチームの中では情報収集やその処理を担当している。クルマの腕は精鋭揃いだが細かい頭脳労働や裏工作が苦手という真っ向勝負な連中ばかりである以上、その役割を担える者は貴重だった。
 実際、その役割柄から京一や清次からオーダーを受けてサポートすることの多い速見が、内部的にはエンペラーのサードと目されていることも確かである。
「ま、オレがいなかったら京一さん自分でやると思うけどね。―――と。そろそろ出ないとマズイんじゃねえの?」
 いつもと同じ人当たりのよい笑顔を浮かべた速見は、ほら、と遠くを指さした。
 振り返った男達の視線の先には、今にも怒鳴り出しそうな顔でこっちを睨んでいる清次がいた。姿の見えない京一は、すでにナビシートに収まっているのであろうか。
「速見ッ!!お前らッ!!いい加減にしろ―――ッ!」
 こらえきれなかったらしい清次の怒声が、びんびんと空気を震わせながら男達に届く。
「―――げ!」
「うわ、ヤベッ」
「急げ……ッ」
 蜘蛛の子を散らすがごとく一斉に散っていく男達の背中を眺めつつ。
「清次、わり―――ィ!」
 両手を口に当て一声叫んだ速見も、愛車である赤エボVへと足を向ける。
「……下のモン使って省ける手間は省くってなあたりは見た目、合理的って言や合理的だけど。あの人あれで面倒くさがりなとこあるからねえ―――。ま、オレに利用価値がある間は放り出さないでしょ」
 周囲に聞こえないように口の中でそう呟きながら、飄然と肩を竦めた速見だった。



 いろは坂を下り日光市内をかすめ、霧降を抜けて県内を北上していくランエボの集団。
 見た目にも装甲車のような偉容を誇る車種である。
 田舎道のこと、そうそう一般車がいるわけではないが、先行車がいたとしても彼らは時速にして九十qほどの車速をゆるめる必要はなかった。
 追い越しなどかけずともバックミラーに白のランエボを先頭とするその集団が映った途端、前車のドライバーは減速してハザードを出し路肩に寄っていくからである。
 彼らはその脇を悠々と通過していけばいいだけだった。
 一般車からすれば迷惑この上ない存在かも知れないが、その様はまさにエンペラー――皇帝――の名にふさわしい在り方でもあると言えた。