2月14日夜。明智平。


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 2月14日、11:00PM。
 栃木。日光第二いろは坂、終点。
 明智平駐車場にて。
 
 この晩、そこは異様な熱気に包まれていた。
 数種のバージョンとボディカラーを持つランエボが駐車場に滑り込み、また別の数台が走り出していく光景はいつもと同じだったのだが。
 違うことも2つほど見受けられた。
 まず1つには。
 今晩のミーティングも終わって大分時間が経つというのに、京一と清次を中心に集まった陣形のまま、二人の周囲をチーム員らが取り巻き続けていることだった。
 もちろん彼らには清次を取り巻きたいつもりなぞ全く――更々、これっぽっちも――なかったのだが。清次が京一の横に張り付いているので必然的にそうせざるを得なかったのである。
 時たまチームリーダーとセカンドの傍らを離れて自分の愛車に乗り込み、ホームへ降りていく姿はあるのだが、走り終えて駐車場へと滑り込むランエボから降りてきたチーム員が、まるでバトンタッチするかのようにその穴を補充しているように見えた。


「お前ら、たまってねぇでさっさと走りに行って来い」
 うっとうしいから散れ。
 そう言って、京一がぐいと顎を振った。
「あ、自分のことは気にしねえでください。ちょっとコイツと話があるだけなんで」
 京一の目の前にいたチーム員が、自分の横に立っている男に指を突きつける。
「そうなんッすよ、終わったら出ますんで」
 相手の男がしかめっつらしい顔をしながら、うんうんと頷いた。
 京一の周りでは、2人もしくは3人ずつで寄り集まったチーム員らが、さも立ち話に興じている風情で密集していた。
 その数およそ十数名。
「―――まさかお前ら、全員がそうだって言うんじゃねぇだろうな?」
 そう言いながら京一がゆっくりと男達を見回した。
「いや……俺はこいつと……」
 京一と視線の出会ったチーム員は片っ端から、我も我もと前後左右の仲間を指さして追及の手を逃れようとする。
「それならもう少し離れてろ。何でそう寄って来る?」
 わずらわしげな表情を浮かべながら、京一が鋭い視線を周囲に飛ばした。
「いえ。寄ってないッすよ?」
「気のせいじゃねえですか、京一さん」
「そうッす!気のせいッす」
「………………」
 どうも様子がおかしいと、京一が無言のまま探るような表情を見せる。
「まあいいじゃねェか、京一」
 たん、と指先で煙草の箱を叩いた清次が、振り出した新しい一本を口にくわえた。
「コイツらにもそういう日があるんだろ」
 筒先に火を付けながら、精一杯の何気ない口調でチーム員らのフォローに回る。
「お前もだ、清次。……うぜぇんだよ」
 京一がじろりと睨んだ。
 今晩はまだ一度も走りに出ようとせず真横に立ったまま、延々煙草を吸いながら大して意味のない話題を振ってくる清次へと冷たい視線を向ける。
「そりゃねェだろ京一……。その……なんだ。俺は一服中だからよ」
 すげない言葉にも必死に踏みとどまった清次が、指に挟んだ煙草をホラと持ち上げて見せた。
「―――その割には。5本目だな」
「そんなに俺のこと見てたのか!?」
 一気に胸へと高まる感動に、清次の目と声がわずかな潤みを帯びる。
「見てねぇよ。お前は馬鹿か?そこに吸い殻が4本落ちてるだろうが」
 冷静な指摘とともに京一が視線で地面を指し示した。
 ご丁寧な罵倒つきであっさり否定された清次の指先で、ぐしゃりと煙草が折れ曲がる。
「…………お前はそういうヤツだよな……」
 奥歯を噛み締めながら恨みがましい眼差しを京一へと向ける。
「そんなこたぁどうでもいいが―――」
 こいつらを何とかしろ、と京一が目の色で告げた。
 しかし今夜ばかりは清次にも引く訳にはいかない事情がある。
「んなこと言われても……知らねェよッ!!」
 破れかぶれで叫びながら京一の視線から目を反らした。


 清次とチーム員らの共謀には、さほど大それた理由があるわけではない。
 ただ単に。
 いろは坂にホームを構える、凄腕と名高い走り屋集団エンペラー。
 その内部では今晩、密かにあるプロジェクトが発動していたのである。
 現在、各チーム員が胸に誓っているそのコンセプトとは。
『忍び寄る女どもの魔手から京一さんを守れ!』
 なのであった。

 何のことはない。
 バレンタインデーである今晩。
 常日頃チーム内で鍛えられている強固な結束力を、相変わらず間違った方向に発揮しつつ―――ギャラリーの女達から京一への一方的な接触を阻止するべく、当の本人には断りも入れずチーム員が勝手に一丸となり、万全なる守備網を張っているのだった。
 その原動力となっているものはもちろん、女達に対して燃え上がる嫉妬の炎であったことは言うまでもない。
 そして各チーム員が着用している衣服の上下どこか一箇所が、何かを無理やり突っ込んでいるような不自然さで盛り上がっていることは追記すべきことなのかも知れない。

 そして彼らが仮想敵とする相手は駐車場の一角で集団の形として存在していた。
 これが今晩の明智平におけるもう一つの相違点である。
 いつもはエンペラーのメンバーに直接声をかけることもなく、コース沿いなどでギャラリーしつつチーム員らを遠巻きにしている女達が、今日ばかりは車が出入りするに邪魔にならぬような場所とはいえ、駐車場内に大挙して流れ込んでいるのだった。
 そこでは、チーム員らしき男2名ほどを柱として大勢の女が取り巻いているという、珍しくも華やかな展開されていたのである。

「次ッ!誰宛だ?」
「あの……京一さんに」
「ああん?京一さんだあ?」
 凶悪な面構えのチーム員がヤクザ顔負けの胴間声を張り上げた。
「ご、ごめんなさいっ!!……あの……須藤さん……に」
 目の前にそびえ立つ男のあまりの柄の悪さに、女の子が反射的に謝罪を口にしてしまう。
「チッ…………寄越せ」
 怯えた表情を見せる相手に向って大上段に振りかぶったまま、男がずいと手を伸ばした。
―――俺らだって渡せるかどうか怪しいってのに。
 こんなモン京一さんに渡すかよ。
 後で全部捨ててやる、と密かに胸へ固く誓いながら、受け取った箱の上部に赤マジックで「京一さん」と書き殴る。ピンク色の包装紙できれいにラッピングされた小箱を、地面に置かれているダンボールの中へと無造作に投げ込んだ。
 面倒臭そうな顔をしながら次!と叫ぶ。
「これ……須藤さんに……です」
「またか!?……ッたく、何で俺がこんなことしなくちゃならねえんだよ」
 チョコレート仕分け作業、その処理班の片割れである男が女の手から赤い箱を取り上げながら、不機嫌な表情でぶつぶつと呟いた。
「アミダで負けたからだろ」
 その横からのんびりとした声がかかる。
「お前ね、いちいち目くじら立てるのやめとけば?男の嫉妬は醜いぜ」
 正しく核心を突いた声の主は、チーム員の隣で同じ作業を担当している速見だった。
「うるせえっ!俺はてめぇと違って好き好んでこんなことやってるワケじゃねぇんだよッ!!」
 人間、図星を突かれると怒りが湧くものである。この男も例外ではなく、瞬時に沸点へと達して鼻の頭にしわを寄せ、獰猛に歯をむき出しながら吠え立てた。
 京一を除く全員が呼集されたプロジェクト説明会での基幹コンセプトには全く興味を示さなかったものの、いざ役割分担の段になるや否や、はーいと元気よく手を挙げて自分から申し出たサードと、残りの誰もが嫌がったので仕方なく行われたクジ引きで負けた不運なこのチーム員との2人が、チョコレートを片手に明智平へと押し寄せた女達の対応に当たっていたのである。
「京一さんは当然としてお前宛のも多いってのが俺は非常に納得いかねえぞ!!」
 俺はお前のためにこんなとこ立ってるワケでもねえ!!と男が更に怒気を吹き上げる。
「あ、そう?オレは非常に納得いくけど」
「うるせえうるせえッ!!ついでに言うと俺にはまだ一つもねえぞ!この差は何なんだよ!?」
 半ヤケで八つ当たり気味に怒りを撒き散らした。
「何って。顔でしょ」
 あっさりとそう言った二枚目面にひとことも言い返せず、ぐぬぅと唸って押し黙った岩石のような顔の男を尻目にして、速見が自分の担当の列へと向き直る。
「はいお待たせ。っと、これは誰かな?」
「あの……速見さん……に」
 順番の回ってきた女の子が、そう言いながら両手でそっと紺色の小箱を差し出した。
「オレ?」
 尋ねるとこっくり頷く。
 シックな包装紙でラッピングされているその小箱の表面には、目を引くオプションがあしらわれていた。
 見た目にも華やかな大ぶりの紅薔薇。
「もしかしてこれ……似合いそうって思って選んでくれた?」
 布で織られた造花を見ながらそう聞くと、考えるように間を空けてから相手がもう一度こっくりと頷いた。
「そっか。―――オレさ、赤いバラって好きなんだ」
 ありがとな。
 手渡された小箱を受け取りながら速見が柔らかい笑みを向ける。
 こぼれそうなほどに大きく目を見開いている女の子が、無言のまま慌てたようにぶんぶんと首を横に振った。
「……お礼と言っちゃあ何だけど」
 可愛いなあと眺めながら、速見が受け取ったチョコレートの代わりに自分の手帳を差し出した。
「もしオレと遊んでくれる気があるなら、ここに名前とケータイ番号書いておいてくれれば後でリターンするから」
 渡された手帳とペンを手にしたまま、すでにその頁へ数人分の名前と数字が並んでいることに目を丸くしているのを見て、くすりと笑いながら言葉を続ける。
「あ、そっちの都合のいい日なんかも書いてくれると更にベター」
 よろしくな、とウィンクを投げた速見は列に並んでいる次の女の子に、はいお待たせ、と笑顔を向けた。
「あの……これ。峰岸さんに」
 それはチーム最年少の青年へのものだった。
「おや」
 それを聞いた速見がヒュウと軽く口笛を吹く。
 京一の手が付いたと噂が――真実ではあるのだが――立ってからめっきりギャラリーの女達の間で人気がガタ落ちした峰岸に、チョコレートを渡したいという女の子が現れたわけである。
「はいはい、アキラね」
 手にした赤マジックで、ミネギシと書きかけた速見だったが。
「お?」
 女達の頭上越しに、ひょいと手を伸ばした。
「うわわっ!?」
 いきなり伸びてきた長い腕に襟首を捕まえられた青年がすっとんきょうな声をあげる。
 便所にでも向かおうとしていたのだろう。当の本人が通りがかったのだった。
「あのっ……いいですからっ!」
 渡す相手を呼び止めようとしている速見に向かって、女の子が必死の声を張り上げる。
「なんで?」
「直接渡すのは……その……」
 そう言ったきり俯いてしまった女の子の頬がうっすらと染まっていた。
「そっか、恥ずかしいよな。―――でも今日はオンナノコが勇気を出す日だろ?」
 な、頑張れよ。
 膝に手を突き相手と同じ位置まで視線を落とした速見が、顔を覗きこみながら囁きかける。
「は……い」
「アキラ、お前の」
 間違ってはいないが男相手には話す言葉すら惜しいらしい速見が端的にそう言って、手荒につかみ寄せた青年の躰を女の子の前に押しやった。
「…………あの、これ。受け取ってもらえると嬉しいです」
 恥ずかしそうな顔をしながらも細い声ではっきりとそう言って、手にしていた小箱をそっと差し出す。
「え。オレに!?」
 自分を指さしながら驚いたように言った青年の顔が見る見るうちに嬉しそうな表情を浮かべた。
「はい」
 それを見た女の子が、ほっとしたように口元を小さくほころばせる。
「……嬉しいッす!ありがとうございます!!」
―――うわーめっちゃ可愛い。好み……かも。
 可憐な笑顔に、峰岸の頬もいつしかうっすらと染まっていた。
「あの……連絡先とか教えてもらえれば……来月ちゃんとお返しするから」
 何か書くもの、と焦りながら胸ポケットを叩きジーンズを探り始めた峰岸に。
「いえ、いいんです。あたし……邪魔するつもりはありませんからっ」
 途端、悲壮な顔つきとなった女の子が細い声でそう叫んだ。
「は?……邪魔?」
―――って何のことだろう。
 青年が不可解そうな表情を浮かべる。
「知ってるんですあたし」
「………へ……何を?」
「あのっ!!……頑張ってくださいっ!!京一さんとお幸せにっ!!」
「はぃ?」
 立て続けに言われる内容がいよいよもって分からずに青年の顔が停止する。
「でもこれ私の気持ちなんです!がんばって作ったんです!!食べてくださいお願いしますっ!」
 会話の噛み合わぬまま最後まで一気に言い切った女の子が、涙を浮かべて瞳を潤ませながら青年を見上げる。
「はぁ……ありがとう」
「う…うっ…、それじゃすみませんでしたっ!応援してますからっ!!」
 間の抜けた声で礼を言った青年に絶望的な表情を見せた女の子は、身を引く自分に涙しながらくるりと背を向けて駆けだした。
「はぁ……」
 一方的にその場へ残された峰岸は、チョコレートを片手にしたまま茫然と見送るしかない。
「アキラ……おまっ……」
 ぐふぅっと吹き出す音が隣から降ってきた。
「…………なんで?」
 直面した現実を正しく認識することは年若い青年にはまだ難しくて。
 隣に立つ男を見上げながら阿呆のように指差した。どんどんと小さくなっていく女の子の背中に向かって。
「……頑張ってって。そりゃクルマの腕はもっと頑張らなきゃですけどね」
 それと、お幸せにってどう繋がるんスかね?
 難しい顔をしながら峰岸が、逃げなくてもいいのになァと遠ざかる娘の背に未練を残す。
「違うだろ?頑張って、ってのは。京一さんとの仲、のことだと思うぜ?」
「は?」
 味方だと思っていた男から信じられない言葉を聞いた青年の声がひっくり返った。
「いやホント、いじらしいねえ」
 腕組みした速見が感じ入ったように頭を振る。
「あの…?」
「聞いたろ?あのコ、邪魔するつもりはねえんだとよ。よかったなアキラ」
 くくく、と楽しげに笑いながら、いたいけな青少年に向かって優しくとどめを刺した。