嵐のような微熱 |
カラン、カラン――――――。 店のドアに取り付けられているカウベルの響きが、新たな客の到来を告げた。 重厚な黒い扉が押し開けられて、その隙間から外界の雑多な光が薄暗い店内へと差し込む。オレンジ色の間接照明だけが淡く光る、仄暗い店内に足を踏み入れた男の影が床に長く伸び、だがその歩みは。 その場でぴたりと止まった。 カウンターの中で色鮮やかなマリンブルーのカクテルを作りながら、親しげに声を掛けてくる眼前の客達――と言っても、うち数名はエンペラーのチームメンバーだったが――へまばらに受け答えを返していた京一がそちらへ、目線のみをチラと投げかけた。合間に、使い終わったメジャーカップをシンクへと落とし、ブルーキュラソーの瓶を酒棚へと戻す。 後ろ手で扉を閉めた男は、上背のある引き締まった体躯を白いTシャツと洗い晒しのブルージーンズに包んでいた。その顔は照明から外れて薄闇に沈み、よく見えなかったのだが。 どうやら京一に凝固した視線を向けているようであった。 ―――初めての客か? 見遣る京一の視線に訝しげなものが織り混ざる。 この店へやって来る客の多くは旧くからの常連であり、彼らは誰に何を言われずとも各々、定位置としている場所へ好き勝手に腰を降ろすのが常であった。 確かに通常この店でバーテンダーをしているのは別の男であり、京一がこのカウンター内に立つのはごく稀な事である。今夜は久方ぶりのそういった晩だった。だが、ここへは客としてもよく顔を出しており、大抵の人間は京一の顔も時折シェーカーを振る姿も見知っている。今更驚くような事でもない筈だった。 「どうぞ」 京一は手を休めぬまま軽く顎で差し示し、立ち止まったままの客を店内へと促す仕草を見せる。 それに応えるようにして頷いた男が、ゆっくりと一歩を踏み出した。 「――――――!」 その顔をはっきりと視界に捕らえた瞬間。 京一の腹の底にズン―――と鈍い衝撃が疾る。 胸内を吹き抜けたのは晒けた彩をした風。 渦巻いたのは褪せた彩をした光景の欠片。 久しぶりに見る顔。 ―――トモ。 氷塊が浮く深い海の色をした液体の中でバー・スプーンが揺れ、小さなさざ波を立てる。 だが京一の驚愕を顕したのは一瞬、静止したその手元のみであった。 「……よう。邪魔するぜ」 トモが声を発した。だがどういう訳か、京一に向かってではなく店の中へ向かって言ったようにも思えた。 京一が鋭い視線を投げ掛ける先、薄暗がりの中で男は、口元に浮かべた微かな笑みに紛れていくつもの不可思議な表情をよぎらせる。 思いもかけなかった出来事に驚きつつも楽しむかのような、相手を見下して蔑むような、皮肉げに揶揄するような、それでいて自嘲のような。横顔。 僅かの間にさまざまな彩が浮かんでは消え、最後に残ったのは。 ふてぶてしいまでに傲岸な―――笑み。 かつて京一がよく目にしていた、その表情だった。 作り終えたカクテルをコトン、とカウンターの上に置き、オーダーした客の前へと滑らせる。 ―――なんで今頃、ヤツがここに。 だが不審に思う間もなく、次なる驚愕が京一を襲った。 「あ、館さん」 「ばんわっス」 店内にいたエンペラーのメンバーらが、声を掛けてきた客の顔を近くに認めて口々に声を上げたのだった。 「おう」 トモも軽く片手を挙げてそれに応えている。 ―――何だと。 「お前ら……知り合いか?」 その光景に目を遣りながら京一は、カウンターに座っている人間達に低い声で問う。 「顔見るようになったのは最近ですけど―――あ、そっか。京一さん、ここんとこ店来てなかったから会うの初めてっスよね、館さんと」 「車の事とかすげぇ詳しい人みたいで、みんな適当に色んな話をしたりしてますよ」 「…………」 それを聞いた京一はゆっくりと目線を移して、答えた相手の顔をじっと見つめた。 トモにオーダーを聞く事もなく、無言のまま酒を作り始めた京一の節の張った長い指が滑らかに動き、手にしたアイスピックが一抱えもある大きなロックアイスから氷の切片を削ぎ落とす。カランと音をたててグラスに収まった冷たい結晶の上にジンを注ぐと、トニックウォーターと共に、カウンターへ落ち着いた客の前へ静かに置いた。 「あの男前の兄さんはどうした。休みか?」 それまで煙草を口にしながら目の前で動く手元を眺めていたトモは、置かれたグラスを取り上げつつ、京一に対しての常であった揶揄うような口調でそう尋ねて久しぶりの会話を切り出した。 この店を切り盛りしている、あのどこか鼻につく男の姿が今夜は――それとも今は、なのか――カウンターにはおろか店内にも見当たらない。 「今日は俺が代わりだ」 カウンター内での作業の手を止めぬまま、京一が言葉少なに答えた。 「そうか」 適当に返しながらもふと、口許に酒を運びかけていたトモの手が止まり、何気ない表情の裏で顔をしかめる。 「オレが寄らせてもらうようになってからお前の姿を見てなかったんでな……もう来てないもんだとばかり思ってた」 「ここ最近は顔を出してなかっただけだ」 京一と当たり障りのない会話を続けながらも。 覚えたのは微かな違和感と、はっきりした不快感。 ―――なんだこれは。 唐突に湧いた二つの感情を訝しく思ったトモは、独特の薫りでツンと鼻を刺す酒を口にしながら、冷え冷えとした他人の目で自分の裡を凝視した。 何でオレはこんな感情を持つ? 京一は、トモの問いに答えていると言うのに。 ―――いや、違う。 答えたから、だ。 違和感の元はそれだった。 以前の京一は、誰に対しても車に関する以外の問いに対して素直に返事を、いや会話に対しても言葉を返すような人間ではなかった。何の反応も返さないか、返したとしてもただ、相手に向けた無表情の中で双眸を鈍く光らせているか、だけの筈だった。 そして、もうひとつの感情は―――。 疑惑に満ちた視線で自分の内部をじっくりと探っていたトモの頬が、目に見えぬほど微かにぴくりと痙攣する。 頬の肉の中では奥歯がギリと、軋む音を発していた。 覚えた不快感の元は。 京一が、自分の知っている京一から枠を異にした存在になっていると感じた所為だった。 自分と京一との間に横たわるミッシング・リンク。 自分の知らない歳月を過ごした京一の、その歳月への不快。 更に言うなれば。 自分の知らぬ他人が京一にそれを刻んだかも知れぬ事への不快。 表情ひとつ変わらないトモの、カウンターの上に載せている左の拳がミシリと。 握る力の圧力を静かに増した。 「やたッ!!八千万円―――ッ!!」 「てめぇふざけんな!俺が五千万でお前が八千万だぁ!?」 「何でお前がそんなに高値なんだよ!?正直に答えなかったろ?」 「カマトトってる奴はほっとけ。いいから次、回せ回せッッ」 「俺もやりてぇ!貸せよッ」 「ちょっ…待っ…!」 「おいッ、俺が先だぞ!」 「やめろバカ!壊れるだろ引っ張るんじゃねぇッ!」 ふと気付くと、最前まで静かだった筈の店内がいつの間にか非常に騒がしくなっていた。 「―――何だ?」 グラスを手にしたままトモが振り向く。京一も手を止めて喧噪の中心へと目を遣った。 背後のボックス席では、エンペラーのメンバー数名が団子状になって揉み合っていた。 体格のいい男達が揃っているだけに、他の客は関わり合いになりたくないのか遠巻きに眺めているだけである。騒ぎの元凶はどうやら、そのうちの一人が宙に高く掲げた片手に握っている一台の携帯電話らしい。 「うるせぇな。おい、清次ッ」 黙らせろ。 京一が目線を飛ばす。 「やべェ……ッ。おい、お前ら静かにしろって!」 耳聡く聞きつけた清次はこちらに視線を向けている京一の表情を目にすると、慌てて周囲の人間へ手当たり次第に声を掛ける。だが興じて声高に話している連中が多少の事では鎮まらない事を見て取るや、さっさと諦めて手早く拳で問題を解決し始めた。 「何の騒ぎだ」 京一は、集団から抜け出してカウンターへと寄ってきたロンゲの青年に問い質す。頭を撫でさすっているところを見ると、どうやら清次に殴られて正気に返ったらしい。 「あいつが新しい携帯買ってきたんスけど、何か面白い占いできるからってみんなが」 騒ぎの中心を指差しながら口を開いたものの、何とも要領を得ない説明だった。 「違うだろバカ。占いじゃなくて最近はやりのカンテイ……サイトとかってヤツだよ」 答えた青年の後ろ頭を、背後から歩み寄ってきた清次――早くも一仕事終えて累々たる屍を後にして来たらしい――がまたもや殴りつけながら、やや自慢そうな口調で京一に教えた。だがその割には自分でも耳慣れないらしい単語を口にして舌を噛みそうになっている。 「〜〜〜〜〜〜!!」 清次の頑強な拳で二度も殴られた運の悪い青年は、声も出せずにその場へしゃがんで頭を押さえ込む。 「鑑定サイト?インターネットか。くだらねぇ事で騒いでるんじゃねぇ」 「そうは言ってもよ……」 清次は右手の中の携帯電話に目を遣る。 メンバーらの手前あまりみっともなく騒ぐ訳にもいかずに先程は鷹揚に構えていたのだが、実は多少の興味があったので、問題の携帯電話の持ち主を床へ沈めた後、これ幸いと無断で拝借してきたのだった。 「いいじゃねえか京一。おい、見せてみろよ」 面白がるような声が聞こえて、横合いから伸びてきた手が素早く清次の手の中から携帯を攫っていった。 瞬間、むぅっと険悪な気配を膨らませた清次は、カウンターに座って頬杖を突きながら手にした携帯を平然と眺めている無礼極まりない相手を見おろした。そこにトモの顔を見いだした清次は、更に不快感を隠し切れずに滲ませながら鼻の頭に皺を寄せる。 もともと初めてトモを目にした時から、こいつはいけ好かない奴だと清次の勘は告げていた。眼前のふたりが同じ時、同じ場所で積み上げた過去の何ひとつを知らぬままでも本能的に何か、自分にとって面白くないものでも嗅ぎつけるのか。 清次は警戒、もしくは牽制するような表情を浮かべながらトモの顔を睨み付ける。 「『あなたのエッチの値段教えます』……何だこれは?」 そんな事は知らぬげに―――もしくは全く気にかける事無しに、トモは呆れたような声でディスプレイ上の文字を読み上げた。 「見たまんまですよ。インターネットのホームページなんかで流行ってるじゃないですか。あなたの何とかを鑑定しますとか」 続く打撃からようやく復活したらしい青年が立ち上がりながら答えた。 「これが結構面白いんですよ。京一さんもちょっとやってみませんか」 そう言って京一を誘ったが、その時。 「おーい、須藤くん。これと……あとこっちの分をもう一杯ずつ」 他の客からオーダーの声が掛かった。 空のグラスを持ち上げて見せる客に向かって頷いた京一は、 「俺はいい」 あっさりとそう言い捨てて、その場を離れていく。 「京一さん、今夜は仕事だっけ。しょうがねえよなァ……」 ちぇッ、とつまらなそうな表情を見せた青年だったが。 「なら……館さん、やりませんか」 その矛先が、次なる標的―――トモに向かう。 これ以上トモの顔なぞ見ていたい訳ではない清次は、ついでに自分も新しい酒を貰おうとグラスを鷲掴み、京一の後を追って移動する。 「んー、まぁいいけどよ」 それを何気ない目線の動きで視界の隅に捕らえていたトモは、オレはおまけか?とぼやきつつも青年のリクエストに応えた。 「じゃあ、ええと。男性で経験者……でいいッスよね、と」 どうぞ、とトモに携帯を渡す。 「何だそれは」 「女と男、未経験者と経験者の組み合わせで入り口が四つあるんですよ」 「ふん?」 どうでもよさそうに聞き流しながら、トモは手渡された携帯をまじまじと眺めた。 「設問に選択肢で答えながら画面を下にスクロールさせていくんです」 こうやって、と青年がボタンを押す仕草を見せる。 「これか……ああ、分かった」 軽く頷いたトモは指先で操作して次頁のスタート画面を表示させた。 途端。 「―――――!?」 カウンターに頬杖を付いていたトモの顎が、手の中で滑ってズリ下がる。 『初キッスの味は何だった? レモン味だった 味はしなかった そんな事はとっくに忘れた』 「……おい。何だよこれ」 「十問ありますから。正直に答えていって下さいよ」 顔をしかめたトモを見て、青年がニヤニヤする。 「あ。館さん、やってるんスか」 「これって、どれを選択したら値段高くなるんでしょうね」 「バカお前、それじゃやる意味がねぇだろ?」 その頃になると、清次に叩きのめされた連中が早くも起き出してわらわらと周囲に集まり始めていた。ささいな荒事は日常茶飯事の男達である。回復も早いらしい。同様に禍根を残すほどの出来事でもなし、皆、何事もなかったような平然とした顔をしていた。 「―――そうかよ」 ロクな鑑定じゃねえな、と軽く肩を竦めたトモは、どうだったっけななどと考えつつもまぁいいかと指先で『レモン味だった』を選択して、次の設問に移る。 『ナンパする時、君は何という?』 「するか、そんなもん」 不自由してねーよ、と呟きながらも『やろうぜ』を選択。 『女のどこが重要か』 顔と具合に決まってるだろ。 その後も確かにロクな質問内容ではなかったが、とりあえず黙々と選択肢を選んでいく作業に入ったトモだったが。 『君にSEXフレンドはいる? やっぱり欲しい 今付き合ってる相手だけで十分 既にいる』 設問を眼にして、それまで遅滞なく動いていた指が止まる。 トモは暫く画面を眺めていたが、カーソルをゆっくりと『既にいる』に移動させると決定ボタンを押した。 そうして十問ほど続いた下らない質問に答えていると、唐突に『お疲れさまでした』の表示が現れる。 「おい、終わったみたいだぞ。この後はどうするんだ」 「あ、下に鑑定ボタンがあるんでそこを―――」 「これか。押すんだな」 ピッ。 鑑定内容に不似合いな可愛らしい小さな電子音が鳴り響き、数桁の金額が表示された。 それを目にしたトモが眉根を寄せて怪訝な顔をする。 先ほど連中が騒いでいた時に何やら値段らしきものが聞こえたような気がしたのだが、これとはまた違う鑑定の話だったのだろうか。 金額が違いすぎる。それも桁が。 「いくらって出ました?」 「四万一千二百七十九円、と書いてある」 トモが、淡々とした口調で表示された金額を読み上げる。 「へ?よんまん……?」 「………そんな値段もあるんスか?」 「なんかすげぇ……。よく分からねぇけどすげぇ」 「舘さん、それって大人って事なんスかね」 メンバーらが悩んでいるような声をトモに投げかける。 「オレに聞くな、オレに」 問われた男は、こいつに聞いてくれ――と携帯を指差した。 「なに和んでるんだお前ら。余所の客相手に」 意外な結果に皆が騒然としていると、最前オーダーされた酒を作り終えて客の所へ運びに行っていた京一が戻って来て、カウンターに入る手前で足を止めた。 「いや……その」 常日頃から殆ど表情の変わらないチームリーダーだったが、現在はどうやら機嫌が良くないらしい事を、おぼろげながらも感じ取ったメンバーらの腰が、思わず後ろにズズッと引ける。 「おい京一、余所のって事はねえだろ?」 ゆっくりとストールを回しながら、トモが躰ごと振り向いた。 含みのある口ぶりだった。 「あれ。館さんて京一さんと知り合いだったんスか」 トモが京一を呼び捨てにした事へ気付いたメンバーらが、驚いたように二人の顔を見比べる。 「…………」 「ああ、まぁな」 反応を見せない京一に軽く肩を竦めながら、トモが答えた。 「京一さん、館さんの鑑定結果が四万ちょいだったんですよ」 「それが何か珍しいのか」 話しくてうずうずしているらしい相手に仕方なく口を開いたものの、何の興味も惹かれなかったような京一の声だった。 「なんつーかこう、安過ぎるような気が。そんな値段もあるのかよって……」 京一の顔色を伺いながらも返事を得た事に安心した青年が、納得のいかない様子で尚も言い募る。 「結果がそう出たんならそれでいいじゃねぇか」 そいつの遊びが過ぎるんだろう、似合いの金額だ、愛想の欠片もない声でそう言って京一が会話を終わらせようとする。 「言ってくれるじゃねえか、京一。それならお前もやってみろよ」 オレより安いかもしれないだろ、とトモが京一に携帯を突きつけた。 「何を。馬鹿馬鹿しい」 「大体お前、人の事が言えるのか?」 嘲る口調でトモが京一を挑発する。 あれだけオレ達に抱かれてたんだ。そりゃお前にとっちゃ遊びには思えなかったかも知れないがな。こっちはそれなりに楽しませてもらったぜ。 お前の味がどう変わったのかそれとも変わってねえのか。 ―――試してやろうか? 相手に伝わるよう意図して、はっきりと言外の含みを持たせた男の顔には、蔑むような冷たい薄笑いが浮かんでいた。 「…………」 京一はそれを無表情に見返したが、トモはびくともしない悠然とした態度で酒のグラスを取り上げる。それを口に運びつつ、片手の中の携帯を眺めながら何やら思案する顔を見せた。 「そこまで自信満々なら―――」 ふと、悪戯を思いついた子供のような表情が浮かび、それを目にした京一は嫌な予感を覚える。この男がこういう顔をする時には大抵ろくでもない事だった記憶がある。 「―――お前の方が安かったら、キスひとつってのはどうだ?」 再び口を開いたトモがそう言った途端、周囲に恐怖の絶叫が湧き起こる。 「うげぇえええええっっっ!!」 「館さんそういう人だったんですか!?」 ―――京一もだろ………。ってもまだ知らねェ奴もいたか。 それはそれで、ある意味幸せだな。 二つ三つ離れたカウンター席に腰を落ち着けてそれらを眺めながら酒を舐めていた清次が、心中で溜息のような呟きを漏らしたのをよそに。 「館さん、な、なんて」 「恐いもの知らずな」 「……羨ましい」 不気味な囁きを交えながらもメンバーのざわめきは収まらず、更に店内全体へヒタヒタと広がっていく。 ――――――!? たまたま今晩初めてこの店に立ち寄り、京一に程近いカウンター席に座っていたばかりに、隣で発言したメンバーのそれを耳にしてしまった中年男が耳を疑う。しかし大分酒が回っている自覚はあったので、きっと聞き間違ったのだろうと自分に言い聞かせようとしたが。 「いくらなんでもそりゃちっとエグい……」 「館さんでも……許せねぇよ」 ――――――!? 再度耳にしてしまった客の目が今度こそ点になる。 「京一さんに何かしてもらうなんてめったにない機会なんだから」 「ずりィっスよ、キ、キスなんて。それなら俺だって……」 「もういっぺん……かっ考え直した方がいいんじゃっ」 妙な内容のものがいくつか混じっていたようにも思うが、酔ってる挙げ句に喧噪の渦に紛れての気のせいだったかも知れないと考えつつも、中年男のトロンとした目は京一とトモ、騒いでいる青年達へと行ったり来たりして落ち着き無く彷徨い始める。やがて、引き締まった体躯にシンプルな白と黒の服を身に纏い、鋭利な刃物にも似た雰囲気を漂わせるバーテンダー姿の京一へと目線が吸い寄せられる回数が増えていった。 「何だよ。ただのおふざけだろ?」 恐怖半分嫉妬半分で真顔に――もしくは躍起に――なったメンバーらに詰め寄られて、気軽に口に出したつもりのトモは呆気に取られた。 「そ、そうなんですか」 「当たり前だろ」 恐る恐る尋ねた青年達に、トモはあっさりと肯定する。 嘘ではない。ただ、京一が嫌がるのが分かっていてそう言った事は確かだったが。 「―――分かった。それを寄越せ」 次第に大きくなっていく騒ぎにうんざりした京一は事を片付けて、今晩続いているトラブル――京一にとっては―――の元凶とも言える客をさっさと追い出そうと、手を伸ばす。 先程から聞いている限りでは、そうそうトモの金額を下回る事はないらしいと判断したせいもある。 「腹が決まったか?」 差し出された掌の上に、トモがゆっくりと携帯を乗せた。 だがその手はすぐには離れずに、ザラついた親指の腹で京一の指の脇をス―――と撫で下ろしていく。 男の指の乾いた感触と生暖かい体温を感じて、ゾクリとするような寒気を覚えた京一は思わず顔をしかめながら素早く手を引いた。 トモは何事もなかったかのような顔をして、自分の手をカウンターの上に戻す。 「操作、分かります?」 「ああ、大体な」 忌々しい男の姿を視界から追い出しながら低く息を吐いた京一は、携帯のボタンへ指先を走らせ始めた。 |
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