嵐のような微熱 |
二分近くが経過した頃。 ピッ。 最前と同じ電子音が鳴る。 「あ、出ましたか」 「京一さんなら……どうですか。いくらって出ました?」 「すげぇ高かったりします?」 それら周囲の声をよそに。 「――――――」 画面表示に視線を注いでいた京一の指へ、目に見えぬ力がぐぅっと籠もる。 「……取り上げた方がいいんじゃねェか」 少し離れた場所からそれを眺めていた清次が、唐突にぼそりと口を開いた。 「へ?」 意味を取れずに、携帯の持ち主が怪訝な顔をしながら清次を振り返る。 「壊されるぞ、それ」 清次は、京一の握り締めている携帯を指差した。 「何言ってんだよ清次。んなワケねぇだろ?」 それは何の冗談だと、青年は取り合わずに笑いながら返す。 「……ま、いいけどよ」 清次は軽く肩を竦めた。 殆どの感情が表面に現れない京一だったが、側近くで行動する事の多い清次は自分の身の安全の為にも京一の言動をよく見ており――見ているのは決してそれだけが理由と言う訳でもなかったが――故に、ほんの僅かな兆しで京一の機嫌を察するすべに長けていた。 この時も京一は一見何の彩も浮かべていないようには見えたのだが、清次は、かなりはっきりとした不機嫌の気配を感じ取っていたのだった。 投げたような態度の清次を目にして、やおら不安になってきた青年は、高い金を払って購入したばかりの携帯電話に万が一にも何かあってからでは―――と訳もなく不安を覚えたらしい。 常と変わらぬ態度に見えるリーダーの様子を伺い始めた時、問題の携帯がミシリと嫌な音を立てた―――ような気がして青年はにわかに慌てふためいた。 「……京一さん、あの…その」 壊さないで下さいとも返して下さいとも言い出しにくい雰囲気を感じて思わず口ごもる。 「―――ふん」 だが、京一は、あっさりと携帯を放り投げた。 「……うわっ!……っと!」 かろうじて携帯を受け止めた青年はディスプレイを覗き込み、金額を読み上げようとして。 「―――――――ッ!?」 そのまま、ピシリと硬直した。 『八千円』 画面上にはそう、表示されていたのだった。 「オレの勝ちだな」 凍っている青年の手首ごと引き寄せて画面を確認したトモが、京一を見ながらニヤリと笑う。 「……………」 京一が、冷たい光点を浮かべた視線で男を見返した。 「館さんの勝ちって、まさか。………うげぇッ」 「う…っそだろ…」 「…な……んでっ」 寄って来て、表示されている金額を目にした数名の上げる悲鳴のような声が周囲に撒き散らされる。 「おい、どうした」 「いくらだったんだよ?」 少し離れた場所にいた者達も結果を知ろうと集まって来たが、目にした金額に驚愕の声が湧き起こる。 「館さんが四万円で、京一さんが八千円……」 「でもよ……そんなに違うか?」 「違うだろ……」 「いや…そりゃ違うけどよ―――確かに桁も違うけどな、でも」 「……なぁ」 そうだよな、とぼそぼそと囁き合う声がそこかしこで聞こえ始めた。 現実的に自分が手にする金額としては四万円と八千円では大きく違う。自分のエボに取り付けられるパーツの代金に換算して頭に思い浮かべてみただけでも全く違う。 だが、その前に鑑定をしていたメンバーらは五千万や八千万という金額を弾き出しているのだ。その事実をふまえて考えた場合、四万円と八千円の間にそうそう大した違いはないのではないかと思えたとしても仕方あるまい。 「でもこれで……館さんと京一さんが……」 ――――――――。 皆がその先を言えずに押し黙る中。 「京一さんの値段が八千円………俺、八千円なら即金で払える……」 グシャァァアア―――ッッ!! ポツリと呟く声が聞こえたその次の瞬間、誰のものとも知れぬ数本の太い腕が四方八方から無言のまま伸びてきて殴りつけ、不埒な発言者を床へと撃沈させた。 「あ、カップルでの一緒の鑑定はやめましょうって書いてある。ここに」 回された携帯を眺めながら弄っていた一人が間の抜けた声をあげてディスプレイを指差しながら、誰にともなく言った。 「―――何の関係があるんだそれが?」 京一の声が背後から低く響いた。 「オレはどっちでも構わねえがな」 無責任なトモの声もそれに続く。 「いや、その…」 常日頃は冷静な京一が、珍しく怒気を孕んだ表情を見せている事に驚きながら青年は口ごもったが、もう既にトモも京一もこちらを見てはいなかった。 「都合のいい耳してんな二人とも」 取り残された気分のメンバーらはこそこそと囁きあう。 「知り合いだって言ってたけどよ……」 「ある意味、いい勝負なんじゃねえかあの二人?」 「目クソ鼻クソ……とか」 「馬鹿っ」 「けどよ、値段が近いって事は選択肢が似てるって事じゃ……」 「あれってさ。ドングリの―――」 「シ―――ッッ!」 どう見ても友好的とは言い難い雰囲気で応酬をしているトモと京一の姿に、その声が耳へ入ったらと懸念して周囲が慌ててたしなめる。 「……いいって。あの人達もう聞いてねぇよ」 だが、二人はそれにも気付かないほど低次元の争いに泥着しているようだった。 「ここでか」 京一は伸びてきた手からすいと身を逸らし、カウンター沿いに一歩を下がる。 「往生際が悪いぞ、京一」 それに合わせてトモが一歩進むと、京一にもう後はなかった。京一の躰をやわりと壁に押し付けたトモが、親指と人差し指でその顎を捕らえる。 「これだけ客がいる中で何ふざけた事言ってる。後にしろ」 「何だと?」 トモが片眉をひそめる。 「誰がいようとてんで気にしてなかったじゃねえかよ――お前」 忘れたとは言わせねえぜ。 傍目には分からないものの、顎を掴む指に容赦のない力が篭る。 「いつからそんなにお上品になった。え?」 京一の顔を覗き込むトモの眼底がギラと、僅かに光の彩を変えた。 オレがやりたい事をやりたい時にやるんだって事は―――知ってた筈だよな? その目はそう告げていた。 「……さっさと済ませろ」 好きなようにしたらいい――京一は低い声で呟いた。 「お言葉に甘えさせてもらうぜ」 京一の耳許に、くつ、と下卑た笑いを吹き込みながら囁きつつも。 言葉とは裏腹に僅かの感情も覗かせていない京一の双眸に一瞬、昏いものを閃かせたトモだったが、顔を傾けつつその距離を限りなくゼロに近付けて。 ゆっくりと唇に口吻けた。 京一は、目を開けたままそれを受け止める。 歯列を割って滑り込んできたトモの舌先が、京一のそれに巻き付いて吸い上げた。 「………ッ」 ザラリとして肉厚な、濡れた舌の感触に嫌悪感を感じた京一は反射的に頸を振ろうとしたが、トモはそれを許さずに自分の躰と唇とで京一の後頭部を壁際に押し付ける。 背後に回された強靱な腕が、更に京一の動きを縫い止めた。 薄暗い店内の片隅での出来事であったお陰で、幸い多くの客は何が行われているかに気付かぬままだったが、息を潜めて成り行きを見守っていたエンペラーのメンバーや、カウンターにいた客達の視線が否応なくチラチラと二人に降り注ぐ。 ひとつの影を作り出しているふたりの間に。 噴き上がるのは、明滅するのは。 光景。記憶。不可視の―――感情。 割れた鏡面の破片が脳裏に刺さり、映る光景が視神経の奥をジリと灼く。 お前も上の奴等も皆、裏では俺を好きなように扱っていた。 だが、あそこには場所と技術があった。―――人材も。 そして俺は走れればそれでよかった。 だからそれ以外の事に何ひとつ価値はなかったのに。 お前の存在は俺から何かを無理矢理引きずり出そうとする。 お前の剥き出しの視線は痛みさえ伴う程の強さで俺へと突き刺さり、やがては。 干渉してくる他の人間に対するのと同じくお前に対しても意識を切断する、ただそれだけの簡単な事に、俺は僅かなりとはいえ意志の力を必要とするまでになっていた。 だからお前が去った時、俺は―――安堵すらしていたのに。 だがそれもこれも全ては過去の事で―――。 ずっと忘れてたってのにな。 何故今になって俺に思い出させる。 何故また俺の前に姿を見せた。 ―――トモ。 「……京一さ…ん」 重ねられた唇の合間から漏れ出る湿って淫靡な音に、息を潜めて眼前の光景を眺めていた人間達から複数のゴクリと喉の鳴る音が聞こえてきた事で、京一が我に返る。 思惑の奔流に押し流されようとしているうちに、京一の躰へ刻まれた記憶が本人の意志を離れて勝手に、トモとの慣れた角度を探り当てようとしていたのだった。 気付いて京一は顎を捕らえるトモの腕を掴んで引き剥がそうとしたが、男はそれを拒むようにして更に強く舌を絡ませて唾液を流し込む。 「……ぐッ……ぅ」 身を反らした京一が微かに呻きながら喉を鳴らすのを聞かず、トモは背を抱く腕に力を込めた。 ―――お前? 記憶の中のトモと同じ強引さながらも、それだけではないものを感じて京一の動きが緩慢に止まる。京一の訝しげな気配を察したのか、トモの口吻けがより深くなった。 全ての問いを封じ込めようとするかのように、腕で囲った躰を抱きすくめて口吻ける。 肺活量のありそうな厚みのある胸板を上下させながら、京一が僅かな抵抗を見せた。 「ンぅ……ッ」 空気を求める唇から、濡れて籠もったような呻きが漏れる。 「うわ…俺ちょっと……」 「…あ、あ。……俺も何だか……」 「や……べぇ…よ」 男達が落ち着き無く腰をもぞつかせる。 それは一体何の気の迷いだったのか。彼らの目には、長身で逞しい体躯の京一が同様の体格を持つ男の腕の中で抗うその姿が、苦しげに身じろいで背を反らせながらも微かな艶を刷いているように映ったのだった。 だが外野のざわめき一切を気にせずにトモは、京一の唇と舌を存分に味わう事に専念していた。 かつて抱き慣れていた躰を久しぶりに腕にして、トモの下半身が熱を帯びる。教えるようにして股間を京一に押し付けると、相手にも微かな変化が兆しているのが分かった。 トモの片頬に皮肉な笑みにも似たものが刻まれて、その胸の裡には、源の定かでない微かな安堵とともに苦い思いが湧き上がる。 同じだった。 貫かれて熱く反応する躰と、冷たく醒めて揺るがぬ双眸。 喘ぐような呼気は吐いても、歪みさえも浮かべぬ口許。 京一の、切り離されたようなアンバランス。 先程までトモの面に浮かんでいた、揶揄いを含む表情は既に消え失せていた。 互いに目を閉じぬままだったが近すぎる距離に表情は読めず、口吻けている京一の双眸に浮かぶ彩も見る事ができない。だが、トモの脳裏にはかつての京一の眼差しが強烈に甦っていた。 鈍い光を湛えるだけの。 自分を踏みにじっている相手に対して、何の感情も浮かべずに虚空を映す双つの空洞。 あの眼を狂わせてやりたかった。 オレしか映さずに、喘ぎと共に憎しみの眼差しを向けるお前が見たかった。 お前を前にするとオレはいつも―――。 凄惨な翳りがトモの双眸を染める。 だから、見えない方がいい。 オレに向ける無感動なあの眼が、今も同じなら。 お前が社長の手中にあった頃、それについては誰も。何も思う事はなかった。オレ達は気が向いた時の手慰みに抱くだけで満足していたんだ。 だが次第にオレはそれに我慢ならなくなっていった。 だからお前を獲った。オレは欲しいと思った物は必ず手に入れる。 そうしてお前はオレの所有物になった筈だった。 なのに。 快感に仰け反る背や跳ね上がる胸板、白布を掻き乱す指に反して、抱けば抱く程に彩の失せていく双つの眼。 お前は社長にも同じ眼を向けていたのか? トモは、それを知りたいと思った自分と向き合った時の不可解な感情を思い出す。 そして今も同じ感情を覚え、苛立ちを感じていた。 あれにはどういう意味があったんだ。 これには何かの意味があるのか。 山ほどの問題を抱えている今この時、何でオレはここに来たんだろうな。 お前は一体、オレの何なんだ―――。 お前に会いたかった。 お前に会いたくなかった。 ―――京一。 口吻けている京一の唇を、キリ……と噛み締める。 「ツゥ……ッ!」 京一が苦鳴を漏らし、深く絡み合っていた二人の唇が外れた。 「――――」 身じろいだ躰を腕の中に捉えたまま、トモは舌を伸ばして京一の唇を舐め上げた。 微かな甘みを帯びる鉄錆びた味が、口の中へじわりと広がる。 京一の真紅の体液を、トモは舌の上でゆっくりと転がした。 「―――満足したか」 言いながら手の甲で口許を拭う京一の眼に浮かぶのは、やはり。 揺らがぬ鋼の彩であり。 「……ああ、そうだな」 それを目にしながら、トモは低い声で答えた。 「よう、兄ちゃん。お盛んだな」 よろよろと足元も怪しくカウンターを降りて近づいてきた中年男が、京一に声を掛けた。 今夜初めて店を訪れて、一人でカウンターに座って酒を飲んでいた男である。どうやらトモと京一の一部始終を目にしていたものらしい。 「あんた、バーテンダーだけじゃなくてウリもやってんのか?」 「――――」 馴れ馴れしい口調で途方もなく勘違いな事を口にした男に対して、京一は無言のまま氷柱のような視線を向けた。 「いくらだ。俺にもいっぺん―――」 反論がない事をいいことに更に言い寄ろうとした男だったが。 ゴスッ。 「……ッふぐぅ……ッ!」 鳩尾へトモの拳を喰らって躰を二つに折り曲げた。 「上等じゃねえか、おっさん」 いささか凶暴な気分だったトモが、取りようによっては京一へ売られたとも思える喧嘩を自ら買って出る。 「………な、何すんだいきなり……小僧っ」 「こいつに手ぇ出してみやがれ。生きて日の目見られるとは思うなよ」 京一にとっては非常に不本意であり、トモにとってはかつてよりの所有物と見なしている以上は至極当然の権利でしかない発言をしつつ中年男の前に立つ。 「ふざけんな!金は払うって言ってんだろっ!お前なんか無理矢理だったじゃねえかっ」 「触るな。減る」 ドコッッッ。 トモに背を向けて諦め悪く京一に手を伸ばそうとした酔漢の背中を、トモは、ジーンズの両ポケットへ手を突っ込んだまま背後から蹴り倒した。 「オレだけなんだよ、こいつに何してもいいのは」 無様な格好で床に這いつくばった男の背を心地よさげにぎりぎりと踏みにじる足の持ち主が、嘲笑うような声を落とした。 「一応、客なんだ。そのくらいにしておけ」 今晩は店を任されているという自分の立場を思い出した京一は、トモの発言には触れぬまま、適当なところで仲裁の声を掛ける。 「ふん、まぁいい。……だとよ。よかったな、おっさん」 元はと言えば自分がこのトラブルの元凶であったなぞとは露ほども考えぬ、どこまでも手前勝手な男だった。 「ずいぶん機嫌よさそうに帰って行ったな、あいつ」 店を閉め、後片づけを手伝いながら清次が何気なく切り出した。 「そういう時が一番タチが悪ぃんだよ」 何考えてるか分かったもんじゃねぇ。 京一が吐き捨てるように言った。 「もしかしてお前のカオ、見たかっただけじゃないのか」 京一の顔色を伺いながらも、何となく思った事を口にする。 「分かったような事を言うじゃねえか、清次」 そんな事あるか、と京一は表情の薄い顔に僅か、嫌そうな彩を滲ませた。 「そうだとしても言わねぇだろ。俺だって……お前にみっともねェとこなんざ見せたくねェよ」 あいつを庇ってる訳じゃぁねェけどよ、と清次は小さく呟いた。 「なに訳の分からん事を言ってる。今更だろうが?無理するのはやめておけ」 言いながら京一は、手酌で注いだ酒のグラスを口元に運ぶ。 「京一……。いっくら何でももうちっと言い方ってモンが……」 そりゃねぇだろ、と清次が情けなさそうな顔で文句をつける。 「どう言い繕ったところで同じだろうが」 京一の前でちょっとした醜態を晒すのは日常茶飯事とも言える清次に対して鼻先でそう言い捨てながら酒を呷った京一は、唇の疵に染みたのか、僅かに顔をしかめた。ジンとした熱を帯びているその疵は、京一に微かな疼痛を伝えていた。 ゆっくりとグラスをカウンターに戻した京一はその手を唇へと持って行く。 男から与えられた痛みと熱とを拭い去るかのようにして親指の腹で唇を擦った京一は、続けてチロリと覗かせた舌先で、確かめるようにしながら傷口を探った。 清次の眼が、京一のそこへと釘付けになる。 開かれた唇の合間でチラチラと蠢いている、桃色の濡れた肉片。 それが柔らかくはない事を知っている。 それが熱く巻き付く事を知っている。 清次の下半身がドクンと乱れた脈を打った。 京一の唇の端にできた新しい疵。 あの男が残していった所有の跡。 ジリ、と腹の底が灼け焦げる。 その紅い咬み疵に舌を這わせたい。 思う様、吸い上げて―――舐め上げて。 あの男の痕跡なぞ、欠片も残さずに消し潰してやりたい。 胸に腰に息苦しいほどの疼きを覚えながら、清次は京一を凝視した。 向けられた視線にふと気付いた京一が顔を上げる。 二人の視線が正面からぶつかった。 「清次、よせ」 嫌悪でもなく拒否ですらなく、ただ制止するだけの声。 一瞬、痛みにも似た光を浮かべて京一を見つめた清次は黙ったまま視線を外し、ふいと横を向いた。 清次との会話にそれ以上の関心を失ったらしい京一は、その場を離れて残る作業に戻っていく。 「京一……」 清次は小さく口にしながら、逞しい肩でそっと溜め息をついた。 「……あの男、お前とどういう関係なんだよ?」 あの男にあんなマネを許したのは何でなんだ―――。 常の事ながら上手く会話を運べずに、本当は聞きたかったその問いを尋ねそびれた清次はそのもどかしさに下唇を噛みながら、京一の後ろ姿をじっと見つめていたのだった。 ― 了 ― |
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