始まる朝と明けぬ夜 |
目を閉じている筈なのに視界が異様に明るい。 射るような朝の日差しが瞼越しに瞳の中へと突き刺さり、半ば暴力的に覚醒が促されていく。 どうやら既にカーテンは開けられているらしい―――と、智幸は混濁した意識の中で考える。 閉じたままの瞼の中を走る血管が、オレンジ色の瞼裏にうっすらと透けて見えた。 「………ん」 目を瞑ったままで眩しい光の届かない場所を求めて寝返りを打ちながら、右手を伸ばす。 だが、無意識に肌の温もりを求めて動く手に触れるのは、冷たくひんやりとした敷布の感触ばかり。 ぽっかりと、目が開く。 現れた真っ黒い瞳孔に、オフホワイトの天井が映り込んだ。 一度だけ強く瞬きをすると、ベッドに肘をついて気怠げにゆっくりと身を起こす。躰の上からシーツが滑り落ちて腰のあたりにクシャリと溜まった。 露わになった筋肉質な躰の上半身を、部屋に満ちる光がくっきりと浮かび上がらせ、鍛えられたしなやかな背筋の上で張りのある肌が射し込む陽光を跳ね返す。 立てた片膝に左肘を乗せて自分の顔を二、三度ほど擦っていたその手を、ふと止めて。 改めて自分の傍らを見下ろした。 真っ白なシーツ。残された皺。無人の空間。 温もりの跡形もなく、冷え切ったその場所。 「………いるわけねえ、か」 俯いて額を覆ったままの手の下で、智幸はふっと苦笑した。 「………よお」 部屋のドアが開いて、智幸が寝癖のついた頭を掻きながらぼうっとした顔で出てきた。 洗い晒したブルージーンズに、濃紺のシャツ。 腕を通して引っかけているだけのシャツの前から、引き締まって割れ目を見せる腹が覗いている。 「………」 リビングのソファに深く身を沈め、銜えたタバコから緩やかな紫煙を立ちのぼらせながら雑誌を読んでいた京一は、無言のままチラとだけ視線を上げて、また手許へと戻した。 智幸は特にそれを気にする風もない。 僅かに顔を上に向けると鼻をヒクつかせて、くん、と空気中の匂いを嗅いだ。 以前の記憶にあるのと同じく、部屋の中には香ばしいコーヒーの薫りが立ちこめていた。 豆の種類がその時々によって違うのかどうかまで、智幸にはよく判らなかったが。 京一は、ごく少量単位でしか買い置きをしない豆を手動のミルで挽き、コーヒーメーカーを使わずに自分の手でゆっくりと時間をかけながら、優美な形をした青いポットの細長い口から湯を落とす。きめ細かな焦茶色の粉はふっくらと蒸らされる事でぷつぷつと泡立ちを見せて。やがて注がれる湯は芳しい豆の香を辺り一面に漂わせながら濃褐色の液体に姿を変え、透明なサーバーの中へと満ちていくのだ。 どうやらこれに関しては京一なりのこだわりがあるらしい、と智幸は思っていた。 京一は、リビングテーブルに置いたマグカップに時折手を伸ばしては口許へと運んでいる。 注いでからは些かの時間が経っているのか、既にもう湯気は上がっていなかった。 「オレの分もコーヒーあるか?」 飲むと事前に言っておかないと大抵、無情にも自分の分しか淹れない京一を知っている智幸がそう尋ねる。 京一はくいと顎で指すだけの最小限の動きで、キッチンカウンターの上に置かれているコーヒーサーバーを差し示した。 わざわざ聞かずに自分で見ろと言いたげな、煩わしげな仕草だった。 ホットウォーマーにセットされているサーバーに目を遣ると、三分の一程度の量が残っているのが見えた。 どうやら今朝は、多めに淹れたらしい。 「お前、早く起きるのは構わねえけどオレも起こせよ。勝手にベッドを抜け出されんのは嫌いだって何度も言っただろう」 そう言われても京一は、誌面から顔を上げもしない。 智幸がここへ泊まった翌朝に京一の機嫌がよかった試しはないが、今朝は特にひどいような気がする。 まあ理由は分からないでもないが。 いつもの事ながら無愛想に過ぎる態度の京一へ肩を竦めながら、智幸はキッチンへと足を向けた。 淹れたからといっても当然、注いで持って来てくれないだろうかなどというような甘い考えを京一に期待しても、するだけ無駄だという事は今までの経験で十分に知り尽くしていた。 キッチンのシンク脇に置かれた洗いカゴの中で水切りされているマグカップを取って来た智幸は、サーバーの取っ手を掴むと、持ち上げてコーヒーを注ぐ。 視覚へと突き刺さるように鮮やかな濃褐色をした液体が、温かな湯気を上げながら白磁の陶器の底へと滑らかな弧を描いて渦と流れ込んでいくのは、いっそ見事なまでに爽快な眺めだった。 カチャン。 サーバーを元の位置に戻した智幸は、縁までなみなみと注いだカップを口許に運ぶ。 唇に当てたカップの中では、楕円の波紋がとぷんと揺れている。深くローストされた豆に特有の、焦げたような香ばしい薫りが鼻先をふわりと包んだ。 舌を火傷しないように気をつけながらも大きくコク、と含んだ一口目を味わいながらゆっくり喉の奥へ送り込むと、熱い液体が食道を通って胃の腑に落ちていくのが分かった。 口腔いっぱいに充満した芳醇な豆の薫りと同時に訪れた強烈な苦みが、殴るような乱暴さでガツンと智幸の脳髄を刺激して、起き抜けの意識が揺さぶられる。 記憶にある限りの朝に、強く濃いコーヒーを京一は淹れていた。恐らくは毎朝の習慣なのだろう。 良質な豆であるらしく味はいい。それは判るのだが、もう少し薄目に淹れた方がより一層旨いのではないかと、智幸は飲む度に思うのだ。しかし京一が淹れたものの相伴に預かっているだけの自分が何を言える筋合いでもないかと、いつもおとなしくそれを口にしていた。 一口飲んだだけで早くも頭がはっきりしてきた智幸は、ゆうべここに来る事になった最大の原因と、それに起因する、京一への新たな頼み事とを思い出した。 「なあ、京一」 カウンターに肘を乗せて寄りかかりながら、ソファにいる京一の背へと声をかける。 呼びかけても相変わらず無言の京一を、智幸はコーヒーを啜りながら辛抱強く待った。 「………なんだ」 ようやくの、短いいらえ。 「悪りぃが当分の間、オレここにいるからさ」 よろしくな。 置いてくれないか、とそう疑問形ですらない唐突で強引にすぎる頼み。いや、それどころか。 京一は知らずとも智幸の中では既に、ここへ居座る事は昨夜からの決定事項であったのだ。 「………………」 こちらに背を向けている京一の気配が一瞬、静まり返る。 「業者を呼んでるヒマがねえんだよ」 その背を眺めながら、重ねて畳みかけた。 智幸の住んでいる部屋の風呂釜は老朽化が進んでいた。いつかそうなるだろうとは思っていたのだが、どうやらゆうべをもってとうとう御臨終を迎えたらしい。 風呂を焚こうとした所、うんともすんとも言わなくなっていたそれを前にして溜息をついてはみたものの、さっさと見切りをつけた智幸は昨夜遅くにここへ転がり込んで来たのだった。 ゆうべのうちに、京一もそのいきさつを聞かされてはいたが。 「他にもアテはあるだろうが」 よそを当たれ、と素っ気なく返す。 何もここへ来ずとも、智幸を慕う人間はいくらでもいる筈だった。それこそ一声掛ければ先を争って仮の宿を申し出ようとする輩が群をなして、反対にどこを選ぶかを迷うぐらいには。 それ以前に―――。 智幸を迎え入れる権利を、他の何者にも奪われまいとして瞳を強く光らせるだろうあの。冷たい蔑みを含んだ燃えるような視線で京一を睨んでいた青年が。 血が滲む程に噛み締められながらも、わなないていた唇。 だが。 「ここにする」 智幸はそれだけを言った。 京一は手元の誌面に目線を固定したまま、それを凝視する。 誰に提供されるのでもなく。オレがそう望む、と。 決して強くはないが、ひたと据えられている視線を背に感じた。 ―――この男はいつもそうやって。 静かに息を吐きながら瞼を閉じ、ゆっくりと開く。 「………好きにしろ」 僅かな沈黙の後に京一はそう口にした。 「どうせなら上辺だけでもいいから、好きなだけいろ、ぐらいは言ってみせろよ」 取り敢えず許しは出たらしいと知った智幸が、一転して揶揄いを含む声で軽口を叩いた。 「―――言って欲しいのか?」 前を向いたままの京一が、寒々とした低い声で尋ねる。 「………いや、いい」 それ以上一言でも余計な口を利いたら逗留するどころか間違いなく今この時点で即刻、叩き出されそうな気配を感じ取った男は肩を竦めると戯れ言――京一にとっては――を引っ込めた。 先に済ませておくべき用件が落ち着いたところで、さて一服するか、と視線を彷徨わせて自分のタバコの在処を探そうとした智幸は、その箱を部屋に置き忘れて来た事を思い出した。 だが、マグカップをカウンターの上に置いて取りに戻ろうと歩き出した足がぴたりと止まる。 「………ゆうべのがラスイチだったか」 口の中で呟いた。 買いに行こうと思えばタバコの自販機は、このマンションの一階に設置されている。 ほんの数分もあれば往復できる距離ではあったが、智幸はもうすぐ外出する予定だった。 僅かの間だけ我慢すればいいかと考え直して、せめてソファでくつろぎながら朝のコーヒーを飲もうと躰の向きを変えた智幸の視界に入ったのは。 こちらに背を向けている京一の周囲に、ふわ、と漂っている緩やかな紫煙。 鼻腔を擽る、特徴のあるシガーの薫り。 買いに行かずとも京一から一本貰えばいいだけの話なのだが、その銘柄は智幸のものとは違っていた。それが嫌いな訳ではなかったが、起き抜けの一本ぐらいは好みのものを吸いたいという思いも、まだいささかは残っている。 だが、人が吸っているのを見ると自分の我慢が無性に腹立たしく思えてしまうのが人情というものであった。 「一本くれ」 京一の眼前に、ソファの背後からヌッと一本の手が突き出された。 「ねぇよ。これが最後だ」 相変わらず智幸の方を見もしないで京一が、すげなく言った。 「お前もかよ」 チッ、と舌打ちした智幸は軽く天井を仰ぎながら、ハァ―――と嘆息する。ないと分かるとなお一層、口寂しくなった。 「しょうがねえ。なら、それ一口」 京一の手にあるタバコを指差した。 それは本来の長さの中程までが灰になっている。 「………」 智幸に短い一瞥を投げた京一は、指に挟んでいるタバコを自分の口許へ持って行き、深く一服を吸い込んだ。次いで面倒臭せぇと言わんばかりの動作で、勝手に吸えとタバコを持った手をそのまま肩越しへ僅かに持ち上げる。 「ああ」 それを受け取ろうとした智幸の手が、ふと止まった。 京一の節の張った長い指に目を吸い寄せられる。 人差し指と中指で挟まれた茶色いフィルター。 煙草の葉は火口に点る高熱の焔に燻されてそこを通り、紫煙となって中へ吸い込まれる。 京一の、唇の中へと。 白い断面を見せる吸い口の中央には、円形に近い薄茶の影。 フィルターをその唇に銜えていた京一の、呼気が出入りした跡。 タバコを挟んでいる京一の手首が、がっしりとした手に緩く握り取られた。同時に、京一の右肩へと温もりが乗せられる。 ゆっくりと密着してきた背後の男の体温が、京一の背中へと伝わっていく。 掴み取ったその手首の先に、智幸がす―――と顔を寄せて。 軽く開かれた薄い唇が、最前まで京一が銜えていたそこへ触れて、覆った。 京一の唇を感じさせる微かな温もりが残っているような――――錯覚。 数秒前に京一の息遣いが通ったのと同じ箇所を通らせて、智幸がゆっくりと息を吸い込んだ。 暫しの静けさが二人の間を満たす。 ふぅ―――………ッ。 深く吐かれる息が、京一の耳許の空気を震わせる。 智幸の呼気に紛れて吐き出された紫煙が、周囲にユラと淡く漂った。 「やっぱり、そう旨いもんじゃねえな」 「人のもんを吸っておいて、贅沢言ってるんじゃねぇよ」 視線を険しくした京一が、横目で男をジロリと睨む。 「間接キス、だな」 そんな事では今更応えない智幸が、人の悪い顔で笑いながら思いついたように言った。 「………」 京一は無言で瞼をゆっくりと一度、瞬かせる。 「何だよ、その顔は」 軽蔑したような表情を見せられて、智幸が京一に絡んだ。 「今更、間接キスも何もねぇだろうが」 京一のその顔ははっきりと、馬鹿か?と言っていた。 「ふん。それもそうか」 智幸がニヤリとする。 「お前とは、あれもこれも全部やってるもんなあ?」 含むように薄ら笑った男の台詞に冷たい蔑みを浮かべたまま京一は顔を背けたが、智幸は逃がさず横合いから手を伸ばし、誌面に目を向けようとした京一の顎をグイと鷲掴む。 強い力で顎を引き寄せてこちらを向かせると、有無を言わせぬ強引さで唇を合わせた。 「………ぅぐっ」 無理な姿勢で後ろへと顔を引かれた京一が、思わず呻き声を漏らす。 構わず、智幸は更に深く口吻づけた。 反応を見せようとしない京一の口蓋を、伸ばした舌でくすぐるようにして舐め上げる。京一の舌を捕らえると、自分の舌で巻き込むようにして強く吸い上げた。 焦らすようになぞりながらザワリと緩く舐め回す。 ひくりと蠢いた京一の舌が、厭うようにしながらも智幸のそれにゆっくりと応え始め。やがて次第に互いへの口吻けが深くなり、相手の息までをも貪るようにして肉厚の舌が絡み合う。 「………ふ」 二人の間に熱い息遣いが漏れる。こく、と飲み下す湿った音が零れて落ちた。 合間に、シャツの裾からスルリと潜り込んだ智幸の手が京一の躰を辿り始めている。 引き締まった腹から伝いのぼった男の手が、分厚い胸板の上をゆっくりと這い回る。強靱な筋肉を覆っている張り詰めた肌の手触りを楽しむように慰んでいた男の指先が、京一の胸の突起を探り当てた。 転がすように押し潰していた乳首が硬くしこるのを見計らったかのように爪を立てて、強く弾く。 「う―――」 腕の中の躰がびくりと跳ねて、顎が小さく仰け反った。唇が外れて、縺れるように絡み合っていたピンクの舌が濡れた光を放ちながら閃くのが、チロリと覗いた。 「よせッ」 京一が智幸の手を振り払う。戻す手で、男と交わした密に濡れる唇を拭った。 「―――ゆうべあんなにやったのに、まだ足りなかったか?」 ん? 僅かに息を乱している京一の顔を覗き込んで視線で嬲りながら、智幸が親指ですうっとその削げた頬を撫で上げた。 智幸の言い草に、ただでさえ眦が吊り上がっている京一の双眸の、黒目よりも白い部分の優っている眼の際の青味が増して、更に壮絶な凄味を帯びる。だがその眦には微かな彩が刷かれていた。 そしてまた智幸自身も。 揶揄するような口調でそうは言ったものの、自分から仕掛けておきながら。最前の濃厚な口吻けに。自分を睨み上げる京一の凄絶な双眸とその目許の僅かな艶に。身の裡へ昨夜の熱い疼きを再び呼び覚まされていた。 煽ったオレが煽られてどうする―――くそッ。 合わせた肌の燃えるような熱さを思い出して股間が熱を帯びている。今にも勃起しそうだった。 痛みを覚える程ではなくとも、ジーンズの前がきつい。 このままここでもう一度この躰を押し拓いて、京一を。 抱きて…え―――。 充血を促す欲望がじわりと噴出する。 だが。 チラと壁の時計に眼を遣った。 ―――タイムアウト、か。 余りにも心残りではあった。が、当分の間はここにいるのだからいくらでも機会はある、とそう考えて、諦めざるを得ない今の状況下に折り合いをつけようとする。 未練がましく欲求を訴える下半身を意志の力で宥めすかしつつ、智幸は深く長い息を吐くと。 「お前、今日は?」 京一から無理矢理に身を引き剥がして立ち上がりながら予定を尋ねた。 瞬間の集中力を総動員した智幸は、既にして自分の頭と躰を切り替える事に成功していた。 「別に」 一仕事終わったばかりで今日からは当分の間オフとなる京一が、よそよそしく冷たい表情のままで短く答える。 「―――そうか。じゃ、俺はもう出るぜ」 その声は、常と何一つ変わらぬふてぶてしさを取り戻していた。 「………」 俺には関係ねぇとばかりに京一は、手にしていた雑誌を放り出す。 「京一。行ってらっしゃいのキスは?」 全く懲りていないらしい智幸が、ニヤニヤしながら指先でとんとん、と自分の唇を叩く。 振り返りざまに凝視する京一の視線。 「ふざけろ」 凍る声で一刀のもとに切り捨てた。 「チッ」 つれない情人に智幸が舌打ちをする。 京一は、相手にしていられるかという風情をありありと伺わせながらソファから立ち上がり、私室へと足を向けた。 まぁそんなもんか、と諦めた智幸が玄関に向かう為にその横を通り過ぎようとした時。 すれ違いざまに京一の足が止まり、次の瞬間には既に背後へと歩き去っていった。 一瞬、智幸の頬の上を掠めていったのは。 最前の残滓に微か湿った唇の感触。 「………」 視線で京一の背を追いかけながら、智幸が自分の顔へとゆっくり手を持ち上げる。 指の背でその箇所をそっと撫でた。 「何だ」 凝視されている気配を察した京一が、私室のドアの手前で肩越しにチラと振り返る。 その顔の上には、どんな感情も浮かんではいなかった。 完全なる無表情。 「無愛想なツラでされても……あんまり嬉しくはねえもんだな」 軽い冗談を言うような智幸の口振りだったがそれには、思わずといった動揺の響きが隠しきれなく滲んでいた。 「そうか。それはよかった」 感情の伺えない声で言い捨てると、京一はドアノブに手をかけた。 「……じゃあな」 とすると、もしや今のはただの嫌がらせなのだろうかと考えながら智幸がその背に声を投げる。 だが今度こそ、それに対するいらえはもはや無く。バタンと扉の閉まる音だけが耳に返った。 軽い驚きから冷めた智幸は、愛想の欠片もない京一の態度に溜息をつきながら玄関へと向かう。 乱暴に靴へ足を突っ込むと、ドアを開けて外に出た。 「ま、しょうがねえか………」 ガチャリ、と後ろ手でドアを閉めながら呟くと、手の中でキーをチャリ、と放り投げながら駐車場へと足を向けた。 智幸がイグニッションを回してエンジンに火を入れると、命を吹き込まれたボディが身震いして軽い振動と心地よいサウンドが躰を押し包んでいく。慣れ親しんだそれらに心と躰が解放されて初めて智幸は、自分が疲れている事に気が付いた。 腰も―――いやに軽い。 思わず苦笑いが洩れた。 「……ったく。しょうもねえなオレも」 今のオレに色惚けしてるヒマなんかないってのにな。 だが多分、あいつの躰も。 ―――だいぶ手ひどく抱いちまったか……。 抑えがきかなかった。あの眼のせいで。 ―――ま、あいつなら壊れやしねえけどな。 口許に昏い笑いが刻まれる。 躰に伝わってくるエンジン音が思い出させる。ゆうべを。 そして過去を。 組み敷いた躰を抱いている間、突き上がる快感がパルスとなり脳を刺激して、光景の欠片をスパークのように閃かせていた。 須藤京一という希有なる男と凌ぎを削り合っていた、あの、数多の夜を。 京一よりも一瞬早く、決められたラインにノーズを飛び込ませていた愛車のサイドを引き、伸ばした指でライトをオフにする。消灯するメーターパネル。夜に沈むコクピット。口許を歪ませる笑みをも闇に沈めて気を抑え、フルバケットにゆっくりと背を預けながら遠くにひとつ視線を投げて息を吐き。ビリビリと躰を突き抜けていた震動の名残りへと身を浸す。 高回転域で駆り立てられる事を無上の喜びとするエンジン―――BCAの咆哮が消えると、自分を取り巻くようにして生まれた静寂が耳を冷やす。走り終えてクルマの中で。シンとした静けさに気付くその瞬間が好きだった。体内に満ちていた力を緩やかに解放する。それでも躰には余熱が残って、燻るそれは少しずつ、ある欲求の形へと変容していくのが常だった。 ドアを開け外に立ち、振り返るとそこには同じように車外へ降り立つ京一の姿。身の裡に滾って冷めやらぬ興奮に、ぎらぎらとした光を湛える寡黙な男のその眼は、静かにオレを捉えていて。 真っ直ぐに、オレを。 淡々としているその視線にさえも、くつ、と抑え切れぬ嗤いが込み上げた。数刻後に待ち受けているのだろう京一の眼と、自分の得る虚しさを知っていてもなお。 夜闇の下では溶けよとばかりにタイヤを鳴らして路面を蹴散らし、降りては浅ましく喉を鳴らしながら貪るようにして絡み合う。オレ達のあの至高で泥沼のようだった関係につける名などなかった。 「昔も……今も、な」 ステアリングに乗せた両腕の上へ額を落としていた智幸は、低く呟いた。 |
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