始まる朝と明けぬ夜


 2  









 部屋の扉を背にして立っていた京一の耳は、智幸の閉めたドアの音を捕らえていた。
―――行った………か。
 今まで堪えていた泥のような疲れが一気に京一へと襲いかかる。
 ダン―――と扉に背を押しつけて、崩れ落ちようとする躰を繋ぎ留めた。
 気力も体力も既に限界が近かった。
 ここ暫くの間の、神経を張り詰めながら根を詰めていた仕事で積もりに積もっていた疲労と睡眠不足。にも関わらず。いきなり押し掛けて来た挙げ句、強引な手段に訴えてきた男となし崩しに始めてしまったゆうべのセックス。そしてそんな躰を抱えたままで、今朝は早く起きざるを得なかった。
 この重苦しく躰に纏わりつく疲労感がそれらの相乗効果であるのは間違いなかった。
―――だらしのねぇ。
 早起きだなと口にした智幸がそんな些細な事を覚えているかどうかは定かでなかったが、京一は夜型で元より眠りに就く時間は遅く、そしてあまり寝起きのいい方ではなかった。
 決められた通勤時間がある訳でもなく、予定の入っていない時であれば躰の目覚めるにまかせた時間に起床するのを常としていた。
 人のもたらす体温を無性に好む京一だったが、眠る時にはその気配を感じると神経が冴えてささくれ立ち、深い眠りに落ちる事ができない。何故そうなのかと追求する事も深く考える必要性もないままに京一は、そんな自分の有り様を受け入れていた。
 ベッドの中で隣に人間がいる場合はただでさえ遅い就寝時間は更に遅くなり、ついにはそのまま眠れずに朝を迎える事も多い。例え得られたとしても朝方に僅か少しだけトロトロと微睡むような、ごく浅い眠りだけだった。
 だが、疲労を増すだけのような気怠い微睡みではあっても、朝がそう得意でない京一は頭と躰が目覚めるまでにいささかの時間を必要とする。そして京一は普段何らそれを感じる事などないというのに、人と熱を分け合った翌朝、相手が既に出ていってしまった後の部屋で独り目覚める事をあまり好まなかった。
『勝手にベッドを抜け出されんのは嫌いだって何度も言っただろう』
 智幸の声が耳に返る。
―――残念だったな。俺も嫌いなんだよ。
 ふん、と鼻先で嘲笑う。
 京一は、誰かとベッドを共にした朝はその相手よりも先に起きる事を習慣としていた。
 早めに起きてコーヒーを淹れ、常の姿を取り戻す時間と手段を手に入れる。
 強すぎると智幸に思わせていたコーヒーは、そんな京一が自分へ目覚めを強いる手段のひとつだった。必要以上の濃度と苦さはその為でもあり、故に京一が自分にだけ淹れている事を智幸は知らない。また知らせる必要もない。
―――だがさすがに、な。
 深く息を吐き、片手で額を覆う。
 ゆうべは強引に京一を欲した智幸と何度も絡み合い、深く躰を重ねて狂ったように熱を放った。
 狂った、ように―――。


『抱かせろ―――』
 深夜に部屋を訪れた男。暗がりに底光る双つの眼。爛と。のし掛かる影。喰らおうと。
『聞くかよ』
 言下の否定。凍る視線。余地のない拒絶。
 跳ね飛ばそうと、し、て。
『抱きてえ…ん…だ』
 お前を―――。
 ………京一。
 押し殺すように掠れた呻き。首筋に深く埋めて動かぬ額。両肩を鷲掴む強すぎる力。
 凝視した虚空。セピアに灼けた光景。記憶。滞空する――時間。
 一瞬の遅延。
 待たずして。
『てめぇ……何しやが………ッ!』
 布地の裂ける喘鳴。バネのようにたわむ背筋。繰り出される硬い膝。容赦のない。鈍い打撃音。

 激しい揉み合い。膨れあがる巨大な気配。拮抗する力。荒い息遣い。薄氷の均衡。―――停滞。
『………きょう…い、ち』
 祈りのように、微か。
 塗り込められた暗闇で。伝う響き。
 共に堕ちろと焦がれるように吐くように囁くように。何故。
 ならば光ある場所で見せるあの顔は―――。
 否。視るな。不可。抹消。―――完了。

 静止。宙に移ろう視線。闇に溶けた嘆息。抜ける強張り。落ちた静寂。
 淫猥に蠕動する空気。闇に蠢く四肢。這い回る湿った肉片。刺すような痛みが残す痣。
『口、開けろよ』
 京一―――。
『……………』
 返る無言。唇をなぞる指。穏やかに。絶対者の顔をして。
『指、濡らして慣らさねえとお前が辛いだろ?』
 柔らかく凍らせた声。蕩かすように囁かれる睦言。吊り上がる口の端。
『う……ぐッ!』
 口蓋を犯す指。蹂躙される舌。糸を引いて伝う唾液。躰の奥深くを探る数本。
 両脚を押し開いて割り込む躰。噛みつくような口吻け。強く吸い上げられる乳首。腰骨の上を辿る舌先。
 熱を帯びて疼く腰。勃起する欲望。支配する本能。組み敷いて求める躰。

 触発される扇情。

『………う…』
 緩く投げ出した四肢。彩の失せて行く双眸。切り替わる意識。
『…………!?』
 そこに見出すのは。諾と身を任せる躰。両眸から消失した光。
『……ッハ……ァ……』
 代わりに浮かび上がるのは。熱を帯びた肌。伝わる硬い昂り。ドクドクと波打つ血流。
 欲望を満たした躰。感覚のみを追って。喪われた意志。
『―――お前?』
 まさか…また。
 地の底を這う声。滲むように潜んだ怒り。遠く既視感。
『続けろ、よ……』
 冷たく醒めた双眸。声音のみ密やかに熱く。喘ぐような呼気。
『………お前は』
 時を経て未だなお―――。
軋む声。微かな安堵。奇妙な響き。狂おしく。

 智幸のリミッターがカットされる瞬間だった。



『……挿れるぜ』
 嗄れて掠れた声。押し当てる先端。灼熱の肉塊。ぬめる摩擦。
『………』
 歪まぬ口許。沈黙。虚空を映す双つの空洞。鈍く、淡と。
『いつだって』
 お前は―――。
 望んで抱くのは自分なのにそれでもやはり。
 覚えのあるもどかしさと虚しさと。それを上回る憤りが込み上げて、自分の下に組み敷いている躰へと憎しみの視線を浴びせかける。
 オレに言わせたいのか。
 お前が変わってなくて嬉しい―――とでも。
 この手に掴んだと何度思ってもその瞬間に、確かだったその形は崩れ去り、砂のようにざらざらと指の間を零れ落ちていく。
 ここに在るのは既にもう。
 感じる快楽を貪欲に追い、喘ぎを放つ虚ろな存在でしかない。
 僅かに先端を押し込むと、京一の躰がひくりと反応した。
『感じてんのかよ』
 虚しい問い掛け。答えは知れていた。
『……あ…あ…』
 艶を帯びて洩れる喘ぎ。欲して耐えかねるような身じろぎ。
『いいのか、京一』
『……ああ。……い、い』
 智幸の言葉をただ映したように返ってくる声。
 ぎり、と歯噛みする。
 抵抗する心と躰をねじ伏せて屈服させ、こいつに屈辱を味あわせる、なんて余地はありゃしねえ。
 このプライドの高い男が。少しでも意志を宿していたら、この様を決して許しはしないだろうに。
 感じたままに声を放ち欲情に濡れた眼を見せて、心を残さずに本能だけで動く躰。
 熱い躰をした抱き人形。
 こんな抜け殻のような躰を抱きたがる自分の欲望にさえ、憎しみを覚える。
 それでも犯し続ける事がやめられない。
 京一を。須藤京一というその存在を。
 そこに何を見出したいのか、何かを見出そうとしているのか。
 お前故にオレは。
 なのにお前は――――――!!
 智幸は自分の昏い感情を叩き付けるように、かつて何度も飲み込ませたそこへ、滴るものに濡れ光る先端を押し込んで一気に貫いた。

 突き立てる肉の凶器。
 無音の哄笑。

『―――ッア!………ぐぅ……っ!!』
 侵入する怒張。血の下がる異物感。迫り来る予感。兆しそして奔流。襲う強烈な。過去の再来。
『ち…く……しょうッ!!……キツ…い…』
 深く奥までを穿つペニス。我を忘れ突き入れる腰。鋭い刺激。波を堪える唸り。歪んだ嗤い。
『黙って……や…れ……』
 無機質な声音。背を駆け上がる快感。放たれる喘ぎ。堪えずに。情欲に染まった双眸。空虚に満ちて。
『うるせ…え………よッ!!』
 鋭く痺れる先端。熱く荒ぐ呼吸。暴れ回る凶暴な愉悦。止まらぬ律動。蹂躙する昏い悦び。
 跳ね回る舌。貪り合う濡れた音。濡れ、た―――。
『――――あァアッ………ァアアアア――――!!』
 仰け反る背。貫かれて熱く反応する躰。跳ね上がる胸板。敷布を掻きむしる手指。
 暴走する体内温度。登り詰めて弾ける欲望。溶ける自我。融合する意識。彼我の消滅―――。

 力ずくで犯すように躰を割り拓き、その最奥へと深く根本までを打ち込んだ男のペニス。
 縺れ合って一つに繋がり、闇を織り交ぜて絡み合う二人の男が貪りながら撒き散らしたものは。
 互いを灼き尽くすような激しさで荒れ狂った、爆発するような。放熱。堪えようのない。滾り。
 繰り返される吐精。引き絞られる射精感。迎える絶頂。溢れ迸る欲望。飛び散る精液。白濁。

『俺を見ろよッ、京一ッ』
 燃えるような双眸で切り裂くような声で。
 非現実感。遠く。
『お前を抱いてんのが誰だか分かってんのかッ!』
 意味をもたらさずに。無為の取捨と。選択。
 京一ッ―――!
 滾るような熱を孕んで名を呼んだ、声―――。

『キョウ…イチ…ッ!!』
 声。

 耳に返り頭蓋に響く。名のみが、轟と―――。
 声。



「―――ッハァ、ッハァ………ッ」
 京一は、肩で大きく息をしながら強く瞬きを繰り返す。
―――く…そ………ッ。
 まざまざと脳裏に甦った自分達の痴態の数々を、頭を振って追い払う。


―――挙げ句に…このザマかよ。
 自嘲した。


 する事を終えてしまえば後は智幸をさっさとベッドから追い出してしまえばいいようなものだが、それでも、まだ温かな人肌の熱を傍らにしていようとする自分の思考回路は、我ながら笑止だった。
 昨日まで大詰めの仕事を抱えていた京一は、ただでさえろくに寝ていなかった。今朝はのんびりと朝寝を満喫する予定だったのに、ゆうべいきなり転がり込んできた智幸のお陰でそれは跡形もなくブチ壊された。
 それが今日一日の事だと言うのであればまだ我慢のしようもあったのだが。
―――当分の間だと?
「勝手な事を」
 一度決めた事であれば京一が何を言っても智幸はどうせ引き下がらない。付け焼き刃のような理由を口にしてみてもあの男は自分の望むようにしか事を運ばないのは分かり切っていて、それぐらいなら、と許可を与えた。しかし考えてみれば続くゆうべのあれだとて、結局は智幸の思惑に乗ってしまったようなものだ。勿論、流されたも同然の自分が忌々しくない訳ではなかったが。
 常日頃は揶揄うような皮肉げな笑いばかりを口許に浮かべている男だった。
 何を言われようと、それが口先だけの事であれば京一に見抜けぬ筈もない。
 そうであれば何らの感慨もなくあっさりと切り捨てる事などたやすい筈なのに。
 あの男の口調の中に時折滲む、喩える事のできない響きのようなものが何故か。
 いつも京一に最後の最後で否やを言わせはしないのだ。
 智幸の綻びから垣間覗く何かをそれ以上知りたくはなくて。知るつもりもなくて。
 肯定する事で言葉を封じる。
 恐らく智幸はそんな京一を知っている。だからこそああして―――いつも。
 京一は苦い思いを噛み締める。
―――俺達は。
「………馴れ合っているのか」
 それとも―――。
 京一は深く息を吐いて、考えるのをやめた。


 この住まいは、知人から破格の安値で譲ってもらった部屋だった。特に使用目的もなく譲り受けたものだが一人暮らしの男には分不相応なまでに広い間取りである。ご丁寧なことに前の住人は家具も残していってくれた。今京一が私室にしている部屋に二つ置かれていたベッドのうちの片方を、空き部屋に放り込んである。そう配分したものの京一は大抵、リビングに置かれているソファベッドに転がって寝てしまう事が多い。だが、ゆうべは智幸の気配に煩わされる事を嫌い、久しぶりに私室のベッドで寝る事にして招かざる客には残りの部屋をあてがっておいた。しかし深夜にやって来て好き放題に振る舞った男はそのまま戻らずに、二人の残滓で汚れたシーツを替えた後も結局、京一のベッドに泊まって行ったのだった。
―――今夜からは、向こうで寝てもらおうか。
 自分の安眠の為にもそう胸に刻むと京一は、とりあえずゆうべ寝そびれた分を取り返そうと考える。起きた時分からはもう大分軌道が動いてしまった太陽が投げかけている陽光が部屋に満ちて、眩しいほどになっている。
 着ていた服を乱雑に脱ぎ捨てながら顔を上げると、そこには今の京一にとって何よりも価値を持つ光景が具現されていた。

 真っ白なシーツ。射し込む眩いまでの光条。
 陽射しを受けて程良く暖まったベッド。

「………好きなだけ惰眠を貪ってやる」
 低く唸るような声で呟いた。
 気怠い躰を横たえてシーツを腹の上まで緩く引き上げる。
 その時、ほど近い場所から覚えのあるエンジン音が駆け去って行くのが聞こえた。
「何で今頃そんなもんが聞こえる………」
 智幸が出て行ったのはもう随分と前の筈だったが。
「―――知るか」
 京一は全てを頭の片隅に追いやって、ゆっくりと瞼を閉じる。
 待ち望んだ睡魔はすぐに訪れて。
 間もなく京一は、深く深い眠りへと落ちていった。

 
 駐車場を抜けてからも思考に沈みながら片手でステアリングを握り、無意識に車体を走らせていた智幸は、
「……ん?」
 開け放したウィンドウの上に肘を突いている自分の右手がずっと、頬の同じ場所に触れながら行きつ戻りつしていた事に気付いて、ふと物思いから覚めた。
「…………」
 目の前を走っていた車が左ウィンカーを出すのを目にしながら、智幸は思わず無言になる。
 それは、京一の唇が掠めていった場所だった。
 先行車が左折して、智幸の視界が大きく開けた。
 ガツン、と足元の鋼を蹴り付けて、燦々と朝の光が降り注ぐ大気の中をスピードを上げて疾り出す。
「……ったく、つれねえ奴だよなあ」
 頬を嬲る風を受け止めながら鼻先でフン、と不満そうにそう独りごちた智幸の唇は、だが。微かながら曲線を刻んでいた。



 今日という日はまだ、始まったばかりだった。
 穏やかな陽の光が、無人のリビングに満ちて踊り。
 爽やかに透き通る風が、青空の下を駆け抜けていく。




                                      ― 了 ―