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世間一般で休息日と言われる今日は、昨日までの家に閉じこもりたくなるような寒空続きだった天気とは打ってかわって、抜けるような青空が広がっている晴天だった。 師走に入ってだいぶ日が経っているために外気はかなりシンと冷え込んでいるものの、大きく息を吸うと澄み切った大気が肺に入ってくるのがそれなりに心地よい。 肌を刺すような風も吹いておらず、空高い場所で輝くお天道様からは燦々と陽光が降り注ぎ、過ごしやすい一日を約束されているような日であった。 町中の店の戸が開いた時分であろう今は、ぽかぽかとあたたかな陽気に出足を誘われてか、木の葉の里の目抜き通りは大勢の人間で賑わっていた。 そろそろ年の瀬を睨んで早くも買い出しをしようとする者や、ここ数日の寒さで足を渋らせている間にずいぶんと溜め込んでしまった用事を済まそうとする者達が足早に通り過ぎていく。 忙しなく行き来するそれらの人間達の間にあって、のんびりと往来を闊歩している男女二人連れの姿があった。 すらりとした美しい女と頭抜けた長身の男という組み合わせというだけでも目を引いていたが―――加えて彼らの特徴的な服装から里の上忍であることが知れて、時折チラチラと目を向ける者もいた。 しかしそれらの視線を気にすることもなく、その二人連れは人混みでごった返している往来を他人とぶつかりもせず器用に合間を縫いながら悠然と歩いていた。 彼らの様子をしばらく見ている者がいれば、片方の女が歩きながら店先で惹かれたものを目にするとふらりと立ち寄り、それと共に男も足を止め―――しばらして女がその場を離れると付き従うように男も歩き出すということを繰り返していることが分かったであろう。 どうやらその二人連れは、気まぐれな散策でもしているような風情であった。 と、ある店の前でまたもや女がぴたりと足を止めた。 目の前で立ち止まった女に、すぐ後ろを歩いていた男もすいと身を引き、音もなく足を止める。 腕輪や耳輪などの装飾品、髪飾りや蒔絵櫛やかんざし、白粉や紅などの化粧品を扱っている小物屋の前であった。 その場で立ち止まったまま動かなくなった連れの顔を男が横目で眺めると、すでに女の視線は品物の物色を始めている。 ―――またかよ。 内心でうんざりしたようにそう呟いた。 果たしてこれで何度目になるのであろうかため息をつく。 男はあきらめたような表情を浮かべると、人通りの邪魔にならぬよう店の端へと身を寄せて、懐から煙草を一本抜き出しながら青空を仰ぎ見た。 家でのんびりと昼寝を決め込もうとしていた自分の処へやってきて、買い物に付きあえと誘い出しておきながら、特に何を買うでもなく、ただ店先を渡り歩いて楽しんでいるように見える女の様子に憮然としながら、唇にくわえた煙草に火を付ける。と思いきや。 「ねえアスマ、これ買って」 くいと袖を引かれて男が目を向けると、女の白い指先が小さな瓶の上をとんと弾いた。 細長い銀筒の下に続く硝子瓶の中には、とろりとした濃度のある血のように紅い液体が揺れている。 「何だよそれ」 アスマと呼ばれた男は怪訝そうな表情で眉根を寄せながら顎を引き、連れの女―――夕日紅の白い指先にある物を試す眇めつしげしげと眺めたが正体を見極められず、女の顔へと視線を移す。 「マニュキア」 見て分からないのと言いたげな呆れたような目線に出会った。そんな顔をしていても美しいとはただの嫌味だ。 「そんなもの自分で買えよ。小銭だろ」 「給料前なんだもの。お財布空っぽ」 だからご飯も奢ってね。 たかる気満々らしい紅がそう言いながらにっこり微笑む。 「……しょうがねぇな。一楽でいいか?」 「イヤ」 笑顔もそのままに紅がきっぱりとラーメン屋を否定した。それでもやっぱり美しい。 店主のテウチに一度刺されろ。 「…………お前な。自分が給料前なら俺もそうだとは考えねぇのか?」 煙草をくわえたアスマの口元が笑みを浮かべながらもひくりと歪む。 「なによケチ、あんたの方が給料高いじゃない」 そう言いながら紅は指先でつまみ上げた赤い小瓶を、ごく自然な動作で「はい」とアスマに渡した。 「うん?…………………オヤジ、これくれ」 思わず受け取ってしまったアスマは手の中の物を無言で眺めたのも束の間、この女にはしょせん逆らうだけ無駄だと観念して、あきらめたように店の中へと小瓶を突きだす。 「へい、こりゃどうも」 目の前で笑み合う二人の間で交わされる剣呑なやり取りは見えぬふり聞こえぬふりで、愛想のよい笑顔を振りまいていた店の主人はさっと手を出し、男の気が変わらぬうちにと手早く品物を紙に包んでいく。 世の中せちがらい。 「お連れさん、別嬪ですねえ」 やるねえ兄さん。よッこの色男。 そう言わんばかりの好色そうな目つきで紅の全身をざっとなめ回した親父が、アスマにだけ聞こえる声で囁きながら締まりのない顔でへらへら笑う。 「そんないい話ばかりでもねぇんだがな」 アスマは渋い顔をしながら懐から取り出した財布の紐を解き、色惚け親父相手に勘定を済ませると品を受け取った。 「行くぞ」 店の親父の、まいどありぃ!という威勢のよい声を背中で受け止めながら紅に包みを手渡すと、アスマはこれ以上何かを買わされてたまるかと先頭立って歩き始めた。 「ありがとアスマ」 語尾にハートマークを振りまきながら礼を口にした紅が是非次回へ繋げるべくサービスも兼ねてにっこりと笑う。 声に振り返ったアスマが目にしたのは、嫣然という表現が似つかわしい女の笑みだった。…………こいつに言う言葉はもうねえ。 「ふん、調子のいい奴が」 機嫌よく腕を絡めてきた紅に顔をしかめながらも、男であるからには悪い気はせず隣を見下ろす。 嬉しそうに自分の腕をぎゅっと抱く女の腕は。 よく鍛えられた腕ながら、その肌は柔らかくて。 ―――まぁ、いいか。 気を変えたアスマはそのまま好きにさせることにした。 「で、メシどうすんだよ。ホントに一楽じゃ駄目なのか?」 「イヤだって言ったじゃないの」 「別に美食家なわけじゃあるまいし。アヤメちゃんの顔見ながらラーメン食えばいいだろ」 紅の気に入りである娘の名を出して、できるだけ出費を抑えようとする。 「そりゃ可愛いアヤメちゃんが甲斐甲斐しく運んでくれるラーメンを、可愛いアヤメちゃんの顔眺めながら啜るのもいいわよ、いいけどね。たまには別の場所でもいいでしょ」 「そうかい」 日頃の自分の欲を脇に置いてまでも、今日は奢らせる気に満ち満ちているらしい紅の様子にアスマがふぅと息をつく。 「……まあいいけどよ。にしてもお前、あのコとは歳が一回りも離れ―――のわッ!!」 憎まれ口代わりに言わなくてもいいことを言ってしまった男がのっぴきならない声をあげながら飛び退いた。 ぶんッと空気を唸らせながら放たれた足刀を、すんでのところでアスマがかわす。 チッ。 既にもう何事もなかったような顔を見せながら隣を歩いている紅の口元から鋭い音が洩れた。……ような気がした。 「紅。いまお前……舌打ちしなかったか」 「あら空耳でしょ。それに―――」 一回りじゃないわよ。十歳しか離れてないじゃない。 失言を洩らした男を、紅が冷たい目線でジロリと睨む。 「……そうかよ俺が悪かったよ。じゃあ詫びがてらに……酒酒屋じゃどうだ」 「イ、ヤ」 ワンランクアップさせて旨い飯を食わせる中華屋の名を挙げたアスマの提案は、再びの冷たい声で却下を喰らった。 「………………」 奢るのは俺じゃないのかとは言わず。言えずに。 いい加減慣れているとはいえ、天上天下唯我独尊を体現しているかのような女の言動に思わずアスマが無言を返す。 「人のお金でご飯食べるなら美味しい所がいいに決まってるじゃない。せっかくの年の瀬なんだからぱぁっと景気よく奢りなさいよアスマ」 男でしょ。 そう言わんばかりの表情を浮かべながら、あくまでも口元は美しく微笑ませている女に対して。 「面倒くせぇな……もういい、好きな場所に連れてけよ」 空を仰ぎ見ながら嘆息した男は白旗を振って降参した。 「最初っからそう言えばいいのに」 呆れたような女の口ぶりにどっと疲れを覚えながら、腕を引かれるままにアスマも歩き出す。 しかし文句を言ったものの、紅は元々そう金のかかる女ではない。たまの休日に飯を奢るぐらいはいいかと気楽に構えていたのだが。 引きずられるままに連れて行かれた先は、随分と上等な店構えの楼閣だった。てっぺんが高くて見えねぇぞおい。 「……なあ紅、分かってるか。俺の財布にも限界はあるぞ」 額に手をかざし、天高くそびえ立つ高登楼の先を仰ぎ見ながらアスマが憮然たる口調で言う。 「大丈夫よ、見てくれよりは高くないから」 その基準は奈辺にあるのか、無責任にひらひらと手を振った紅はそう言うなり、さっさと店の入口へ足を向けた。 「ホントかよ」 唇をへの字に曲げながらアスマもその後をついて足を踏み入れた店ではあったが―――。 一望の下に里を見渡せる景色のよい個室に案内され、値段の書かれていない品書きに更なる不安を煽られつつも何品かを選び出して、煙草を口にしながら待つことしばし。 「へぇ。旨いじゃねえか」 思わず声が口をついて出た。 「だから言ったでしょ」 自慢そうな女の声が続く。 運ばれてきた飯や酒は確かにどれも文句のつけようがないほどに旨かった。 彩とりどりの皿に品よく盛りつけられた膳を嬉しそうにつつく美しい女を見ながら食事をするのは――しつこいようだが――男としてそう悪い気がするものではない。 他愛もない世間話の合間に、里の一般人が聞いたら腰を抜かしそうな剣呑な話題も織り交ぜて酒肴にしながら、自分も旨い飯を腹いっぱいに収めたアスマは、それなりに満足していた―――店の出口で伝票を渡して自分が支払うべき代金を聞くまでは。 『じゃ私、外で待ってるわ』 と、一言だけを残してさっさと店の扉を開けて姿を消した女を心底恨みながら。 「……前言撤回」 勘定台に行儀良く座る小者を前にしたアスマは口の中でぶつぶつと呟いた。 「は?」 アスマの声に尋ね返した若者に「いや、こっちの話だ」そう返して勘定を済ませると。 「旨かったぜ、御馳走さん」 そう一声をかけた。本当の事だ。 「有り難う御座いました!またご贔屓にー!!」 元気の良い声に見送られ、ああと答えて片手を挙げながら―――もしもまた次来る時があるならば、その時は今度カカシかイビキあたりを上手いことたぶらかして奢らせようと思いつつ、アスマは後ろ手にがらりと店の扉を閉めた。 「紅てめぇ、高くねぇとか吹かしコキやがって―――」 待っていた女に向かって早速の剣突を喰らわせる。 「でも美味しかったでしょ?美味しかったわよね?」 「………………それとこれとは話が別だ」 確信犯の顔つきでにんまり笑う女の言葉を否定もできず、眉根を寄せて渋い顔をしながらも何とか言い返す。 「そう?じゃあ次はカカシかイビキ辺りを丸め込んで奢らせるってことで……ど?」 それならアスマも文句ないでしょ。 紅が罪悪感の欠片もない笑顔を見せながら明るく言った。 「………………」 アスマが思わず女の顔を凝視する。 自分が心密かに思ったことをそのまま声に出されれば唖然ともしようというものだ。朱赤かそれとも類友か。 「どうかしたの?」 「何でもねえよ」 ―――そうかい、俺もコイツも似た者同士って訳かよ。そりゃまた御免被りてぇこって。 思わず苦笑を漏らしながら、アスマはじゃあなと手を上げて別れを告げ、来た道を引き返そうとしたのだが。 「アスマってば。もうちょっと付き合ってよ」 「おいっ」 ぐいと強く腕を掴まれ、往来の真ん中でたたらを踏んだ。 さすが紅、女の力と侮れない腕力を細腕に秘めている。 「―――何で俺が」 これ以上どこに付きあえと言うんだと言わんばかりの表情を浮かべながらアスマが振り返った。 「家に帰ってもどうせ酒かっくらって寝てるだけでしょ」 昼間っから躰によくないわよ。 するりと腕を絡めた紅が、眉をひそめて案じるような顔をしながら傍らの男を見上げた。 「とか何とか、俺の躰を気遣ってるような振りしやがって」 目的はどこか別のところにあるんだろうが、とアスマが疑いの眼差しを女に向ける。 「分かってるなら付き合いなさいよ」 ああ顔作って損した。そう思っているのがありありと分かる表情で心配そうな色をあっさりと払拭させた紅は。 男に巻きつけている腕を絡め直すと、行き先も告げずに有無を言わさぬ勢いでアスマを促しながら歩き始めた。 「……面倒臭え奴」 ぼやきながらも引きずられるままに足を踏み出す。 やがて里のそこかしこに散っている演習場の一つにほど近い、小高い丘に行き着いた。 途中までぶつぶつと文句を言っていたアスマも、人混みを離れて澄んだ空気の中、緑広がる場所の中に佇むのは決して嫌いなことではなくて。 何故ここへ連れて来られたのかを考えることもせず、火影岩を遠くに望むその場所に立ちながら、懐から取り出した煙草に火をつけて最初の一服を吸い込んだ。 「アスマ、そこ座って」 背後から聞こえた声に振り返ると紅は下草の生えている場所を指差していた。 おいそりゃそこは地面じゃねえのか。 「んあ?」 相手が何をどうしたいのかが分からずに、煙草をくわえたままのアスマが不明瞭な音を返す。 「いいから座って」 言葉とともに、どん、と容赦のない力で紅が男を地面に向かって突き飛ばした。 「どわっ!?」 躰に力を入れず背を屈めながら立っていたために大きくバランスを崩したアスマが地面の上に尻餅をつく。 しかしくわえる煙草を落とさなかったのはさすがと言うべきか、意地汚いと言うべきか。 勿論前者に決まっている。 「残念ながら敷物を持って来てないのよね。だからアスマがそこに座ってくれると―――ううん、横になってくれるともっと最高に有り難いんだけど」 困ったように頬に片手を当てた紅は御免なさいねと微笑みながら、地面に尻をついて恨みがましく見上げているアスマの肩を脚絆に包まれた足先でツンと突いた。 どうせならもう少しだけ脚を上げろ見えねぇ。……違う、その前に。 敷物。 白い腿に見とれている間にこの女はそう言っただろうか。 「…………俺はお前の敷物か?」 ようやくのことで女の魂胆が透けて見えて、アスマは煙草をくわえた唇の合間から唸るような声をあげた。 「世の中の男は女の為に存在するのよ」 遙か高い所からアスマを見おろしつつ紅がふふんと笑う。 「まぁた自分に都合のいいこと言いやがって」 はぁとアスマは深くため息をつきながらも。 こんなにいい天気なんだ、昼寝すると思や構わねぇか。 そう思うことにして相手の仰せ通りに身を倒し、草むらの上にごろりと寝転がってうつぶせた。 「ありがとアスマ」 「はいはい」 相手に無理無体な注文を吹っかける割には素直に礼を言うのはこの女の昔からの癖で、アスマの口元に笑みが浮く。 「……で、俺を敷物にしてお前は何するつもりだ」 思った通り、自分の背中に遠慮無く尻を落とした相手に向かって、首から上をひねり上げながら問いかけた。 「これ塗るの」 にこりと笑った紅が懐から取り出したものには覚えがあった。さっきアスマが買ってやった小瓶の包みである。 「…………ふん」 紅の顔に浮かぶ笑顔は見慣れた極上のそれではなくて、どこか少女のような華やぎを浮かべた笑みであった。 「こんな商売してたら爪も荒れちゃうし、あんまり似合わないんだけどね」 そう言いながらも満更でもない表情で包みの中から硝子の瓶を取り出した女の嬉しそうな様子を目にしたアスマは。 「…………そうでもねぇだろ」 それ以上言うべき言葉も見つけられずに、ぼりぼりと顎を掻きながら顔を戻し、深く煙草を吸い込みながら遠くに見える火影岩へと目を遣った。 |
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