あたたかな闇の中をたゆたう時まで

  









 眺めるともなくぼんやりと眺めているうち、一番右端の顔岩の上で視線が止まる。
 紅とはアカデミーで同期だった時からの付き合いだった。長い時が経った今となっては、もはや腐れ縁ともいえるほどの間柄である。
 そうともなれば、全てをとは言わずとも互いに互いの様々なことを知っていた。
 だから、里に深い傷跡を残した十数年前の事件に於いて己の命を賭して里を守りそして散っていった男のことを、幼ない少女が秘かに恋慕していたことも知っていて。
 十五ともなれば女が恋をするには十分な歳だった。
 常に勝ち気な光を双眸に宿していた少女が日頃と変わらぬ様子を装いながらもその瞳の中に虚ろを浮かべ、次第に生気を失っていく様を、自分はただ見ているしか出来なかったことまでもを思い出してアスマの唇に苦さが浮かぶ。
 目に見えぬ深い傷を負った少女に手を差し伸べることが出来ず、どころか、その差し伸べ方すら分からずに途方に暮れていた遠い日の自分が可笑しくも歯がゆかった。
 いつか自分達も、この里でか余所の地でか、天寿を全うすることなく命の火を消すことになるやも知れないのだからなどという科白は、例え幼くはあっても忍びであれば百も承知、ゆえに同い年の少女にそう言えるはずもなく。
 結局、慰めになるような言葉の一つさえ渡せずにいた少年時代の自分を、大人になった今の自分がようやく嗤う。

 けどよ、惚れた相手と添い遂げられる忍びなんざ……。
 アスマはそう切り捨てかけてふと止まる。

「……そういやな。ゆうべ、ロクでもねぇ夢を見た」
 思い出したように口を開いた。
 あれを添い遂げると言うのであれば、の話だが。
 凄惨でもあった光景を思い出しながら心中で苦笑する。
「ふーん」
 けれど右手の指先につまんだ小刷毛で、広げた左手の爪へ丹念にマニュキアを塗っている紅の返事は素っ気ない。
「気のねぇ返事だな」
 アスマはわずかに身じろぎして女を振り向こうとした。
「ちょっと!動かないでよ、はみ出すじゃない!―――で、聞いて欲しいわけ」
「聞け」
「横暴」
 先ほど見せた少女めいた表情はどこへやら、美しく育った大人の女の顔が鼻先でふんと嘲笑う。
「うるせぇ。お前にだけは聞かせてやらなきゃ俺の気が済まねぇんだよ」
 あまりに生々しかったその夢の内容は、一度思い出してしまえばなぜ今の今まで忘れていたのかと舌打ちしたくなるほどの強烈さで、アスマが頑強に言い募る。
「じゃあ言えば」
 相手の口調から察するにどうせまともな話ではなかろうと踏みながらも、紅は平然としたままである。
「―――どこかの部屋でな、俺とお前がいるんだよ。でな、もうひとりの俺が上空からその部屋の中を見てたんだ」
 そういう情景だったとアスマが脳裏に記憶を甦らせる。
「へえ、それで?」
 興味の無さそうな顔つきで紅が相槌を打った。
「前後の経緯は分からねぇんだが。恐えのは………お前が薄笑いしながら両手で俺の首を持ってたんだよ」
 これまた赤の緋襦袢がよく似合っててなあ、と薄ら寒そうな表情を浮かべて顔をしかめながら、アスマは持ち上げた手で自分の首を撫でさすった。
「ふぅん。首って生首?躰ないの?」
 どんな興味からなのか事もなげな声で紅がそう尋ねる。
「……嫌なことをあっさり聞くなよ。あるにはあったんだがな、それがどうにも―――」
「手足が千切れてたとか」
「五体満足だった!」
「それならぺちゃんこに踏み潰されてたとか」
 紅は思いついたことを矢継ぎ早で口にした。
「自来也のオッサンの蝦蟇に轢かれた訳じゃねぇッ!!」
 話題にあがってるのは俺の躰だぞと、さすがのアスマも声を大にする。実際、死にかけの経験がないでは無いのだ。
「それならいいじゃない」
 あっさりと結論づけた紅が一本を塗りおえて隣の指に移った。どういいんだか忍び文字百文字以内で説明してくれ。
「包帯だらけ鮮血まみれで全身土気色、顔に死相」
 素っ気ない女の態度にめげずアスマが滔々と並べ立てる。
「死因は出血多量?それともショック死?」
「勝手に殺すなって。嫌がらせか。……少しは同情しろよ」
 付き合いも旧く長い女から、夢の中であるとはいえ死んだものと決めつけられたアスマため息をつきながら訴える。
「あら、じゃあその状態で生きてるってこと?」
 目の前の男の何を思い出したのか紅の指が僅か止まった。
「上から見てる俺も方も半分魂が抜け出てるみてぇでな、痛みがなかったからよく分からねぇんだが」
「なに言ってんのよ、もともと不感症のくせに」
 瞬時の遅滞は目の錯覚だったのか何事もなく指を動かしながらあっけらかんとした声で言った紅に悪気はないのだ。
 無いと分かってはいるのだが。
 身も蓋もなくそう言われてしまうと。
「…………あのな、言い方ってもんがあるだろ?」
 人が聞いたら誤解するだろうが。それに元々じゃねえ。
 アスマが嫌そうな表情を浮かべながら文句を垂れる。
「あら御免なさい。つい口が滑ってホントのことを」
「終いにゃ殴るぞてめぇ」
「後にしてくれる。今これ塗ってて忙しいから」
 ここの隣は演習場だし、鍛錬するなら付きあうわよ?
 紅は何が嬉しいのか、視線は爪先の刷毛に集中しながらも、浮き浮きとした口調でアスマをそう誘った。
「よせって。誘うのは寝床の中だけにしといてくれ」
 上忍同士で本気の鍛錬などした日には。そんな面倒事は御免被りたいアスマが適当半分本音半分で逃げ口上を打つ。
「私はそれでも構わないけど。ところで今晩、あんたの家、カカシとかイビキとかエビスとか誰か他の男とか、来る?」
 爪の上で刷毛を滑らせながら、紅が妙なことを口にした。
「ん?ああ確か………あれ?誰だったっけな。メシ作りに来るとかそんなことを……言い張っていた筈だが」
 その言い張っていた誰かのことは覚えておらず、今晩のメシの心配はしなくていいことだけをしっかりと脳裏に刻みつけているらしいアスマがいい加減なことを言う。
「………………」
 男の答えを耳にした紅が珍しく無言を返した。
―――可哀想に。みんな報われないわよねぇ。
 不憫な奴らねとその男共の代わりに内心でため息をつく。
 この熊男のどこがいいのかしら、やっぱり自分が面倒見てやらないと酒と煙草だけ口にしてそのうち死にそうな所かしら、それとも飯を作ってくれた男に押し倒されたら抵抗するのも面倒臭いし礼代わりにタダで済むからって素直に抱かれちゃう辺りかしらと思いながら。
「誰か来るなら行くわ」
 マニュキアを塗り終わった爪にふぅと息を吹きかける。
「ああ?どんな理由だ?」
 よく分からずにアスマが訝しそうな顔と声で尋ねた。
「ご飯作ってくれる人がいるなら御相伴に預かろうかしら、なぁーんてね」

―――人の恋路の邪魔して遊ぶのも楽しいし、ね。

 心中でそう呟いて赤い舌を出しながら、男に対しては罪のない笑顔を向けた紅がうふふと笑う。
 飯の相伴に預かった後も帰る素振りを見せずにアスマと差し向かいで杯を重ねる紅にチラチラと目を向けては。
『帰ってくれないかなー。帰ってお願い。―――帰れ』
 と次第に殺意を孕んだものへと移行していく男の視線を見ない振りして居座り続け、この鈍い上忍男と酒盛りに興じるのは紅にとって結構楽しい行事であるのだ。
 日々の潤いはお肌に大切。

「いいだろ、お前も来いよ。けどアイツら飯作ってやるとか何とか言ってよくうちへ押し掛けてくるよな」
 ヒマなんだなきっと。
 十把一絡げにしてそう決めつけると、アスマは新しい煙草をくわえて火を点けた。
 やってくる男達はしかし、飯を作るだけではなく余計な事をしでかして行く事も多いのだが、紅がいればそういう雲行きにはならない事がほとんどなので、来るというならばそれなりに歓迎なのだった。
 例え紅がおらずに押し倒されたところでアスマにとっては大した被害でもないのでまあどちらでも構わないのだが。
「けどよ、あいつら本当は仲悪いのかね。よくツルんでるような気がするんだが―――ウチには一人で来るんだよな」
 お前はどう思う?とアスマが首から上だけ紅を振り返る。
 どうせ二人の飯も複数の飯も作る手間は一緒なんだから誘い合わせて来ればいいものをと、そう言いたいらしい。
 自分の家には何故いつも誰か一人の男しか訪れないのかという謎はアスマにとって未だ謎のままであるようだった。
「やっぱり仲が悪いんじゃないかしら。きっとそうよ」
 仲間内の男共から抜け駆けだ協定違反だと、顔には出さず大人を装いながらも嫉妬をたぎらせたそのうちの誰かからぷすりとクナイを刺されそうな事を適当に口にしながら。
―――この頓馬が気付く訳ないわよねえ。
 ほんとに手間のかかる男。
 自分もその例外ではなくて、アスマとの時間を奪取する為にはそれなりの手間暇と術力とを遣っている紅である。
「……ふぅ」
 マニュキアに息を吹きかけて乾かすふりをしながら、もう一度深くため息をついた。
 水面下に於ける彼らの壮絶なる駆け引きと牽制合戦も知らずにのんびりと煙草を吸う男の横顔を遠慮無く盗み見しながら、紅がふたたび報われない仲間の男達に同情する。
 一人で来るのは彼らが某所にてクジを引き、互いに日がかち合わないようにしているからだという切ない事実があるのだが、気付いてないのは当のアスマ本人だけだった。
 やがて左手全ての爪にマニュキアを塗り終わった紅が、静かに手を止めた。

「―――私はあんたを殺さないわよ」
 艶やかに染め上げた自分の指先を見つめながら口を開く。
「……ん?何の話だ」
「さっきの。夢の」
 単語だけを言った女に。
「ああ、あれか」
 首を捻ったアスマが思い出すような顔を見せた。
「そ」
 短く答えた紅は刷毛を持ち替えて右手の爪を染め始めた。
「それは――――――任務で指令が下ってもか?」
 薄く笑うようなアスマの声に尋ねられてその手が止まる。
「殺すかもね」
 同じく唇にうっすらと笑みを刷いた紅が、男と同じ声音で返事をした。
「……舌の根乾かぬうちに何とやら、だな」
 アスマの声には苦笑が含まれていたが、それは冷たい答えを返した女を恨んでのものではなかった。
 二人とも互いに笑みを浮かべながら、それは決して自他を嘲るものではなく、乾いた笑いに身を任せるわけでなく。
 かといって切なさを滲ませるでもなく、どこかやるせないような響きがあって。
「―――その夢の話、私がやったの?」
 男の軽口には答えずに紅が尋ねた。
 アスマとは何度かの死線を共にくぐり抜け、ここまでの時を生き延びてきた。
 自分のような女にも何がしかの情はある。そんな相手を己の手に掛けたい筈はなくて。
 それでも有り得ない光景ではないことを知るが故に―――忍びとして痛んではいけない胸のどこかがかすかに痛む。
「俺が知るか。その情景だけが視えたんだよ」
 紅の心中を知ってか知らずか紫煙を吐きながらアスマは、「お前がやったのかもな」と軽い口調で言って肩を竦める。
「私だってあんただって、いつかは死ぬでしょ」
「死に方ぐらい選ばせろよ」
「は。贅沢」
 忍のくせにとは互いに言わない。―――死に方を選びたい訳ではないけれど。

 恋うる相手と添い遂げた、それも上忍がいたなどという話はほとんど聞いた事がない。
 皆無と言えるぐらいである。
 自分達はそういう道を歩んでいる存在なのだった。

「―――頭は。ちょっと嫌だわね」
 しばらくの後、全ての爪にマニュキアを塗り終わったらしい紅が、その出来栄えを確かめながら口を開いた。
「何の話だ」
 今度こそ意味が分からずにアスマが訝しげに問い返す。
「腕一本ぐらいならいいかしら。あんたみたいな熊、ぜんぶは無理だし―――」
「おい?」
 独りごとのように言い続ける女の台詞に物騒なものを感じたアスマが、不自由な身を捻りながら女を振り返った。
「あんたが死ぬ時、側にいたら食べてみようかと思って」
 本気ともつかぬ顔でそう言った紅がにこりと笑う。
「……お前が言うと洒落になってねぇ気がするぞ」
「洒落じゃないわよ、本気に決まってるでしょ」
「今度は、お前が俺の片腕を口にくわえてる夢を見そうだ」
 にっこりと更に笑みを深くして言った紅に恐怖を覚えながら、なぜ決まってるんだとアスマは口の中で呟いた。
「見たって構わないわよ。私がその夢を見るわけじゃなし」
「けどそれも……あんまり嬉しくねぇ死にざまだな」
「愛の形と言って頂戴」
 綺麗に塗り上げた爪先を見つめながら紅が男に返す。
「………急に寒くなって来たな」
 晴れた空を仰ぎ見ながらアスマがぞくりと身を震わせた。
「そーお?こんなに天気がいいのに」
 赤く染め上げた指先を空に向け、陽に透かしながら紅がきゃらきゃらと賑やかな声で笑う。
「塗り終わったのか」
「ほら」
 声に答えて紅は濡れたような光を放つ爪先を男に見せた。
「へえ、綺麗なもんだな」
 紅く染めあげられた爪を眺めながら満更世辞ではない声をもらしたアスマの前に白い両手の先を晒しながら、紅は目の前に居る男の顔をじっと見つめる。
 自分が、その場に臨めば一切の感情を切り捨てた冷酷な殺人機械になりきれることは知っていて―――後からどんな痛みにこの身をさいなまれようとも。
 人である前に忍びである自分は、放たれた命に背くようには多分出来てはいない生き物で。
 だからこの男が視たというその光景はきっと、ありえないことではないのだろう。
 願わくばそれが本来アスマには無いはずの、先視の能力の顕現ではないことを心から祈りつつ。

「―――あんたがどんな形になっても、連れ帰ってあげる」

 男の目の前からすいと両手を引いた紅は、硝子の小瓶を取り上げると蓋を回してぎゅっと強く締めつけた。
「余計なお世話だ」
 憎まれ口を叩きながらも、女が精一杯の情を自分に渡そうとしていることは知っていて、アスマの口元にはかすかな笑みが浮かんでいく。
「あらそ?浪漫チックなのに」
 最前の言葉には触れなかった男が、けれどそれを受け取ったことを感じて紅もまたくすりと笑いながら声を返した。
「どこがだ」
「死ぬまでずっと一緒じゃない」
「―――言ってろ」
 ふ、とアスマの唇から笑みが洩れ落ちる。

 死んだ暁には跡形もなく処理されるのが自分の行く末と思っていたが―――この女の裡に溶けて、あたたかな闇の中をたゆたうのも悪くはない。

「どうせお前はカカシ辺りにも同じことを言うんだろ」
 自分の中に生まれた想いを胸奥に深く沈め、その時が来るまではと封印したアスマがからかうような口調で言った。
「そうよ」
 悪びれずに言った紅が美しくも鮮やかな笑顔で笑う。
 カカシのみならず仲間の誰の名をもアスマは言うだろう。
 そしてまた紅も同じことを言うのだろう。
 里の歴史からすれば、それこそ木の葉が舞い落ちる時間ほどの短い生だとは言え――仲間、同僚、戦友。言い方は色々あれど、形のある言葉では決して括れない――死線を共にしてきた彼らに対して、自分達はそう言うのだろう。
「―――ふん」
 鼻を鳴らしながらアスマが笑った。
「よう紅。愛してるぜ」
 そういいながら片目をつぶる。
「よして寒い」
 最前のアスマのように紅が身を震わせた。
「…………てめぇ間髪だな」
「あんたがヘンなこと言うからでしょ」
「ああそうかよッ。…………でもな―――――」

 ありがとよ。

 そう言った男の声は、ごく低かった。
 それはどんな形であっても連れ帰ると言った女の言葉に対してせめてもの、そして、その時にはもう既に命尽きているのだろう己の代わりに今の自分が口に出来る唯一にして最高の―――そして最期の礼だった。
 けれど確かに耳へと届いた声に紅が応えることはなく。
「………………」
 長いまつげを震わせる代わりに、女はその名のように紅い唇をうすく開いて笑みを浮かべた。
「―――ん?何か言ったか」
 傍らから声が聴こえたような気がしてアスマが振り返る。
「なんにも」
 男と眼を合わせずにふいと流して笑うような表情を見せながら、紅がかぶりを振った。
 艶やかな黒髪がさらりと肩先を流れ落ちる。
「そろそろ帰るか」
「ん、そうね」
 声と共に立ち上がり二人はやがてその場から姿を消した。




『……私もよ』

 あいしてる。


 小高い丘の上を静かに包んでいる大気だけが、ひっそりとした声の残響を聴いていた。





 それは戦忍達にとって束の間の休息の時だった。
 せちがらい世の中でそれはとても大切なひとときで。


――――――――愛しきものたち。


 里の上空を吹きゆく風がふわりと凪いで、優しい気配を満たしながら通り過ぎた。






                                           ― 了 ―