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朝食を済ませた後で軽く躰を動かすために森へ行こうとした紅は、街の往来を抜ける途中でふと足を止めた。 茶屋の店先で一心不乱に本を読んでいる見慣れた男の姿がある。 少し寄り道をしていくかと気を変えた紅は、そちらに向かって歩き出した。 「おはよう、カカシ。―――またその本読んでるの?」 よく飽きないわねと嘆息するように言いながら、とん、と男の横に腰掛ける。 紅が緋の毛氈の上に腰を落ち着けた途端、目ざとく客の姿を見つけて出てきた店の小者に甘茶を一杯所望した。 「おはよう。―――新刊が出たんだよ」 噂によると常に携帯しているらしきイチャイチャパラダイスなる本に目を走らせたまま、顔も上げずにカカシが声だけを女にを返す。 「ふぅん、まあ私にはどうでもいいけど。………あーもう、最近ヒマねえ」 首をかたむけて頸筋を伸ばしながら、紅が退屈そうな声をもらした。 あたたかな湯気を上げている器を運んできた店の者に小銭を渡し、香しい薫りを立ちのぼらせている茶を一口含む。白い喉がこくり、と嚥下した。 「躰がなまるわ。―――ねえ、今夜あなたの家に行ってもいい?」 読書に耽っている同僚の横顔に視線を当てた。 「ヒマだからってオレで遊ぶのはやめてくれない」 女からの誘いに心を動かされた風もなく、手にした本に目を走らせたままでカカシが口を開く。 「人聞きの悪い。鍛錬と言ってよ」 手にした茶をすすり、ああ美味しいと白々しく呟いた紅は湯飲みに唇を当て、もう一口を飲みこんだ。 「オレを使って房術の鍛錬をするなと言ってるんだ」 「どんな技でも恒常的に訓練しないと衰えるのよ。知ってるでしょ」 「付き合うこっちの身にもなってみろよ」 カカシはようやく顔をあげて、隣に座る女の顔を見た。 「私は鍛錬になる、あなたはいい思いができる。一石二鳥じゃない」 本当にそう思っているのだろうか、平然としたまま言ってのけた美しい顔をしみじみ眺める。 「…………物は言い様って奴だな」 今までに自分がこうむった被害の度合いや回数を考えれば――紅の言う通りそれだけではないにしても――素直に頷くことは到底出来なくて、女の顔から視線を外したカカシは深く息を吐いた。 紅は時おりの夜にふらりと家を訪ねて来ることがある。そして当人の都合も聞かずに鍛錬だと称してはよせやめろと騒ぐカカシを押し倒して寝床に誘いこみ、翌朝、満足そうな顔をして帰っていくのだった。 だが気心の知れた仲間だとはいえ、紅の相手をするのは花街の女を抱くのとは訳が違う。 紅が本気で鍛錬をする気ならばこちらも本腰を据えてかからないと、術中に落ちて好きなだけ気を吸い取られる羽目になるのだ。 それを迎え撃つにはそれなりの覚悟と気構えが要る。遊びとは口にしたが、使う体力も半端では済まされない。 「で、どうなのよ。駄目なの?」 紅が、艶めいた眼差しを男に投げた。 「オレは今晩中にこれを読み上げたいの」 真面目な顔でカカシはそう言って、手にしていた本を相手の眼前へと持ち上げる。 表紙の中で二人の男女があははうふふと笑いながら楽しそうに追いつ追われつしている姿と、裏表紙に刻まれている成人指定印が、紅の視界いっぱいに広がった。 「………色気のない男。じゃあ泊めてくれるだけでいいわ。私は適当にさせてもらうから、隣で読んでれば?」 さすがに呆れたのだろうか、紅が当初の言葉をあっさりとひるがえす。 「そうやって油断させておいて、いつも襲うくせに」 カカシがぼそりと口の中で呟いた。 「何か言った?」 「いーや何にも」 「あなただって何のかんの言うわりには、始めれば満更でもなさそうじゃない」 諦めるつもりがないことは読まれているらしいと知った紅はころりと態度を変え、鼻先でふんと笑いながら今度はからめ手で相手を誘い込もうとする。 「嫌だって言っても乗られちゃったらヤるしかないでしょ、男としては」 動じる気配も見せずに平然とカカシはそう言い抜けた。 「嫌がる男に乗るのが楽しいのよ」 くつりと嬉しげに紅が笑う。 「お前なぁ。悪趣味が過ぎないか、それは」 「勃たなきゃ乗れないって分かって言ってる?ふん、何よ。いつも最後にはヤる気満々なくせに」 「そりゃまあ、ねえ。オレも生身の男ですから」 悪びれずに言ったカカシも朗らかな顔ではははと笑った。 朝の爽やかな陽射しの中、茶屋の店先で二人の男女が見つめ合いながら和やかに笑み合う光景―――と、そう、往来を立ち行く人の目には映ったかどうか。 「…………はぁ」 「………不毛ね」 二人同時に顔をそらして虚しい息を吐き、下世話で低次元な掛け合いを打ち止めた。 「にしてもだな。朝っぱらからする話題じゃないと思うのはオレだけか?」 手にした本を閉じる気力もないままに下向けて、カカシがぼそぼそと口にした。 「その朝っぱらからエロ本読んでる人に言われたくはないわね。大体あなた相手に今さら恥じらってみせても得があるわけじゃなし」 朝も夜もないでしょ。 明後日の方角に視線を向けたまま、紅が男の台詞に冷たく応じる。 「ま、オレはいいけどねー。知らないぞ。そうやって女捨ててると早く老け―――」 最後まで言い切る前に、カカシが頭をぐんっと後ろにのけ反らせた。 「……あ……っぶねえな」 横殴りに襲って目の前を通過した拳の残像に、ぱしぱしと目をしばたたかせる。 拳圧で千切られた髪が数本、ひらりと宙を舞い落ちた。 「あらご免なさい。―――じゃあ話は成立ってことで。私は朝練に行くからまた夜にね」 この程度の攻撃を喰らうようならそれは相手の修練不足とばかりに手加減なしで放った拳もどこ吹く風と、美しい顔に笑みを浮かべながら一方的に約束を取り付けて立ち上がった紅に。 「―――そういえばお前、聞いたか?」 一瞬の衝撃を欠片も残さず拭い去り、手にしていた本に栞を挟んでぱたんと閉じたカカシが、街ゆく人々を眺めながらのんびりとした口調で問いかけた。 「何をよ?」 怪訝な顔をしながら振り向いた紅が動きを止める。 出会ったのは別人のごとき男の眼。 忍びとしての光を秘める隻眼。 『先見の者がな。―――ゆうべハヤテの姿を視たそうだ』 無音のまま、黒い口布の下でカカシが唇だけを動かした。 「…………」 男の顔の下半分を覆っている口布に惑わされることなく、読唇術でそれを読みとって沈黙した紅が眼光を鋭くする。 サキミ。予見をする者。 それは未来を見通す能力を持つ者のことだった。 能力者の頭の中には絵が降りる―――――未来図であるそれが。 だがその能力はいつでも発現するものではない。 チャクラを練り上げて、視る、とそう強く意識を凝らしてみても望む映像が得られることはごく稀で、大抵の場合は本人の意思とかかわりなく唐突に起こるものだと聞いていた。 加えて、未来視とは言え降りる絵は完全なものではないのだとも。 視えるのは場所や人、物の形や一部の光景など断片のような映像だということだった。所詮、人間の力で全てを見通すことなどできぬのだということか。 だが昨晩それが発現したという。 それも―――仲間の一人の姿を連れて。 『ハヤテが……』 紅が声無く呟く。 ひどく嫌な予感がした。 『どんな絵だったんだ』 男と同じく唇だけで返しながら問いを放つ。 『鴉がな、あいつの躰を突ついていたんだと』 『――――――』 そう聞いても顔色ひとつ変えぬまま、紅は目の前に座っている男を見おろした。 ―――屍肉にたかっていたと、そう言いたいのか。 『オレを睨むなよ』 付き合いの長いカカシが、平然とした顔を見せている女の表情の下を読んで言う。 『まあ、こういう商売してたら私らだっていつかはねえ』 素知らぬ顔をしながら唇でそう告げて、紅は長い髪に手をやって整える仕草を見せた。 『夜空にな、満月が浮かんでいたそうだ』 『――――――!!』 カカシの言葉に、紅の眦がぴくりと動く。 月の満ちる夜―――――。 それは明晩だった。 『……続きはあるのか』 その絵の先を聞きたくはなくとも聞かずにいられなくて紅がカカシを促す。 『いや、それだけらしい』 『そのことを本人は―――』 『知ってる。さっきそこですれ違ったんだがな、いつもと同じ気の色をしていたよ』 いくら表面をつくろったところで同じ忍び同志、無意識のうちにも放っている気を読めばある程度の内面は知れる。 だがハヤテのそれに変化がなかったということは―――。 『あれは……覚悟を決めちまってるなあ』 そう言った男の身の裡に嘆息の気配が満ちた。 『深手を負うだけかも知れない』 敏感にそれを察知した紅が、カカシに向けている双眸の光を強くする。 群がっていた屍喰鳥たちは未だ訪れぬその時を期待して、それを待っているだけかも知れないと。 『―――ああ、そうだな』 紅と同じく光を増した眼で静かにそれを受け止めながら、カカシが応える。 『……………』 視線を合わせたままで二人ともが沈黙した。 『……今ハヤテが就いている任は何だ』 紅は深く息を吸い込むと、唇を開いてカカシに問う。 『聞いてどうする』 一切の内面を読み取らせぬ茫洋とした表情を浮かべながら、男が返した。 『下手人がいるわけだろう。先手を打って―――そいつの首を引き千切ってやる』 唇にうっすらとした笑みを浮かべた紅の全身から、非情なものを秘めた気配が、ゆらり、と立ちのぼる。 『―――頭を冷やせよ』 紅の中でひそやかに、だが確実に高まっていく殺気を感知したカカシが口を開いた。 『お前が何をしようと、例えその場にいようとも、絵自体に変化はない。それは知ってるだろ』 淡々と言いながら目の前に立つ女を見つめて、思い出せと無言のうちに視線で伝える。 『………………』 双眸を光らせたまま紅が押し黙った。 先見の力というものはごく稀にしか発動しない代わりに絶対的なものだとされていた。間違いはあり得ないのだと。事実、彼らの脳裏に映し出された光景は必ず現実のものとなり、未だかつてそれが覆されたことはない。 だが先見がそこまでをしか視ていないのであれば、まだ望みはある。 ある―――筈だった。 「……あいつは人生という名の道に、あんまり迷いがないからなあ」 カカシは普通の音声会話に切り替えると、肺腑の奥からふぅと長い息を吐いた。 猥褻本を読み耽っていてよく時間を忘れるらしいこの男は、遅刻したことに対して部下の下忍によく使っている言い訳からすると、人生に迷いも未練もたっぷりとあるようだった。 「……そうか」 紅が低く呟く。 ならば。 ―――迷わせてやろうか。 「……ん?今、何か言ったか?」 正面に立っている女から一瞬、物騒な気が散じたことを肌で感じたカカシが紅を見上げる。 「何にも」 整った顔立ちの上に普段と同じ表情を浮かべている紅は、朝の鍛錬に出てくるわと言って男に背を向けた。 「あーそうだ」 その背中にもう一度、カカシがのんびりとした声を投げかける。 「…………」 紅が足を止めた。 「今晩うちへ来るんだろ。それならオレ、煮物が食いたいなぁとか」 作ってくれない? そう言って、カカシがへらりと笑う。 「―――気が変わったわ。一人で寝てちょうだい」 肩越しに振り返った紅がすげない口ぶりで言った。 未練の欠片も見せぬ冷たく美しい顔。 「へ?さっきお前が来るって言ってからまだ十分も経ってないんだけど」 目を丸くしたカカシが大仰な仕草で驚いてみせる。 「気が変わったって言ったでしょ」 しつこい男は嫌い。 鋭い眼光をチラつかせながら、紅がカカシに目線を流した。 「はいはい」 こえーな、と呟きながらカカシが小さく肩をすくめる。 「はいが一つ多い。返事は簡潔にと習わなかった?」 「―――はいよ」 くつ、と笑った男にもう一度視線を当てると紅はきびすを返して歩き去っていった。 「……ま、何だな。ほら、あれだ……えーと」 去って行く背中を眺めながらカカシがしばし考える。 「女心と秋の空―――って言うからな」 変わりやすいのは仕方ねーか。 手探りで本の頁を繰りながら、栞を挟んだ場所を開いた。 「他の男の所へやるには………ちょっとばかり勿体なかったかねえ」 もう姿の見えない女の残像を遠くに見つめながら、口元にかすかな笑みを浮かべる。 「まあ次の機会があるかも知れないし」 いいとするか。 紅の鍛錬に付き合わされなかったことを惜しむ気持ちが自分の中にあることを楽しみながら―――。 「じゃあオレは予定通り、今日中にこいつを読破しちまうとするか」 そう言ってカカシは本に目を落とすと、日頃の鍛錬の賜物である集中力でもって外界のざわめきの一切を遮断して、気になっていた話の続きをじっくりと読み始めた。 その日の晩。 そろそろ寝ようかと手元の器具を片づけていたハヤテがふと顔をあげた。 突然に家の前で人の気配が生じたのだ。 「―――どなたです?」 「私」 応じた声とその返事に苦笑しながら歩み寄り、ハヤテが扉を引き開ける。 予想通りの女の姿がそこにはあった。 「久しぶりですね。……相変わらず唐突な方だ」 服務中に顔を合わせているとはいえ、時折ここへやって来る紅が前回に姿を見せたのは確か、先々月の筈だ。 「そう言うあなたは相変わらず辛気臭い顔してるわね」 「……それを言うために来たんですか」 ごほごほと低く咳き込みながらハヤテが言う。 「違うわよ。泊めて」 「……それは構いませんが。うちには寝具がひとつしかありませんよ」 いつもと同じ台詞を口にした男が困ったような顔をして見せた。 「―――ひとつでいいのよ。って私が何回言ったか覚えてる?」 ひくりと頬を痙攣させながら紅もまた、いつもと同じ台詞を繰り返す。 「えー、何回目でしょうか……」 「本気で数えるな馬鹿者ッ」 生真面目に指を折り始めた男に向かって、紅が煮えた声を投げつけた。 「いや……仮にもあなたは女性ですから。何度であろうと、やはり一応のお尋ねはした方がいいのかと思いまして」 手を降ろしたハヤテが一歩その場を退いて、深夜の来訪者を家の中へと招き入れる。 「仮にもって何よ、仮にもって。私はれっきとした女よ」 文句を言いながら紅は男の脇をするりと抜けて、勝手知ったる他人の家とばかりに足を踏み入れた。 「貴女とはそういうものを感じさせないお付き合いをさせてもらっていますから」 ハヤテは紅をその場に残して部屋の奥へと向かい、後片づけの続きを始める。 「……私ってそんなに女の魅力がないのかしら」 カカシとの朝の会話を思い出しながら、紅は落ち込んだようにひとりごちた。 「どうかしましたか?」 入口で立ち止まっている女に気づいてハヤテが尋ねる。 「何でもないわ。先に休ませてもらってもいい?」 「どうぞ」 男の声を背中にしながら紅は部屋の片隅にある寝床へと歩み寄った。 ばさばさと服を脱ぎ捨てると鎖帷子を外して晒しを解く。一糸纏わぬ姿になると、男の几帳面さを示すかのように客人がいなくてもきちんと整えられている寝具の端をめくり、身を滑り込ませてうつぶせになった。 手早く作業を終えたらしい男がこちらへと近づいて来るのを見るともなく視界に入れながら、寝具の中で躰を延べた紅が気持ちよさそうな息を吐く。 「……やっぱり私も服を脱いだ方がいいんですか」 寝床の前までやって来たハヤテはそこで立ち止まり、くつろいでいるらしき女のその様を眺めながら声をかけた。 「それも毎度の台詞ね。―――脱いで」 「分かりました」 紅に命令口調でそう言われることにも慣れているのか、一つ頷いておとなしく言葉に従ったハヤテもやがて女の隣に身を横たえた。 「灯りを落としますよ」 枕元の燈明に手を伸ばしたハヤテが断りを入れる。 「いいわ」 紅が応えるとちいさな明かりがふっと消え、後には窓から射し込む月明かりだけが二人の姿を淡く浮き上がらせるだけとなった。 冷えていた布団が二人の体温で少しずつぬくもっていく。 そっと身を寄せた紅がハヤテの肩に腕を置き、その上にことんと頭を乗せた。 「…………」 ハヤテは身動きすることなく紅の好きにさせていた。 肩の上の心地よい重みとともに、柔らかな女の躰からあたたかな体温が伝わってくる。 だがそうやって紅が躰のどこかへと触れてくるのはいつものことで。気にする風もなくハヤテは仰向いたまま眼を瞑り、眠りへ向かおうとした。 そんな男の顔を間近から紅がじっと見つめる。 確かめるように何度もその上を視線で往復した。 くっきりと陰影を刻む顔。 落ちくぼんだ眼窩。 やつれたように削げた頬。 蒼白い月光に照らされているからだけではなく、色の悪さを見せる肌。 自分には相を視る力はないけれど。 それでも。 ―――死相は出ていない。 己へと言い聞かせようとするように胸の中で呟いた。 いつも顔色が悪くて、肺腑にこもる低い咳をしていて。 それが常態なのだとは知りつつも、病持ちでいつ命が尽きてもおかしくないのではないかと疑いたくなるようなこの男に死相も何もあったものではないのだが、それだけに。 いつもと変わらぬように見えるこの男の顔に、そんなものは。 ―――出ていない。 そう思い込もうとする。 「―――ねえ、ハヤテ」 男の肩の上で、紅がちいさな声をもらした。 「何です」 「私と寝ない?」 赤い唇をうすく開き、男の耳に秘やかな声を忍ばせる。 「だから寝てるじゃないですか」 ゆっくりと目を開けたハヤテはそう言いながら頭を巡らし、同衾している相手に向かって不思議そうな顔をした。 「あのねえ、意味分かって言ってる?」 今までが今までなのでそう返されても仕方がないとはいえ、脱力しかけた気力を振り絞りながら紅が言う。 「…………?ああ、成る程」 面食らったような顔を見せながらも得心のいったらしいハヤテが呟いた。 「遅いッ」 男の鈍さに歯がみしそうになりながら紅がじろりと睨む。 「もしかして―――何か聞きましたか」 いきなりの申し出に当惑していたハヤテだったが、思い当たることが無いわけでも無くて苦笑した。 「そうよ。それなら死ぬ前にいい思いをさせてあげようかと思って、ね」 はっきりと言葉を口にした紅が、だから自分を抱かないかと男を誘った。 「まだ死ぬと決まった訳じゃ……」 ハヤテがぼそぼそと口ごもる。 「先見の視た絵は絶対なんでしょ?」 「まあ、そう言いますね」 ごほりと咳き込みながらハヤテが頷いた。 「それなら―――あなたは死ぬのよ」 死、ぬ、の。 赤い唇で一言一言をはっきりと区切るように発音しながら紅が教えるように言う。 「分かった?」 果たしてその脳味噌に刻み込まれたかと、問うように男を見つめた。 「…………ひどい人ですね」 咳が収まったばかりのハヤテが弱々しい声で抗議する。 だが本当にそう思っているわけではないことは、紅に向けているその眼で知れた。 穏やかな光をたたえて澄み切った双眸。 明鏡止水―――と言うのだろうか。 こういう眼をした者を、紅は今までに何人も、何回も見たことがあった。 二度と帰れぬと知れた任務に赴く者が里を出る時に。 深手を負って自分の死期をそれと悟った者が今わの際に。 彼らは浮かべるのだ―――透徹した眼差しを。 それは己の死と相対し、静かに見つめる者の眼だった。 「死ぬと分かってる奴に本当のこと言って何が悪いのよ」 湧きあがる不安を胸底へと押し込めて、紅は遠慮のない言葉を口にする。 「普通は、触れないようにするものじゃないんですか?」 ハヤテは気にする様子も見せず、首をかしげて考えるようにしながら真面目な顔でそう答えた。 「じゃあどうするのよ」 この男が自分にそうして欲しいわけではないことは知れていて、平然としたまま紅が強い声で言う。 「涙ぐむとか、優しい言葉で慰めるとか、せめて微笑みながら送り出してくれるとか」 「はっ!私が?涙ぐむ?」 槍が降るわよ。 紅が鼻先で嘲笑った。 「それでも今晩、貴女に逢えてよかったです」 明々とした眼を見せている男が穏やかな声で言う。 「……………そう。じゃあついでに抱いてみない?」 まるでこれが最後のような口振りで何をたわけたことを抜かすかと、紅は本心を見せて撥ねつけることもできずに声を失いそうになりながら、誘う言葉を唇へ乗せて男を見つめる。 「唐突ですね。最初の時に、抱いてもいいですかと聞いたら貴女、嫌がったじゃないですか」 ハヤテが昔のことを引き合いに持ち出した。 「……まあそうだけど。あんなやる気のなさそうな顔して言われてもね……」 確かに嫌だと言って拒んだ覚えはあるものの、責められたくはなくて紅が嘆息する。 ハヤテはその顔を見ながら、紅がここを訪れるようになった最初のきっかけを思い出していた。 |
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