それは恋情にも似た何かで

  










 ある晩、投薬の実験で使う薬草が足らなくなって採集に出かけた先の森で、紅とは出会ったのだった。
 暗い森の中を一人でふらりと彷徨っていた知り合いの後ろ姿に声をかけると、紅はゆっくり振り返り、表情の抜け落ちた顔と空虚な眼差しとを男に向けた。
 どこか焦点を失ってあどけない童女のような眼をした女を、数瞬の間だけハヤテは見つめ。
『お暇なら香草茶でも飲みに来ませんか』
 何気ない声をかけたところ、しばらくの沈黙の後で頷いた紅を家に連れ帰り、香りのよい薬湯を淹れて手渡した。
『よろしければ泊まって行くのでも、私は構いませんが』
 暖かい飲み物を口にして、白くそそけ立っていた女の頬に血の気が戻ってきた頃にそう申し出ると。
『…………』
 しばし迷うように考えてから紅は再び頷いた。
『うちには寝具がひとつしかないんです。私はここで適当に寝ますから貴女は―――』
 あちらの寝床で、と言いかけたハヤテに向かって。
『……一緒じゃ……駄目?』
 ゆっくりと顔をあげた紅が、聞こえぬほどの細い声で呟いた。
『―――いいですよ』
 女の眼を見つめたハヤテはそれ以上何も言わずに、その望みを叶えることにしたのだった。
 そしていざ寝ようという段になると、驚いたことに紅は男の眼前であることも気にせぬ風情で服を脱ぎ去り、身ひとつとなってハヤテと共に寝床へ入り―――。
 しばらく経った時分に身動きをした紅は、男の胸元からそっと手を差し入れて直に肌へと触れてきたのだった。
 ゆっくりと、だが時と共に少しずつ動いていく手にハヤテが身にまとっていた衣服はいつか乱されて。
『―――抱いてもいいですか』
 相手のするがままに任せているうち、終いには一糸纏わぬ姿にされてしまったハヤテが、ようやく動きを止めて静かになった紅の頭の下へと腕を貸しながらそう尋ねると。
『………イヤ』
 相手の目の奥をのぞき込むように見つめた後で紅はちいさく言って。だが差し出された腕に頭を乗せて白い頬を埋めると、ハヤテに柔らかな躰を押しつけたまま、その傍らで眠りに落ちていったのだった。
 ひんやりとしている自分の肌が、紅の躰と触れあっている場所から点されたように温かくなっていった事を覚えている。自分の腕の中から聴こえていた寝息の甘やかさも。
 朝になって目覚めてみると、いつの間にか女の姿は跡形もなく消えてていた。
 そしてしばらくの時が過ぎ、そんな事があったのも忘れた頃のある日の晩。
『泊めて?』
 紅は再びこの家を訪れたのだった。
 玄関先で、美しい顔に笑みを浮かべながらそう言った女に対して。
『いいですよ』
 以前のことには触れぬままでハヤテは訪問者を迎え入れ、再び肌を触れ合わせながら紅と眠りを共にした。
 それ以来、紅はしばらくの間隔をあけながらも思い出したかのような頃合いに、ここを訪れるようになっていた。
 紅とは一度も躰を繋いだことがない。
 ただ身を寄り添わせ、ぬくもりを分け合いながら眠りに就くだけだった。
 ハヤテはそのことに格別の不満があるわけでもなく、また野にある生き物を捕らえて籠に入れて愛でるような趣味の持ち合わせもなかったから―――。
 いつなんどきに現れるとも知れぬ女が姿を見せると、黙って迎え入れて二人で眠る。
 そういう関係もそれはそれでいいかと思っていた。
 昼日中の明るい陽射しの中、生命力に満ちあふれた眼を輝かせるこの女のことが決して嫌いではなかったから。
 時折の夜に、人肌を恋しがる眼をして現れる女のまとう静けさも。


「いや……目の前で女性が服を脱いだら一応、手を出すのが礼儀かと思いまして」
 抱いてもいいかと尋ねて拒まれるや、あっさり引いた過去を持つ男が、ごほりと咳込みながら言い訳のように口にした。かつてのことを思い返しながらも表には出さず、真面目な顔を見せて紅へと視線を向ける。
「これだもの」
 堅物、とため息をつきながら紅は男の肩口に唇を寄せて柔らかく口吻けた。
「せっかく私があなたと寝てあげるって言ってるんだから有り難く受け取りなさい」
 せめてもの手向けよ。
 男の肌の上に吐息のような声を滑らせながら、肩から鎖骨への線をゆっくりと唇で辿っていく。
「確かに。先見が絵を見なかったら遭えない目ですね」
 鏡面のように凪いだ眼をした男の口元が密やかに笑った。
「でしょ。だから。―――ね?」
 ふふ、と含み笑った紅は、横合いからハヤテに半身を乗り上げて柔らかな躰を押し付ける。
 この優しい男が恐らく自分を拒まないだろうことは分かっていた。
 だがそれを逆手に取ることなど紅の良心は何の痛みも覚えない―――目的のためには。
「……分かりました。ですが……」
 思惑通りに紅を受け入れようとする素振りを見せながらも、ハヤテが語尾をすぼめて言いよどむ。
「どうしたの」
「まさかですが。暗器なんか仕込んでないでしょうね」
 紅の躰にちらりと視線を投げた。
「………………どこに」
 素っ裸なのは知ってるでしょうが。
 そう言いたげな紅が探るような眼でハヤテを見つめる。
「いや、貴女は女性ですし……ほら」
 あと隠せる所と言えば   。
 ごほごほと咳き込みながらも、ハヤテがやんわりと罪の無い笑みを見せた。
「ホラじゃないっ」
 艶やかな雰囲気もどこへやら、ごんっ、と紅が拳で男のこめかみを殴りつける。
「いたた……貴女を抱いた途端に千本がぐっさり刺さったなどというのは……さすがに勘弁して欲しいですからね」
 拳を避けずに受け止めたハヤテが頭をさすりながら、本気なのか冗談なのか分からぬ事を口にして紅を見上げた。
「この野暮天が。私は暗部じゃないわよ」
 お望みながら真似事ぐらいはして差し上げるけど。
 懲りずに言い募った男へ向かって紅が獰猛な笑みを閃かせる。
「―――すみません。つい何となく……性分で」
「心配なら自分で確かめればいいでしょ?」
 相手の先手の更に先、そして裏の裏を読むことを骨身の随にまで叩き込まれているのはお互い様で、紅は苦笑しながら夜具の中で男の躰に手を伸ばす。
「いや、それはじょうだ―――」
 言いかけたハヤテの声が途中で止まった。
 腰の前へと伸びてきた手が雄の形をまさぐっていることに気づいて、初めてそこへ触れてきた指にわずかな惑いを覚えながら紅を見上げた。
「……欲しいの」
 ハヤテの上に声を降らせると同時に、紅がその身にまとう気配を変える。ふわりと立ちのぼった女の気はあでやかな金朱の色に輝いていた。
 身の裡から放たれる炎気を受けて、艶やかな黒髪が揺らめいて宙を舞う。
 窓から射し込む月光を一身に浴びながら、紅が嫣然と微笑んだ。
「ハヤテ……」
 赤い唇をうすく開き、やわらかな声で男の名を呼ぶ。
「…………ぅ」
 紅の指が絡みついている腰の前に快感が流れ込んで躰が痺れ、ハヤテは目に見えぬ投網の中へと絡め取られていくような感覚に包まれた。
 部屋裡に射し込む蒼白い月光と、紅がまとう金朱の彩が交じり合い、美しく織り上げられた波動が螺旋を描きながら空中へと満ちていく。身を起こした紅の動きに合わせてするりと滑り落ちた掛布の下から、抗いがたい磁力を放つ白い躰が現れた。
「…………」
 惜しげもなくさらされている女の躰に眼を吸い寄せられたハヤテがふらりと手を伸ばす。
 その眼にはかすかな情欲の色が生まれていた。
「―――抱いて」
 細やかな手の動きで男の漲りを育てた紅が、指を絡めたまま吐息で囁く。
 人よりも薄い色をした紅の双眸は月の光を映しこみ、淡い輝きを帯びていた。
「……ハヤテ」
 月のしずくを溶かし込んだような両の瞳が潤んで光る。
「………ぅ…」
 その眼に誘われるかのようにして紅をぐっと引き寄せたハヤテは赤い唇に口吻けながら、互いの躰の上下を入れ替えた。
 白磁のような肌がしっとりと吸い付くのを心地よく感じながら紅の指に導かれるまま熱く濡れたその躰の奥に身を押し入れると、骨がないような柔らかさで女の躰がたわみ、男を迎え入れた柔肉がざわりと蠢きながら絡みつく。
「…………っ」
 早くも腰へと込み上げてきた快感に、ハヤテが低くうめいた。
 白い敷布の上に広がる艶やかな黒髪から、ぬめるような白さで輝く裸身から―――濡れ潤んで光る女の双眸から、眼が離せない。
 おそらく意識的にだろう、少しずつ微妙に体温を上げていく紅の肌が軽く汗ばんで、心地よい湿りを男の手に与えていた。紅の躰の裡から放たれる熱がハヤテに伝わり、快感とともにじわりと躰に広がっていく。
「……さすが、ですね」
 組み敷いた紅の躰の上で息をこらえながらハヤテが口を開いた。
「いい女……だ」
 珍しくそう軽口を叩きながら片目をすがめる。
 自分が術中に嵌りそうになっていることは分かっていても、紅が害意を持っているわけではなく―――むしろその逆だと分かっているだけに受け流し難い。
「そう?ありがとう。……こんないい女が、もう抱けなくなるのよ」
 残念ね。
「末期の名残にうんと楽しんでおきなさい」
 紅が言って、ふふふと含むように笑った。
「……そう、させてもらいます」
「でも」
 女の躰の奥深くへと身を埋め込みながら苦笑した男に、紅が艶やかな視線をゆるりと流す。
「あなたが生き残ったら―――もう一度、抱かれてあげてもいいわよ」
 しっとりとした声で言いながら、自分を組み敷く男を濡れ潤んだ瞳で見上げた。
 抗えない磁力を含んだ女の眼にハヤテの身のうちへぞくりとしたものが這いのぼる。
「―――未練が残るじゃないですか」
 紅が放つ気を受け流しそうとしつつも逸らしきれずに腰を動かし、躰の芯へと突き上がる快感に襲われてハヤテがうめくような声で言う。
「大丈夫よ、あなたは明日死ぬんだから」
 未練なんか残る間もなくあの世に行ってるわ。
 男の首に両腕を巻き付けた紅は、かすかなあえぎをもらしながらハヤテの耳元へと睦言のように囁いた。
「それなら、私が生きて帰ったら…………私の女になってくれますか?」
 自分が相手に振り回されかけていることを知覚しつつも、ハヤテは女の柔らかな腕を捕らえてその内側に口吻けながら、戯れごとのような声音で問いかける。
「イヤよ、あなたみたいな薬臭い奴」
 寝るのはいいけれど。
 赤い唇で残酷にくすりと笑いながら紅が声を返した。
「いざ付き合うとなったら、投薬実験を取るか私を取るかで迷うのよ。あなた絶対」
「そんなことは……」
「じゃあ実験と私、どっちか一つって言われたらどっちを選ぶ?」
 言いかけた男の唇に人差し指を押し当てて黙らせると、嫣然とした笑みを浮かべながら紅がハヤテに尋ねる。
「―――ぅ」
「やっぱりイヤ」
 迷う眼を見せながら口ごもった男に、氷のような冷たい視線をくれた。
「最後までひどい人ですね」
 苦笑したハヤテが、腕に力をこめながら女の腰をぐっと引き寄せる。
「………んっ」
 男のものに深く貫かれた紅が、赤い唇から甘やかな吐息をもらした。
「お礼に―――」
 啼かせて差し上げます。
 漲りを奥へと突き入れながらハヤテは低く言って、紅の肩口に軽く歯を立てる。
「……あっ……ハヤ……テ」
 ちいさくあえいだ紅が、潤んだ双眸で宙を見つめながら熱い吐息をもらした。男の首に白い腕を巻きつけて柔らかな肌を擦りつけ、焦れたように続きをせがむ。
「……貴女はこんなにひどい人なのに―――」
 熱く蕩けはじめた女の躰を引き寄せたハヤテは。
―――本気で未練が残りそうです。
 耳元でそう囁くと、身の裡を支配する欲望のままに女の躰を突き上げ始めた。





「……ふん、他愛もないわね」
 紅は、傍らで眠る男の寝顔をじっと見つめた。
 ハヤテは女との交合に疲れ果て、昏々とした眠りに就いているように見えていた。
「この私が、持てる限りの技を尽くしてあげたんだから当然よね……」
 女忍として体得した房術に長けている紅が、巧妙に張り巡らした数々のそれに陥落させられたものか、それともそうと知りつつ乗ったのか。男は最後、獣のように女の躰を貪って何度も精を吐いた。
「………………」
 紅は無言のまま、ハヤテの腕に―――ぬくもりに触れていた指を外してそっと離す。
 静かに身を起こした紅は長い髪をかきあげながら、気だるそうに息をついた。
 躰が泥のように重かった。
 無論、男と深く躰を繋げ続けたせいもあるがそれだけではない。
 その理由は自分でよく知っていた。
 ハヤテとの交わりを存分に楽しみつつも、気付かれぬよう細心の注意を払いながらチャクラを練り上げ―――男の精を躰に受け止める時に流れ込んでくる陽の気を、自分の陰の気を混ぜ込んで安定させながら増幅して、繋げている相手の躰の経絡系へと送り返し続けた。
 紅には、躰を繋いだ相手の気を吸い取るも自分の気を与えることも自在だった。
 そして今、チャクラを練り上げるために放出した分と自分の気を男に流し込んだ分とで、紅の維持する内気は躰が動く限度ぎりぎりのレベルまで低下している。
 その代わりハヤテは一見、疲れによる深い眠りへ落ちているように見えてはいても、明日の朝起きた時には体内へと満ちる気がいつもより多いはずだった。

「…………ふ…ぅ…」

 静かに息を吐いた紅は力の入らぬ躰を気力で支えて、傍らで眠る男を起こさぬようにと気遣いながら、常ならば有り得ぬような鈍い動きで寝床を抜け出した。
 朝までをここで過ごして身動きならぬ状態に陥っている自分の姿をハヤテに見られるわけにはいかない。
 たとえ、残り少ない体力を全て使い切ることになったとしても―――何としてもこの場を離れなければ。
 血が下がって視界が暗転しそうになるのを必死にこらえながら、手早く服をまとって家を出た。
 音を立てぬように気を配りながら静かに扉を閉めた紅は足を止めてその場に佇む。
 扉に身を寄せると、冷たい戸板の上に血の気の失せている頬をそっと押し当てた。
「………………」
 ややあって消え入るような細い息を吐くと額を離し、美しい顔にうすく疲労の色を滲ませながら扉へと背を預けて夜空に浮かぶ月を振り仰ぐ。

 端がわずかに欠けた月。
 満ちるのは―――明日の晩。

 きり、と赤い唇を噛み締めた。
 強く引き結んだ口元が震え、紅の双眸がかすかな湿りを帯びていく。

「……未練?残しておけばいいのよ、そんなの」
 蒼ざめた唇から、ちいさな声がもれた。

「……っ」
 歪む視界をこらえようとして目を見開き、溢れそうになる水を眦にたわませた。

 死ぬものと決めてしまえば生き残る道を探さずにあっさりと身を投じてしまう。
 生きるのだと頑なに思い込めば目先の欲に捕らわれて却って身を危うくする。
 だが生死の選択を自ら決めぬままで「その時」に出遭うのならば。
 どちらかに心を決めさえしなければ―――あの男なら。
 身の振り方を決めかねて思い惑うのではなく、恐らくは。
 その時の自分の在るがままで立ち向かうことになるだろう。決めるのは自分でなく命運の定めるままに、と。

 それに賭けた。

 生きるか死ぬか。二つの選択肢が手中にあるのなら。
 最後の一瞬、その時に、人の生存本能はとっさに選ぶ。

 生きのびることを。

「……死んで欲しいなんて思うわけないじゃない」
 だから迷わせた。
「あなたが消えて…………嬉しいわけないじゃない」
 だから未練を生ませた。
「だけど、土壇場の最後の最後に……選んだ所で躰が動かないんじゃ意味がないし、ね」
 だから与えた。
「……黙って勝手して……ご免ね」
 それでも―――。
 自分にできることなど、それぐらいしかなかったから。
 ハヤテと男女の仲になるつもりはなかったのだが、そんなものは所詮、自分のくだらぬ感傷で。
 そんな些細なことはどうでも構わないと思うほどには、今を生きている者の方が―――ハヤテが大切だった。

 重い腕を持ち上げて手のひらを視線でたどる。
 身を離すまでずっとハヤテの腕に触れていた指先は、まだ熱を残していた。
 寝床の中でぬくもりを伝え合っていた指を、拳の形にしてぎゅっと握り込む。
 何も言わず何も聞かずに、ただそれを―――人肌のあたたかさをくれた男。
 言葉で伝えることが全てではないと教えてくれたのは、男の静かな眼差しだった。
 紅が訪れれば黙って場所を空け、強く抱きしめるのではなく自分の肌を貸してくれて。
「…………ハヤテ」
 そんな男にいつしか自分が、捨て切れぬ情を抱いていることは知っていた。

「もう一度、抱かせてあげるって言ったのは……」
 嘘じゃない。
 ひっそりと呟いた。

 ハヤテに対するそれは恋情ではなく、だが恋情にも似た何かで。
 渡したいわけではなく受け取って貰いたいわけでもなく。
 何かをあの男に求めているわけでもない。

 だがそれでも自分はあの男に―――。
 居て欲しいのだ。
 ここにではなくてもいいから。

 生きて、どこかに。

 いつしか紅の長い睫毛の先は、透明な露に濡れていた。
「次に相手をする時は……遠慮なくあなたの気をぜんぶ吸い取ってあげる」
 そしたら、私のお肌はつるつるのぴかぴかって寸法よ。
 そう憎まれ口を叩きながら笑おうとして、紅が唇を震わせる。

「あなたが望むなら何度だって抱けばいい」
 自分は何度だって応える。喜んで。
 でもそれは。
「…………生きてないと出来ないのよ、ハヤテ」

 生きていればこそ。

 だから、ハヤテ―――。
 帰って来て。
 また、ここへ。

 紅は頬を伝う涙をぐいと拭い、顔をあげて正面を強く見つめた。

「―――生きて、戻れ」

 低い声で、だがきっぱりと紅はそう言って静かに目を瞑ると。
 最後に残る気力を振り絞りながら両手で印を組んで、その場からフッ……と姿を消した。





                                             ― 了 ―