冷たい水の中で覚える渇きの。

  










 ぽたり。ぽたり。



 どこかでかすかな水音が聞こえる。


 ぽたり―――――。


 また一滴。

 単調だがよく聞けば規則正しくすらあるその水音は、天井の梁をつたって雨水が漏ってでもいるのか、決してとぎれることなく続いていた。
 だがその水滴は、どうやら直接床へと落ちているわけではないようだった。
 落下の途中で何かやわらかいものに当たり、ぱたっと弾け飛んでいるような気配がある。
 時折その水音に入り交じり、別の音も聞こえていた。
 それは獣のうなり声のようにも、人のもらす怨嗟の声のようにも思えるものだった。
 けれどそれに応えるものは誰もおらず。


 ぽたり……ぽたり―――。


 静かな夜の中、水音は途切れることなくいつまでも続いていた。







 窓辺から月明かりが射しこむ中、アスマは寝台の背もたれに躰をあずけて四肢を投げ出していた。
 遠く水音が聞こえている。ごくわずかに別の音も。
 けれど横たわったままのアスマは微動だにしない。
 その目はどこを見ているのか、宙に向けられたまま何も映していないようだった。
 しかし時折―――間断なく聞こえる水音に反応するかのようにかすかな色が浮かび、それとともに躰の表面がヒクリと波打って。
「…………」
 アスマの唇が何かを言いたげにわずか開き、視線も定まらぬまま頭が左右にゆっくりと振られるのだった。
 まるで見えない何かを避けようとするかのように。
 しかしそれはしだいに緩慢となり、やがて動きの途中で唐突に止まって。
 かたむいた上体もそのままに、再びぴくりとも動かなくなるのだった。
 くり返し、どのくらいそうしていたのだろう。

 ガタン、という音とともに玄関扉が引き開けられて、家の中に新たな人間の気配が湧いた。

「―――おい、アスマ。いま帰ったぞ!」
 低くて太い男の声が家中に響き渡る。
 だが寝台の上に横たわっているアスマに変化はない。
「明かりぐらい付けろよ。おい!居ないのか?」
 再度、野太い男の声がアスマを呼んだ。
「おいアスマ!出迎えぐらい―――む?何だこれは」
 唐突に声が止まった。
 同時にその気配ごとふっと消える。
 音もなく部屋の中を移動した男の手によって、隣室の明かりが付けられたようだった。
「…………なんだ、これは」
 驚愕を抑えこんだような低い声がもう一度聞こえた。


 数日の任務を終えて里に戻り、簡単な報告を済ませて帰宅したイビキを出迎えたのは、その間に寝泊まりしていたはずの情人ではなく、居間の床の上で両手両脚を広げてはりつけにされている、見知らぬ男の姿だった。
 その男の手足と顎の下、計五カ所をくくっている荒縄は部屋の四隅から伸びている。
「―――何者だ」
 男を見つめながらイビキが誰何の声を発した。
 だが荒縄で手足と頭を戒められている男は、問いかけだけではなくその声にすら何の反応もしなかった。それどころかイビキの姿すら目に入っていないようである。
 その視線は宙をさまよっていたかと思うと唐突にきょときょと動き、また突然ぼうっと放心したように宙を見つめている。青く変色してよだれに濡れている唇からは、アァともウゥともつかぬ声が時折もれるだけだった。

 ぽたり―――。

 唐突に、イビキの頭上から何かが降ってきた。
「―――!?」
 咄嗟にとびのき、得体の知れぬものから身を遠ざける。
「なんだ?」
 眼前ではりつけになっている男の額にしたたり落ち、四方に弾け散ったそれを認めてイビキが眉根を寄せた。
 無言のまま身をかがめて男の脇に片膝をつく。
 暗部コートの裾が床に触れてバサリと音をたてた。
「ただの水、か。……驚かす」
 男の額に触れた指先を舌で舐め取ったイビキは、水滴の落ちてきた場所をさがして天井へと視線を上げる。
 ある一点を凝視した。
「あれは。―――あの仕掛けは」
 見つめるイビキの表情がしだいに険しくなっていく。
 やがてゆっくりと視線を下ろして男を見つめた。

 ぽたり―――。

 イビキの見守る中、再び男の額で水滴が弾け飛ぶ。

 ぴしゃッ。

 天井からしたたる水滴に額の中央を打ち抜かれても、男は反応しなかった。その瞳孔が開きかけている。
「……ぅぐ、あ……」
 男の口から意味不明の音がもれた。
「何故こんなことを」
 イビキの表情がどこか苦悶にも似た色を帯びていく。
 誰が、とは問わずとも分かっていた。
 この手法を、己の身を以して知っているのは―――。
 こぶしを硬く握りしめながらゆっくりと立ち上がる。

「―――アスマ」

 確信をこめて、イビキが低く呟いた。








 アスマは無限に続く夢の中にいた。

 ぽたり……ぽたり―――。

 もうとうに聞き慣れてしまった音が耳元で聞こえる。
 いや耳元ではない。額の上であるはずだった。
 だが体中の感覚が麻痺しており、したたり落ちる水滴がどこを穿っているのか、否、額の位置すら分からない。
 静かな場所だった。
 水滴の落ちる音だけが単調に聞こえ続けている。
 そして躰の下に広がる潤沢な水の匂い。―――水。
―――……喉が……渇いた……。
 アスマのその思いを聞き取ったかのようにして。
『水が欲しい?』
 そう尋ねる声がした。ついで相手の顔が視界に入る。
 やさしげな面立ちをした、まだ若い男の顔だった。
 のぞきこむ表情には虜囚の身を気遣う色がある。
 男が身をかがめると、長さのある亜麻色の髪がさらりとこぼれ落ち、半裸に近い姿で冷たく濡れた床に縫い止められているアスマの上でやわらかく揺れた。
 そっと伸びてきた指先が額の上に当てられる。

 ぽたり―――。ぴしゃッ。

 男の指を濡らしたその音に、アスマは、ああ自分の額はそこにあったのかとぼんやり考えた。
 男の指が額から鼻、そして唇の脇へと移動していく。
 無意識のうちに水の匂いを嗅ぎ取ったアスマが、乾いてひび割れた唇の間から舌を伸ばした。
 しかし。
『ね、まだ喋る気にならない?』
 男の指は無情にもすいと離れ、水の気配も遠ざかった。
『…………』
 アスマの目に鈍い膜がかかり、意識が沈下する。
 自己暗示による後催眠。
 捕縛される間際に己でかけたそれは未だ有効だった。
『猿飛アスマ。お前が知る限りのことを話せ』
 やさしげな面立ちの裏で冷酷な声がひらめいた。
 しばらくののち。
『―――――そう。仕方ないね』
 あっさりとした声が落胆なく呟いた。
 キーワードを含まぬ言葉にアスマの意識が浮上していく。
『でもそろそろ辛いよね。抱いてあげようか?』
 一転してやさしく相手を気遣うような男の声に、固定されている首を必死で動かして一も二もなく頷いた。
 その行為の中でわずかな清水が与えられるとすでに知っているからだ。
 アスマにとって男のその科白は水を意味していた。
―――……水が……飲みたい…………み、ず……。
 もうそれ以外のことは何も考えられない。
 口内の湿り気はとうに消え失せ、舌はカサカサに乾き、干からびた喉が食道に貼りつきそうだった。
 アスマの首はほとんど動かなかったが相手には通じたようだった。水音が止まり足を縛っていた縄が外される。
 忍装束を脱ぎ捨てるひそやかな衣擦れの音がした。
『……ア……』
 数刻後に与えられる清水を思ってアスマの喉が鳴り、その眼がゆるりと悦楽の色に染まっていく。
 やがて男の気配が近付いて、ぬくもりが肌に触れた。


「アスマ―――」
 名を呼ばれ、あたたかな手が肩先に触れた。
 躰の上に覆いかぶさっている人影がぼんやり見える。
―――ああ、そうだった。
「……ぅ……」
 すでに慣れ親しんだ儀式のごとく、その男の唇が降りてくるのを受け入れるためにアスマが口をあけた。
 その唇から注ぎこまれるはずの、ひんやりと冷たく甘い清水を飲みくだすために。
 甘美な訪れを待ち受けつつ、わずかな怖れが胸に湧く。
 唇は時おり待ち焦がれたそれを含んではおらず、探し求めて吸いつくアスマに好きなだけ舌を嬲らせた後で。
『まだだよ。アスマはせっかちだね』
 そう言って、男はくすりと忍びやかに笑うのだった。
 しかし待てど暮らせど唇は降りてこない。代わりに。
「それは。キスをねだっているのか?」
 とまどうような男の声が聞こえた。
「勿論してやるのにやぶさかではないが。……いいのだろうか。う、いや待てその前にちょっと起きろ」
 この男はこんなに野太い声をしていただろうかとアスマがぼんやり考える。
「にしても目を開けたまま寝るとは器用な奴だな。おいアスマ、起きろ!」
 相手はこのままでは埒があかないと判じたのだろう、ビシッという音とともに頬を張られた。
「―――ッ!!」
 痛みはあまり感じなかったが、眼前で火花が飛ぶようなその衝撃にようやくアスマの眼が焦点を結ぶ。
 すぐそばでのぞきこんでいる男と視線が合った。
「……ア……」
 先ほどまでとは違うその顔にいささか混乱しつつ、渇いてヒリついた喉からかすれた音をもらす。
 だが眼前の男にはどこか見覚えがあった。
「俺のことが分かるか、アスマ」
 懸念する視線で尋ねられ、ようやく男の名を思い出す。
「……イビ、キ………」
 数回ほど空咳をしてようやく声らしいものが出た。
「よし分かるな。大丈夫か?」
 安堵の息をついている男にぎごちない動きで頷きを返しながら喉をさする。持ち上げた腕がひどく重かった。
「―――分か、る……」
 そう答えるアスマの視線はまだぼうっとしている。
「俺のいない間に何があった」
「……なにが……」
 表情をひきしめて尋ねるイビキの科白の意味が把握できないのか、アスマがぼんやりとくり返す。
「これだ」
 正気には戻ったものの未だ危ういアスマを案じつつ、イビキは手にした巻物を寝台の上に放り出した。
 墨汁の残る硯や小筆とともに、居間で縛り上げられていた男の脇へ転がっていたものだ。
 敷布の上を巻物はころころ転がり、薄紙の上に流暢な手で書かれた忍び文字がかいま見えた。
「中身は読んだ」
 イビキが短く言う。
 この男にしては珍しく、何と言って聞き出せばよいものか分からずにとまどっていた。
 もちろん聞かねばならぬことは分かっている。
 それでもアスマが裡にかかえている傷痕に触れたくないと願う心がイビキにはあって。
 そうこうするうちに、巻物に視線を向けていたアスマの双眸に少しずつ力が甦っていく。
「―――あいつは。あの男は三人目なんだ」
 やがてはっきりした発音で口を開いた。
 双眸を光らせたイビキが黙って続きを待ち受ける。
「一晩に一人ずつここへやって来た」
 明瞭でなめらかなその口調は、すでにアスマが常態に戻っていることを示していた。
「残りの二人はどうしたんだ」
「手傷を負わせて放した」
「アスマ―――」
 なぜ暗部もしくは上に突きださなかった、とイビキがその声にわずかな非難の響きをこめる。
「わざわざお前らの手間ぁ増やすこともねえだろ。口を割らせてみたが蔓を持たねえ輩だった。金で雇われただけで相手の身元も知らないデクの坊だ」
 どこの里ともつながりがない者だったということだ。
「まあ終わってしまったことは仕方ないが」
 褒められたことではないなとイビキが息を吐いた。
 これが普通の忍びであれば、相手に裏をかかれ言い逃れられてしまったのはないかと疑うところだが、アスマほどの手練ともなれば、そんなことはありえない。
「で―――あの男が三人目の間者か。なぜあれを仕掛けた」
 暗部の拷問尋問の部隊長を務めているイビキ自身、あまり大声では言えぬ汚れ仕事に手を染めることはあるが、それでも何故と聞かずにはおれなかった。
 男に施されていた仕掛けは、躰に一切の傷はつかぬものの人格の崩壊を引き起こす危険性が高いものだった。
 実際、イビキが男を助け出した時にはすでにその危機に瀕していた。
 あれはいわば、その人間の精神限界を試すものなのだ。
 知識としては知っていたが目にするのは初めてだった。が、あまり趣味がいいと言える代物ではなかった。
 ましてやアスマはあれを自分の身で受け止めたことがあるはずなのだ。精神衛生上にもいいわけはない。
 アスマの様子がおかしかったのは恐らくそのせいだ。
 イビキのそんな思いをよそにして、ごろりと寝台に寝転がった男は気負いもなく理由を口にした。
「手っ取り早かったんだよ。天井に吊った如雨露から切れ目なく水を落とすってだけの仕掛けだがな。それさえ作っちまえば、あとは大して手間もかからねえし」
 不精者のアスマらしいと言えばらしすぎる言だった。
「普通の水責めよりも効くぜ。気力が消耗するからな。それに水断ちを加えりゃ―――落ちるのは早い」
 けれど淡々とした口調で言うその口元がうすく笑んでいるのを知って、イビキはうそ寒い思いに襲われた。
 たかが一滴ずつ水がしたたり落ちるだけである。
 そんなのが拷問になるものか、と仕掛けの下に置かれた誰しもが最初は鼻先で笑い飛ばす。しかし間もなく身を持ってその恐ろしさを知ることになるのだった。
 水滴に額を穿たれていると次第にわずらわしさを感じるようになり、やがてはっきりと神経に障るようになっていく。そしてその苛立ちはじわじわと高まっていき、最後、耐え難いまでの苦痛へと変じていくのだ。
 水滴をさけようにも顔はほとんど動かせない。しかしそこにもう一つの罠は仕掛けられていた。
 わずかながらでも頭を動かせるため、当然ながら虜囚は水滴に穿たれる場所を変えようとする。しかし動かせば動かすほど、その神経性の苦痛を覚える箇所が増えていくだけのことだった。
 それでも容赦なく水滴はしたたり続け―――しまいには深い絶望とともに虜囚の狂気を誘うのだ。
 加えて、絶え間なく水音にさらされ、濡れた床に横たわっていながら一滴の水も口にできないとなると。
 確かに口を割らせるには効果的であると言えよう。
「じゃあ聞くがな、アスマ。吐かせた後も仕掛けの下に置いてたのはどういう了見だ」
 あまり聞きたくはなさそうな様子でイビキが尋ねた。
「―――そうだな。……どうしてだろうな」
 ふと顔をあげたアスマはそう言ったきり黙り込んだ。
 イビキの言う通りだった。どうしてだったろうか。
 あの男に必要なことを吐かせて、イビキに宛てて書き付けをして、そのあとは―――。