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仕掛けの下に置いてから男は二日と持たなかった。 先の二人とは違って里者であったにもかかわらず、男はあっけなく己の任務のすべてを吐いたのだ。 なのに自分は―――。 「どうしてだったかな」 アスマがもういちど呟いた。 独白のような声だった。 ―――あの音を聞いていたかった……ような気もする。 「アスマ、あいつが吐くまでどれぐらいかかった」 ふたたび己の闇の中へと沈み込んでいきそうな相手の気配を察して、イビキが口早に問いかけた。 「一日半だ。捕らえてからは二日、いや三日経ったな」 窓の外を見上げ、月の浮かぶ位置から子の刻を回っていることを知ってアスマが呟く。 「世話した後があったが、メシを食わせていたのか?」 尋ねながらイビキが少しばかり意外そうな顔をした。 拷問が長引く時は死なせぬ程度に食餌を与えるが、二日であれば水だけで放置しても死ぬことはありえない。 「もう駄目だこれなら死んだ方がいいってぐらいツラい時にな、縄を解いてやって水や食い物を与えると」 問われてアスマがゆっくりと視線をあげた。 イビキの背をザワザワと悪寒が這い上がる。 部屋の温度が一気に下がったような錯覚に陥った。 「急に気が弱くなるのさ。―――一度安心しちまうと、人間ってヤツはな。拷問が続くのに嫌気が差すんだよ」 辛酸を舐めた者だけが聞かせる殷々とした声の響き。 アスマの眼はふたつの昏い穴のようだった。 そうなると後先考えずに自白してしまいたくなるのだと。そして口を割ってしまうのだと言ったアスマだったが、かつての時、自身がその恩恵にあずかることはできなかった。 それゆえに長く地獄をさまようことになったのだ。 口を割りたくても割ることができなかったのである。 己にかけた自己暗示のせいだった。 アスマが自分にかけたその呪は、個として生きのびるための最低限だけを意識の奥に沈め、表層の人格一切を破壊されても秘密を守り抜くという非情なものだった。 尋問が重ねられ、追いつめられるほどにその呪は強固となり、それとともに解呪の難度もあがっていく。 抱える情報を秘するかわりに、それが解かれぬ限りはやがて廃人となることもありえる諸刃の術式。 他の部隊員らを逃がすため自らおとりとして捕らえられたアスマが救出されるまでには相当の時間がかかり―――その頃には自力では何ひとつできない、人として真っ白な状態にあったらしい。 アスマと入れ違いで暗部所属となったイビキはそれ以上の詳しいことを知らない。アスマと懇意になった今となっても本人に尋ねるつもりはなかった。 職業柄も手伝って知りたくないことはなかったが、それでも知らない方がいいことも世の中にはあるのだ。 「あの男の事は分かった。明日、詰め所に連れて行く」 あのまま上に突きだすことはできなかった。 暗部には男を拷問にかけた記録がないのだ。書類をねつ造しようにも誤魔化しようがない。イビキが担当したことにするとしても日付を見れば怪しまれてしまう。 自分はここ数日ほど任務で里を離れていたのだ。 ならば少なくともこの家での日数と同じぐらいは暗部の詰め所にかくまって男の回復を待つしかなかった。 二日。 それならまだ男が元に戻る可能性はあった。 イビキとしてはそうあって欲しかった。 男は不法に放たれた間者であり、任務の途中で消されたとしても仕方のない存在だったが、それでも回復して欲しかったのだ。―――アスマの傷を増やさぬために。 「で、その。お前の具合の方はどうだ」 間者の様子を思って焦燥感を覚えながらも、先ほどの様子を思い出してイビキが何気ないふうを装って尋ねる。 その口ぶりと表情から、アスマはイビキがどんな状態の自分を目にしたのか、おおよそのことを知った。 「ザマぁねえな」 ゆうらりとアスマが笑った。 「悪い夢を、見ちまってな―――面倒かけた」 そう言ってうすく笑むのは幽鬼のような顔をした男。 ―――この馬鹿が。 やはりそうか、とイビキが苦い思いを噛みしめる。 こちらの手間を省いてやろうとして拷問し、自分が過去の幻影につかまっていれば世話はない。 躰にだけではなく見えない場所にあまたの傷を持つこの男に、そんなことをして欲しくはなかったのに。 いや、とイビキは思い直す。 もしやアスマはそうなることを知っていながら。 ―――よそう。推測でしかないことだ。 アスマの中でいまだ消えずに昏くよどんでいる闇を掘り起こしてしまうことを怖れ、イビキが強く打ち消した。 「どんな夢だ。吐いた方が楽かも知れないぞ。ん?」 気づかぬ振りでにんまりと笑いながらそう言った。 無骨な男なりに相手を気遣った言葉だった。 「―――――」 けれどアスマは答えずイビキをじっと見つめていた。 喉がカサついたように渇ききっている。 肩に触れてきた手のぬくもりを感じてからもうずっと。 目の前にいるこの男は与えてくれるだろうか。 甘美なまでのあの清水を。 冷たい水音を耳にしながらアスマは一滴の水も口にしていなかった。 この渇きをわずかでも癒せるのなら―――――。 あの男でなくても構わないはずだった。 「……ア……」 与えられるものを思ってアスマの喉がこくりと鳴った。 口の端が持ち上がり、唇がゆるやかな笑みをかたどる。 さっきまでとは違うその笑みに、イビキの躰がぞくりと震えた。知らず覚えた興奮に下腹が熱をおびていく。 口にはせずともイビキのその眼で欲情を知ったのか、アスマは自分を見つめている男を視線で誘った。 厚みのある胸がゆっくり上下すると、わずかに開いた唇から乾いた呼気がもれ、色のうすい舌先がひらめいた。 うっすらと濡れた光を浮かべているような双眸に、イビキの躰の芯がカッと熱くなる。 「アスマ―――」 そう言ったきり後が続かない。 ―――いいのかこんなタナボタで。 いささか場違いな思いとともに内心右往左往していた。 イビキが望めばその躰を抱かせはするものの、今ひとつ情に厚いのか薄いのか、それともただ流されやすいだけなのか、よく分からないアスマである。 こんなにも求められたことはなくてイビキがためらう。 しかし現にアスマは自分を欲しがっているようであり。 これはきっと任務明けの褒美に違いないとイビキは自分で自分に言い聞かせることにした。 「たまにはお前から欲しがられるのも悪くない」 いつもアスマをその気にさせるのに大層な苦労をしている男が嬉しげな顔で笑う。そこへ。 「……抱けよ……」 アスマの唇からかすれた声がもれ聞こえた。 それだけでなく。 「……イビキ、早く」 くれ、―――と。 とぎれがちで聞こえぬほどの声でアスマが言った。 すでに声を出すのもつらいのか、その吐息は熱くかすれ、両の眼には濡れうるむ光が浮かんでいる。 引き寄せられるようにして触れたアスマの躰はもう、火のように熱かった。 「……これは。気を抜いていたらこっちが先に絞り取られて終ってしまいそうだな」 壮絶な艶に打たれてイビキがごく、と息を飲み下した。 その股間はとうに硬く勃ち上がっている。 こんなアスマを前にして欲情せずにはいられなかった。 イビキは手早く服を脱ぎ捨て寝台にあがると、ギシリと重い音を鳴らしながらアスマの上にのしかかる。 身をかがめて引き締まった脇腹に唇をつけたとたん。 「あぁ……ッ」 鋭い声とともにアスマの躰が跳ね上がった。 イビキの躰の下で止まらずに痙攣しつづけている。 見ればその双眸は快楽の色に染まっていた。 唇は浅いあえぎをくり返している。 「―――これだけで感じているのか」 いつもとは全く違うアスマの反応に驚きつつ、イビキの興奮もいっきに高まっていく。 どこに触れても小さく波打つ躰の奥を指で慣らして。 「挿れるぞ、いいか」 いちおうの断りを入れると、敷布の上でアスマの頭がうなずいたようだった。 けれどその目はイビキを見てはいない。 やがて躰を割って押し入ってくるはずのものを待ち焦がれるように、ゆっくりと喉が上下した。 「今日はなけなしの抵抗もしないのか」 イビキはそう言いながらちらりと情人を見遣ったが。 「―――もうそんな余裕もない、か」 息を浅くしているアスマにはそれすらも聞こえぬようだった。 両脚を割り開き、イビキがその間にぐっと身を進める。 「あ、はぁッ……」 アスマがこらえきれずに愉悦の声をもらした。 感覚の遠い今の躰ではありえないほどの快感の波が全身に押し寄せる。 「………ァアッ………」 たまらずに喉をそらせてアスマが啼いた。 厚みのある胸がぐぅっとのけぞる。 それだけでは足りないのか、両脚でイビキの背をかかえこみ、男の漲りを深く飲みこんで締めつけた。 「ふ、ぅッ」 イビキの顔が快感にゆがむ。 「―――く、いきなりか」 こらえる苦しさの中から声を絞り出した。 こちらとて初っぱなから興奮の極みにあるのだ。油断するとあっと言う間に精を放ってしまいそうになる。 「動け……よ」 呼吸を整えていると下から声がかかった。 見ればアスマが恨みがましい目でこっちを見ている。 「ああ」 苦笑しながらイビキは頷き、ゆっくりと腰を前後させて抽送し始めた。 「……んっ……う……」 すぐに淫らがましい声があがる。 「―――もっと……奥まで突け、って……」 けれどまだもの足りないのか、切れ切れの声で責めながら自らぐっと腰を押しつけて、男のものをより奥深くまでくわえこもうとする。 「んうッ、はぁ……ア……!」 躰をうねらせ、イビキが見たこともないほどに乱れ始めたアスマの肌は早くもうっすらと汗ばんでいた。 ぽたり……ぽたり―――。 イビキの手で仕掛けは止められたはずなのに、アスマの耳にはまだ、絶え間ない水音が聞こえていた。 『アスマは忘れないよ。私が刻みつけたものをね』 どこかでくすくすと笑う声がする。 アスマを救出に来た木の葉の暗部達によって、その男は全身を朱に染め上げて地に倒れ伏したはずなのに。 『―――ねえアスマ』 その命の脈動を永遠に停めたはずの男はいまだ時折、おぼろな影のように夢の中に現れる。 『―――忘れてはいけないよ』 あの男はそう言いながら頬にくちづけて、澄んだ瞳でアスマを見つめて。 そして欲望が起きれば幾度となくアスマを犯した。 けれどあの場所あの時間、それはわずかな安らぎの時だった。確かにアスマはあの男からぬくもりと命の水とを与えられていたのだった。 『―――水が欲しいなら、抱いてあげようね』 それは躰の芯までとろけるほどの快楽だった。 たった一口だけ注ぎこまれる清水を待ち侘びて、そのためには男のどんな行為をもアスマは許した。 男がもたらすぬくもりと与える甘露、里で作られている媚薬などとは比べものにならぬほどに強烈な―――それこそまさに死と隣り合わせの悦楽で。 「……ぅあッ……」 のしかかっている男にぐっと突き上げられ、快楽を貪りながらアスマの唇が何かを言いたげにゆるく開いた。 「……ン、はぁッ―――」 火のように熱いあえぎをもらしながら、視線も定まらぬまま左右にゆっくりと頭を振る。 まるで見えない何かを避けようとするかのように。 「アスマ……」 愛おしげな囁き。甘やかな男の声。 耳に聴こえるその声の方角へと、うつろな眼を向ける。 ぽたり……ぽたり―――。 『―――アスマ』 絶え間ない水音とともに自分を呼ぶ声が聴こえる。 「―――ふ。……はあ、アッ……」 もっと強い愉悦を欲しがって、アスマが男に向かってゆっくりと腕を伸ばす。 「―――アスマ」 あたたかなぬくもりが肌に触れてきた。 それとともに躰の奥をぐぅっと深く突き上げられる。 「……ああ……」 欲するものを得て、アスマの唇がゆるやかに笑みくずれていった。 ― 了 ― |
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