街角にて -beginning again-

  











 ざわざわざわざわ。
 ニンゲン達が歩いている。街が動いている。
 意味のない雑音のようなざわめきが、その場所を通り過ぎていく。

 ひとつの街角で―――。
 置き忘れられた子供がぽつん、と膝をかかえて座っていた。
 誰も気付かない。気付くことを怖れて。
 誰も見ない。目の当たりにすることを避けて。
 誰も足を止めない。災厄にかかわることを忌み嫌って。

 誰も欲しがらない、誰にもかえりみられない、ちいさな子供。
 誰からも必要とされぬまま、忘れ去られてしまった幼い仔。

 まっしろな場所。まっしろな空間。
 道の交差する街角でありながら賑わう街の喧騒から隔てられ。
 日常という名の外界から切り離され、どこにも繋がっていない道。

 道のない道に、その子供はいた。


 目に映るのは、ちいさな影だけ。
 地面の上に自分の躰が作り出す黒い影。
 それしか見るものがなかったから、ずっとそれだけを見ていた。
 来る日も来る日も。また明くる日も―――毎日ずっと。
 忘れ果てるぐらい長い時を、シンとしたその場所で過ごしていた。
 街の中には子供に目を留める者もおらず、足を止める者も誰一人としていなかった。
 だが何故か時おり、命が尽きぬほどの少量の食べ物が目の前に置かれていて。
 自ら命を絶つことは許されぬとそう告げるかのように。
 子供を死に至らしめることで災いを受けるとでも言うかのように。
 幻のように朧な手がわずかの糧食をそこに置き、何も言わず足早に去っていく。
 それを不思議と思う心すら麻痺したまま、子供は諾と受け止めていた。
 この命にどんな意味があるのだろう。
 遠くそう思いながら、目の前にあるものへと手を伸ばして口へ運び命をつないだ。
 確たる肉の器がありながら誰の目にも映されず。
 消極的な死を待ち受けることも、自ら命を絶やす理由も与えられずに。
 虚ろな心を抱えたまま、どれくらい無為の時を過ごしただろう。

 子供はそして今日もまた、地面に映る自分の影を見つめていた。


「―――」
 
 まっしろな世界に突然、音が聞こえた。

 ただの音だった。
 だから子供は反応しなかった。

 自分に向けられた音ではない。
 誰も自分を見てはいないのだから。

「おい」
 だがもう一度、音は聞こえた。

「耳が聴こえないのか?」
 続けてまた。

 子供の耳が捕らえたのは、意味をなさぬ音の断続ではあったのだが。

 地面を見つめる子供の視界に長い影が映った。
 自分のものではない、影。
 久方ぶりに見た他人のそれをまじまじと見つめる。

 他人―――ひと。
 いや、それは人ではないのかも知れなかった。

 先天的に備えている子供の心眼に、その影は。
 角を持つ鬼の形をして視えた。

 だが怯えることはしなかった。
 できなかったという方が正しいのか。
 死すら怖れる理由のない子供には、怖いものなど無かったのだ。
 怖いと感じる心すら、もはやない。

 あるのは。
 ただ不思議だけ。
 
 だ、れ…………?

 焦点の合わぬ視線をあげた。
 茫とした両の瞳がひとつまたたく。
 見上げた子供の目に映ったのは黒い影だった。
 弱った瞳には影の背後から射し込む陽がきつすぎて、輪郭がよく見えない。

 見る必要もないのだけれど。
 やがてこの影も去ってゆくのだから。 

「ナゼココニツナガレテイル」
 子供を見下ろしている黒い影が、またいくつかの音を続けて発した。

 音。

 いや違う。
 それは―――。

 声。

 だった。

 瞳孔を散じていた子供の目がゆっくりと焦点を結んでいく。
 額の奥で音の羅列を反芻し、声をつなげて言葉を造った。
『何故ここに繋がれている』
 影の放った言葉が意味を成して耳へと返る。

―――ああ、これは旅人なのだ。

 子供にようやく理解が訪れた。
 ごく稀に、街の人間には知れたことを問いかけて―――去って行く影があったから。

 そしてまた。この問いかけは影の持ち主が術者であることを教えていた。
 なぜなら子供の首に繋がれている鎖は、短く切れて首下で垂れ下がっているように見えはしても、視る者が視れば呪印によって不可視の鎖が長く伸び、その先は壁に繋がっているのだと識れたから。
「その鎖は?」
 黒い影の発した問いに反応した子供の唇が、ゆるやかに開いていく。
「僕が……」
 久しく使わぬ喉が細くかすれた声を紡ぎ出した。
「僕が、血継限界の血族だから……です」
 これは―――呪縛の鎖。
 自動人形のように平坦な声で、問いへと答える。
 決められた問答のように子供は問いに対して答えを返し、次の問いを待ち受けた。
 すぐに怖気と忌避の入り混じったそれが降ってくるはずだったから。 

「それは本当か」
 驚愕の声が耳に聞こえた。
―――ああ……やっぱり。
「…………」
 定められた順序に従って子供が是と頷く。
 そうすれば相手は足早にその場所から去って行くはずだった。
 何も見なかったように。
 何も見えないかのように。
 実際、子供がそう答えた瞬間に、旅人の目は子供の姿を映さなくなるのだ。
 忌まわしい存在と関わり合うことを恐怖して。
 子供の現身は視界から弾かれて、残像は死界へと飛ばされる。

 だから、声はこれで終わるはずだった。
 後にはまた、まっしろな世界が待っている。
 影との寸暇の交わりを名残り惜しむ気持ちすら、子供の中にはなかった。
 そんな感情は全部使い果たしてしまっていたから。
 もう、どこにもない。

 だが。

「憐れなガキだ」
 声は続いたのだった。
 地面に映っていた黒い影がふいと折れ曲がる。
 数歩を離れた場所で屈んだ相手は、自分を眺めているらしかった。

―――どうして行ってしまわないのだろう。

 不思議そうに瞳を揺らす子供の上を、冷ややかな視線が這い回る。

 雑踏の埃にまみれて薄汚れた躰、擦り切れて破れた衣服。
 この年頃であればふっくらとある筈の頬は痩せこけて泥がこびりついている。
 裸足の爪先は割れ、何時のものとも知れぬ汚れに黒ずんでいた。

「お前みたいなガキは、誰にも必要とされず―――」
 しゃがみ込んだ影がことさらにゆっくりと言う。
「……この先、自由も夢もなく野垂れ死ぬ……」
 怯えを煽るかのように子供と目線を合わせた黒い影が、くくくと低く嗤った。

 子供は、目の前に現れた相手の顔をぼんやりと眺めていた。
 鬼の気配を持つ影は、人間の男の姿をも併せ持っていた。
 冷ややかな眼差しをした男の眼に、ふと吸い寄せられる。
 闇の中で蒼い鬼火を放ちそうな眼光。凍りつくような光がまたたくその奥に。
 視えた彩があった。

―――このひと。

 このひとの眼…………。

 子供はぼんやりと思った。

 ああ…………そうか。

 ふわり、と躰の底から浮き上がってくるものがある。
 感じたものに身を委ね、鬼の気配を持つ男をじっと見上げた。

「―――――!?」
 男の目が大きく開かれる。
 子供がちいさく笑んだのだ。
「……お兄ちゃんも……僕と同じ目してる……」

 お兄ちゃんも、ひとりぼっちなの?

 けがれのない瞳でそう言って、にこりと笑った。

「……………」

「俺と、来るか?」
 しばらく無言のまま佇んでいた男が口を開いた。
「な……に……?」
 唐突なその言葉の意味が分からずに、子供がぽかんと口を開けて男を見上げる。
「聞いてるんだ。ボケっとしてるんじゃねぇ」
「……なん……で?」
「何でと言われりゃあ。俺がお前を欲しいから、だな」
 あっさりと男がそう言った。
 だが、にわかにはその言葉を信じられるはずもない。
「僕は……血継限界の血脈だよ?」
 心底、不思議そうな子供の声だった。
「知ったとたん、みんな逃げていくのに」
 穢れとして忌み嫌われる存在だから。
 それなのに―――。

 なんで……?

「俺はソレが欲しいんだよ」
 子供が口にした系譜の名に再び反応した男が、にたりと嗤う。
―――その忌まわしき血統がな。
「思わぬ所で思わぬ拾い物をしたって所か」
 その声にはわずか、悦に入ったような響きがあった。
「お兄ちゃんは……」
 僕が要るの……?
 ちいさな声で子供が聞いた。
「その呼び方はよせ。俺には桃地再不斬という名前がある」
「ザブザ……さん、は」
 僕が……。
「俺にはお前が必要だ」
 消え入りかけた子供の声を遮るようにして再不斬と名乗った男が言い放つ。
「…………」
―――ひつよう?
 受け取った言葉の意味をゆっくりと噛み砕き、理解した子供の眼が円く開かれる。
「もう一度聞く。これが最後だ」
 男が告げた。
「俺と、来るか」
「……いい、の」
「――――――」

 要ると。
 そう言った筈だと男が見据える。

 本当に?

 要る……の。
 僕が。

「……行き……ます」
 連れて行って。
 最前に見せた笑みは偶然のものだったのか、笑い方を忘れて久しい子供の唇がぎごちなく歪んでいくのを男は黙って見ていた。
―――何かまずいことをしたのだろうか。
 黙したまま自分を見つめる相手に子供が再び不安を覚え始めた頃。
「お前の名は?」
 男が口を開いた。
「なま……え」
 その問いに目をしばたたかせた子供が瞳の焦点を飛ばす。
「もしかして知恵が足らねぇのか」
 厄介な拾い物をすることになるのかと、男が眉を寄せた。
「覚えて……ない」
 かすかな焦れを瞳に浮かべながら、子供が必死に考える様を見せる。
『―――』
 誰かが優しい声で呼んでくれていた筈なのに。
 遠い昔、優しかったその人達が呼んでくれた名前をもう、子供は思い出すことができなかった。
「そうか」
 そのままじゃ不便だなと呟き、しばし考えていた男が。
「白」
 ハク、と呼んだ。
「お前は今から白だ。いいな」
「白……」
「真っ白けの空っぽ頭だからだよ、姓はいらねぇだろ。お前には名だけで十分だ」
 意味を問うように顔を傾けた子供へ、乱暴な口調で男が言う。―――真っ白な心を持つお前には似合いだろうと直截には告げることが出来なくて。
「不満なのか?」
 苦虫を噛み潰すような顔をしている男の言葉に、白と名づけられた子供がふるふると首を振った。
「―――そうか。どっちにしろ俺に向かって口答えは許さねぇからな。これは命令だ」
「……めい……れい?」
「そうだ。道端に落ちていたお前を、俺が拾った」
 まるで物を扱うようなぞんざいな口ぶりで男が言う。
「今日からお前の血はオレのものだ。お前は俺のものだ」
 だから―――。
「俺の言うことを聞け」
 いいな。
「…………」
「命令だと言われたら、はいと言え。俺に逆らうな。逆らえば―――」

 殺す。

 淡々とした男の口調には何の気負いもなかった。
 それゆえにかえって真実だと知れる、底知れぬ恐ろしさがあった。
 人を殺めるにおいて、殺気すら必要としない男。
 無用な気を放つことは自分の所在を敵へ知らしめることに直結する。引いては自分の命の行く先をも。男が負っている役目からすれば当然のことわりでは、あった。
「そうなれば―――血継限界の血の秘密は、お前をバラして術を奪う」
 死体の処理はもとより俺の専門だ。
 冷ややかに告げる男の視線が子供の身を刺し貫く。
 生者としての本能が反射的に、ぞくりと白の躰を震わせた。
「俺が怖いか」
 その様を目にした再不斬が、にぃと唇を歪ませる。
「いいえ……っ」
 いいえ。怖くはありません。
 眼差しで必死にそう告げる。
「……俺と来るなら、お前には覚えてもらわなきゃならねぇことが山とある」
 楽な修業じゃねぇぞ。
 今や子供の生殺与奪を手中に納める男が、低い声で言った。
 蛇が獲物を舐め回すような視線で白の躰を射すくめる。
「言っておくが辛えぞ。お前に耐えられるかどうか俺にも分からねぇ。途中で死ぬ可能性もある。それでもいいか」

 それでも、俺と来るか。

 否やの返事が戻ってきたらこの場で命を奪うつもりであることは毛ほども覗かせずに、子供を試す言葉を放った。