街角にて -beginning again-

  











 「…………」
 問われた白が、澄んだ瞳で男を見上げる。
 死ぬことは怖くなかった。
 それは自分がいなくなること、誰の目にも映らなくなること。それなら今までと同じだから。
 でも死んでしまったら。

―――このひとと一緒にいられなくなる。
 自分を要ると言ってくれたこのひとと。

 白にはその方が嫌だった。
「はい」
 だから頷いた。
「行きます。修業でも……死にません」
 だから答えた。
「いい覚悟だ。それなら―――」
 声と同時に、子供の首と壁とを繋いでいた不可視の鎖がチン―――と澄んだ音を立てて消滅する。
「え」
 驚いて見上げると、組み合わせた指で空中に簡素な文様を描いていた男が両手の印を解くところだった。ぱらぱらと細かな黒粉が宙へと散じる。
「………?」
 白が自分の胸元を見下ろした。
 長い時を戒めていた呪縛の鎖は真実、目に映るままのただの短い鎖となって首から垂れ下がるだけになっていた。
「単純だな、こんなもので繋いでいたのか」
 嘲るように言った再不斬が、くつりと嗤う。
「今のは……」
 白が思わず声をもらした。
 冷たい飛沫が頬へかかったような気がして顔を拭ったのだが、自分の手の甲に何もついていなかったことに惑いを覚えていた。
「水気だよ。呪を込めた水の刃で切ったのさ」
「すいき……?」
「そうだ。空中にも水はあるからな」
 呼び寄せるだけだ―――こうしてな。
 再不斬が上向けた手の平で、ぶぅんと低く唸る振動音が発生した。
 やがてどこからともなく出現した水の塊が流動し、美しい水球を形造る。
「きれい……」
 白の唇は思わず、吐息のような声をもらしていた。
 ぱしゃぱしゃと涼やかな音を立てながら空中へしぶきを飛ばしているその水塊は確かに、男の手の上でふわりと宙に浮かんでいた。
「お前にもそのうち出来るようになる。俺が一から全部、叩き込んでやるさ」
 お前の躰にな。
 続く不思議に目をみはっている白を面白そうに眺めながら再不斬が言った。
 手を下ろすと同時に水球が消えうせる。
「これでお前はその場所を出られる筈だ」
 子供を見下ろしながら男が告げた。
「―――ついて来い」
「はい」
 にこりと笑って立ち上がろうとした白の躰が頼りなく、ぐらりと揺れる。
「……あ」
 驚いたようにちいさな声をあげた。
 長い時をそこに座り続けて過ごしていた白の足腰は萎えていて、思うように動かない。
「――――――」
 ぺたん、と地面に腰をついた子供に、再不斬が視線を投げ下ろす。
 何を考えているのか読み取らせぬ双眸。
 だが黙した男が白を検分していることは知れていた。
―――置いて……いかれる。
 両の瞳が絶望の色に染まる。
「…………っ」
 それでも幼い心はあきらめることに慣れていて。
「ごめんなさい。僕は……あなたと行けません」
 白の瞳孔に鈍い色をした被膜がかかる。
「足が動かねぇのか」
 問われて、こくん、と頷いた。
「役立たずだな」
 短く一言、白の頭上から冷たい声が降り落ちる。
「…………ごめんなさい……」
 弱々しく消え入るような声で口にした。
―――面倒な。
 眉をしかめた男の表情がわずかに歪む。
 再不斬は任務を遂げた帰りの途にあった。任地に赴く場合とは違っていささか時間の猶予があるとは言え、里への道のりはまだ遠い。荷物を背負い込むことになるのは火を見るよりも明らかだった。それにたとえ里へ連れ帰ったところで、子供の秘密を他人に奪われぬよう気を配りながら己独りのものとすることは困難を極めるかとも思われた。
 だが自分には、この子供の血が必要なのだ。
―――手持ちの知識だけで術が奪えるかどうかは分からねぇが、いっその事ここでコイツをバラしちまった方が手っ取り早いか…………。
 そう思案しかけた再不斬の眸の中で、かすかにふと色が動いた。
 ちいさく笑んだ子供の顔、ぎごちなく笑おうとした子供の口元が瞼裏に甦る。
「………………」
 無表情に白を見下した。
「―――謝っているヒマがあるなら、立て」
「……え」
「俺は来るかと尋ねて、お前は来ると言った」
 言をひるがえすことは許さない。俺に逆らうことも。
 冷たい声が淡々と言った。
「でも―――」
 足が、とそう言いかけた白が驚いたように両目を見開く。
 目の前に、ずい、と大きな手が伸ばされたのだ。
「立て。命令だ」
「……え」
 触れてもいいのだろうかと惑う視線で、目の前にある男の手を見つめた。
「二度を言わせるな」
 命令だと言った筈だ。
「は、い」
 望まれる答えを返した白がおずおずと手を伸ばし、男の手を掴んでゆっくりと立ち上がる。
「歩ける所まで―――気絶するまで歩け。そうしたら担いでやる」
 捨てることはしない、と男はそう言った。
「……はい」
 置き去らぬと言われても、他者から必要とされることにまだ慣れていない子供は、足手まといになったら捨てられるのではないかと怯えを声に滲ませる。
 だが。
「あ」
 おののきながら再不斬を見上げていた白だったが、ふいと前を向いた途端、驚いたような声をあげた。
「どうした」
 今度は何だと、煩わしげに男が見おろす。
「いいえ。……いいえ」
 男に厭われまいと必死にこらえながら、白が首を振る。

 目の前に―――。

 道が、拓けていた。

 道のない道に、道ができていた。
 まっしろな場所の、まっしろな風景の中。うねうねと細く長く―――。
 遥か彼方へと続いている一本の道が。

―――ああ。

 僕はこのひとと歩いていけるのだ。
 この……道を。

 そう悟って、力のない白の両脚がふるりと震える。
 気づくと全身に細かいさざ波が走っていた。
「…………っ」
 胸の奥から体の底から込みあげてくるものをこらえようとして、白が奥歯をかみしめる。
「何を泣いている」
「……え」
 聞こえた声に見上げると、視界に映る男の輪郭は滲んでぼやけていた。
「僕……?」
「―――泣くな」
 不思議そうな顔をする子供を見下ろした再不斬が、繋ぐ手はそのままに残る片手を白へと伸ばす。
 両眼からあふれ出す透明なしずくに指を触れ、濡れた指先を唇へと持っていった。
「何故、泣く」
 淡い塩気を舐め取った男が、苛立ったような声で問う。
「…………嬉しいんです」
 自分の唇がもらした言葉を耳にして、白が驚いたような顔をした。

―――僕は、嬉しいの……か。

 そう、嬉しいのだ。
 続く知覚は後からやってきた。
「あなたと一緒に行けることが、僕は……」
 再不斬にそう告げる白の声が、震えてかすれる。

 ……嬉しい。
 
 あなたが、僕を見てくれたことが。拾ってくれたことが。
 来るかと聞いて。名をくれて。手を貸してくれた。
 要ると言ってくれた。
 欲しいのだ、と。
―――そんなことを言ってくれたひとは、今まで一人もいなかった。
 なめらかな頬の上をまた一筋、新たな涙が流れ落ちていく。
「俺と来たっていい目が見られるわけじゃねぇ。お前が生き残れるとは限らねぇんだ」
 分かってるんだろうな。
 不機嫌な顔を見せながら再不斬が冷たい口調で突き放す。
「それでも、嬉しい」
 伝い落ちる涙はそのままに、濡れた瞳で白が男を一心に見つめ上げる。
「それなら―――」
 言いかけた男がふいと目をそらした。

 泣くな。

 低い声が落ちた。

「……はい」

 命令ですね。

「はい、再不斬さん」
 自分の顔をこすって涙をぬぐった白が、目を赤く泣きはらした顔でにこりと笑う。
 ともすればぼやけそうになる視界をこらえながら、持てる限りの力を込めて、両足で固い地面を踏みしめた。
「行くぞ」
 頭上から降ってきた声に男を見上げながら、繋いだ手をきゅと握る。
 冷たい声をした男の手はあたたかかった。
「……はい」
 込み上げる震えを胸の奥へと押し込めながら白はゆっくりと前を向き、遥か遠くへと伸びゆく道を見た。

―――この道はどこへ繋がっているんだろう。
 そう考えて、白はすぐに考えることをやめてしまった。

 どこでもいい。
 このひとと一緒なら。

 どこにでも行く。
 このひとの行く場所になら。

 このひとのために。
 あなたのために。
 僕は……生きていける。

 僕を欲しがってくれた、たった一人のひとのために。


 あなたに僕を。
 ぜんぶ、あげる。


―――あげます。


 想いを秘めながら白はやわらかく男に笑んで。
 その場所から一歩を踏み出した。


 独りだった男と、独りだった子供が。
 ふたりとなって歩き出す。

 それが、長い旅の始まりだった。





 ざわざわざわざわ。
 街の動いている音が、その場所を通り過ぎていく。

 一刻前と変わらぬ風景。
 違うのはただひとつ。
 道の上から、ちいさな黒い影が消えていることだけだった。 





 Beginning Again.
 あの始まりをもう一度。





                                             ― 了―