春うららかな日に我想う

  










 文机の上に広げた巻物に数行を書き付けては、伺うように背後へチラリと目をやって、また手元へと視線を戻す。
 エビスは執務机に向かって書き物をしながら、落ち着かない気分を味わっていた。
―――ちっ。
 この男がやって来るといつもこうだ。苛々とそう思う。
 それでも平静を装いながら筆を進めようとした途端、一文字目を書き損じた。おまけとばかりに黒々とした墨汁が紙の上にぼたりと垂れ落ちる。
「…………」
 エビスは苦虫を噛み潰したような顔をしながら鼻の上の黒眼鏡をぐいと押し上げ、薄紙をペリリと引き剥がした。
 けれど無用となったしまったそれを手の中で丸めながら、無意識のうちにも音を立てないようにしている自分にふと気付いてしまって。
「――――――」
 沈黙を深くしたエビスの眉間に、更なる縦皺が寄った。
 しょせん薄紙を握り潰す程度のかすかな音、寝ている人間の耳に聴こえはしまい―――そう思い込むことも出来ないだけの経歴と能力を持つ男がたとえ目を覚ましてしまってここを立ち去ったところで構わないことなのに。
「……ちっ」
 エビスはもう一度、口の中で低く舌打ちをした。
 仕事に集中しようと思っても、背後の長椅子に長々と寝そべって惰眠を貪っている男のことが気にかかって集中できない。

―――『心地いい春の昼下がり』なんて大嫌いだ。

 昼過ぎにふらりとやって来て部屋の戸口に現れた男が口にした科白を思い出して、エビスは胸の中でそう呟いた。
 やわらかな春の陽射しが降り注いでいるこの部屋が、その男にとってどんなに寝心地よかろうがなかろうが、ここは決して昼寝場所などではないというのに。
 エビスは難しい顔をしながら書棚に手を伸ばし、薄紙を一枚、新たに手元へと引き寄せる。
 余計な事を気にするぐらいなら、その元凶を自分で叩き起こして部屋から追い出してしまった方がまだましだ。
 きっぱりそう心を決めると、今度は適量に墨を含ませた筆を取り上げながら一つ大きく深呼吸をした。
「―――おい、そこの熊」
 敷いた薄紙の上、手にした筆をぎゅっと指に硬く握りしめながら、エビスは背後を振り向かぬままで声を投げる。
「………………あ?」
 ややあって寝ぼけたような声が返って来た。
「どこだ……ここ」
 起き抜けのアスマがぼんやりした声でそう言った途端、バキッという破砕音が部屋の中に大きく響いた。
 エビスの手の中でまっぷたつに筆が折れた音である。
 その顔色に変わりはなかったが、折れた筆を手にしたまま白くなるまで握りしめられている拳がぶるりと震えた。
「…………ああ……そうか」
 目覚めたばかりのぼやけた顔をさらしているアスマは、ぼりぼりと顎の下を掻きながら周囲を見回して、ようやく自分の居る場所に気付いたようだった。
「……そういやお前、いま誰か呼んでなかったか?」
 おまけに、この部屋には二人しか居ないというのに、アスマはエビスにそう尋ねたのだった。
 どうやら完全に熟睡しきっていたらしい。
 わずかの音でも目を覚ますかも知れないなどという考えは、全くもっての杞憂であったに違いない。
 だとすれば、意味のないことを懸念し続けていた自分は何だったというのか。
 そう思ってエビスは一人でまた腹を立てる。
「そこに居られると目障りだ。どこかよそに行って寝ろ」
 はっきりとした声でアスマにそう言い渡した。
 よし、声は揺れていない。上出来だ。
 満更でもないエビスの心境をよそに、しかしアスマは。
「邪魔してねぇだろ。お前は仕事してて構わねぇぜ」
 俺はここでおとなしく昼寝してるだけだからよ。
 相手の冷たい口ぶりを欠片も気にしていない、のんびりとした口調でそう言ったのだった。
「…………」
 それを聞いたエビスの眉間がぎゅっと寄る。
 声の指向性がこっちを向いてない。相手に背中を向けたままであろうともエビスにはそのぐらい分かる。
 男はきっと、窓の外の桜でも悠々眺めているのだろう。
 エビスの胸の中が、ざわりとささくれ立った。
「目障りなんだ」
 振り返らぬままの背中が頑なに繰り返す。
「ここは私の部屋だ。出て行ってくれないか、猿飛上忍」
 いつも通りのよそよそしい呼び方でエビスが言った。
 そう、困る。
 この男が近くに居ると、どうすればいいのか―――自分がどうしたいのかが分からなくなるのだ。
 いや、分かるから困るのかも知れない。
「ふん……つれねえなぁ」
 恨むではない声で言いながらも、のそりと身を起こした男の気配に、エビスは詰めていた息を静かに吐き出す。
―――これでようやく落ち着いて仕事が出来る。
 そう思いながら胸を撫で下ろし、止めていた筆を動かそうとしたエビスの手が再び止まった。
 出て行くのかと思いきや、長椅子の上に身を起こしたアスマは躰の向きを変えただけで、またごろりと寝転がってしまったのだった。
「………………」
 エビスが無言のまま押し黙る
「邪魔しねぇって、言ったろ」
 黙ってしまったエビスの背に目を向けることもしないままで読み取ったかのように、アスマはそう言った。
 口調に冷たさを込めるではなく媚びるでもなく不機嫌を滲ませるでもなく。男は、そのぐらい構わねぇだろうと、ただそう言った。
「――――――」
 あきらめたように大きく息を吐いたエビスが立ち上がる。
 扉続きになっている隣の部屋へと姿を消したが、やがて戻ってきたその片手には小さな紫紺の巾着袋があった。
「―――薬だ」
 寝転がっている男に歩み寄ると頭の脇にぽんと放る。
「そのうちまた来るだろうと思って手の空いてる時に作っておいた。……そろそろ足りない筈だ」
 早口でそう言うエビスは怒っているような口調だった。
「おう、ありがとよ」
 薄目を目を開けたアスマが物を認めて礼を言う。
「…………」
 自分の調合した薬を素直に受け取る男の顔を、複雑そうな表情でエビスは見つめた。
 アスマが暗部に所属していたかつての頃、敵方に捕らえられ拷問にかけられて、全身の神経繊維をズタズタにされた事があるのを知る者はそう多くない。
 半死半生の状態で里に搬送され、医療班の治療により神経は大方繋ぎ直されて、数多の傷も動体能力に全く影響ないまでに完治したものの、アスマの体内における感覚機能は何カ所もが破壊されたまま―――未だ感覚が戻らない。
 否。二度と戻ることのない箇所もあるのだとエビスは知っていた。薬などほんの気休めにしか過ぎないことも。
 何故なら里に戻った時、アスマの感覚中枢を司る脳の一部もまたすでに損傷を受けていたからだ。
 破壊された脳細胞は二度と復活しない。であれば、神経が繋がったところでどう手の打ちようもない話だった。
 このことを知るのは、アスマと同時期に暗部に所属していた者の一部と、親しい付きあいのある者少数名、それから―――内々に火影から要請されて薬を調合している、医者の真似事が出来るエビスぐらいのものだった。

「猿飛上忍」
 意識して押さえたような声でアスマに呼びかける。
「……渡した薬はちゃんと飲んでいるのか?」
 薬が効いてないのではなく―――面倒臭がりなお前のことだから飲んでないのではないかのと。そう言いたげな口調で苛々とエビスが尋ねる。
 永劫に直ることが無いのだとは思いたくなくて。
「飲んでるさ」
 当たり前だろと屈託のない笑顔を向けてくるアスマを見ていられなくなって、エビスはふいと視線を逸らした。
 男のその笑いが、顔の筋肉を笑いの形に見えるようにと、秘かに練習した成果なのだと思うと遣りきれない。
 アスマを初めて目にしたのはくだんの一件の時だった。
 エビスが詰めていた医療班に急送されてきたアスマはまだその時意識はあったものの、身にまとう暗部服はむろん、その下の肌に張り付くような黒の胴衣の奥までもを白刃に切り裂かれ、固まらぬ血がとめどなく後から吹き出してくるという惨状で、一体どこまでが傷なのか肌なのかが分からぬほど、全身が朱に染まっていた。
 こびり付いて固まった血に服を脱がせられず、鎖帷子ごと黒い布地を切り取られながらアスマは気を失った。
 その若々しく逞しい体躯のそこかしこに、真っ赤な鮮血が冬椿のように紅く散り咲いていて―――。 
 無惨ながらも総毛立つように美しかった光景を思い出し、感情を堪えるようにぎゅっと固く拳を握り締めていると。
「……エビス?」
 話は終わったものとして再び寝そべっていたアスマが、押し黙ったままの相手に気付いて寝返りを打った。
 長椅子に片肘をついて、わずかに身を起こす。
「何か怒っているのか?」
 薬は飲んでいると言ったのに何故不機嫌そうに黙ったままなのかと惑うような声で言いながらエビスを見上げた。
「…………ッ」
 その視線にふらりと引き寄せられてアスマの頬に手を伸ばしてしまいそうになったエビスが、とっさの衝動を抑えようとして拳をぐっと強く握りしめる。
 穏やかな風貌に悠然たる表情を浮かべ、常に自信ありげな男がほんの時たまに見せる、こういう顔を目にするたびに―――エビスはいつも、自分の中に込み上げてくる激情にも似たこの衝動をどうしていいか分からなくなるのだった。
 沈黙して―――否、声を発せずにいるエビスの頬が赤い。
 意識すればするほどに、全身がカッと熱くなっていく。
「…………ぅ」
 エビスの喉が低く鳴った。躰中の血が波打っている。
 怠惰なこの男が、たかが寝返りを打ったぐらいで。
 惑うような視線をエビスへと流しただけで。
 それが艶として目に映るなど、あまつさえ色を持って誘っているように見えるなど、目がおかしいのかと自分を冷笑してさっさと終わらせたくなるような思いと羞恥心とを敢えて押し殺し、エビスは真正面から己の欲と向き合った。
 欲。それは目の前に居る男へと向かう情欲だった。
「……アスマ」
 掠れた声でエビスは猿飛上忍とではなくそう呼んだ。
 自分から口にすることは未だ慣れていなかった。
 けれど、言わなければ伝わらないこともあるのだとエビスに教えたのはアスマ本人だった。
 口で言え。言葉にしろ。欲しい時には欲しいと言えと。
 顔見ただけで分かるか馬鹿とまで暴言を吐かれたこともかつてはあったが、言葉にしろと繰り返し促される度に少しずつではあったがエビスは自分の欲するものを―――欲することをアスマに伝えられるようになっていた。
「アスマ。…………欲しい」
 稚拙だが正直な言葉で自分の望みを声で伝えた。
 お前を抱きたいと―――そうまではっきりとは口にできずにエビスが唇を引き結ぶ。
 けれど。
「―――いいぜ」
 ふ、と笑って及第点を渡しながらアスマはそう言った。
 この部屋を訪れるような時、エビスに求められてアスマが断ったことはかつて無い。
「抱けよ」
「…………ああ」
 浅く笑った男に応えてエビスは腕をそっと伸ばし。
 わずかに震える指先でアスマの躰に手を触れた。

「つぁッ、無理すんなエビス。まだ俺が……つらい」
「……ア………すまない」
 うめくような声をもらしたアスマに、ばつの悪い思いをしながらエビスが謝った。
 逸ろうとする自分の気持ちと躰とをせき止めようと努力しながら、長椅子の上に組み敷いている相手の躰の奥までを、時間をかけてゆっくりと開いていく。
「……アスマ。どうだ……?」
 やがてアスマの中に自分をすべて埋めこんだエビスが、抜き差しをくり返しながら伺うような声で尋ねかける。
「ん、ああ……もう大丈夫だ。俺のも勃ってるしな」
「アスマ、そうじゃない。あまり感じないのなら……」
「そんなことねぇよ。お前もだいぶ上手くな―――」
 笑いを含みながら言いかけたアスマの声が途中で切れる。
「……ぅ。あ……」
 その唇からかすか、あえぎにも似た声が洩れた。
「……アスマ?」
 探るように言いながら見つめた先でアスマの視線が揺れ、その指がこらえきれぬようにエビスの腕をぐいと掴む。
 その双眸にはほんのわずかではあるが、紛れもなく快感の色が覗いていて。
 目にしたエビスの身の裡がさらにカッと熱くなる。
「アスマ……アスマ」
 名を繰り返しながらエビス自身も呼吸を荒く乱して、何度も腰を突き上げた。
 組み敷く躰の奥までを深く穿つ。
「……ぅ、く……」
 アスマはエビスのものが躰の中を出入りするたび、浅く背をのけぞらせながら締めつけた。
「……ぁっ……はあ……ッ」
 あえぐのではなくとも、強く躰を突き上げられるたび、その口元からは浅く弾んだ息が洩れ出る。
「アスマ。……本当に感じてるのか?」
 答えを聞きたいわけではなさそうな声でエビスが尋ねる。
 ただでさえ感覚が遠いはずのアスマである。
 アスマと関係を持つ他の人間がどう抱いているのかは知らなかったし知りたくもなかったが、その面子を知るがゆえに、悔しさはあっても自信の持てよう筈はなかった。
 彼らに比べて拙い自分ではアスマを悦がらせることなど出来ないという思いこみがエビスに不安の言葉を吐かせる。
「……感じるさ。俺の中に……お前が居るのをな」
 視線を上げたアスマが自分を抱いている男を見上げた。
「……よせ、アスマ。言い方というものがあるだろう」
「もちろんケツに突っ込まれる度に分かる。―――イイぜ」
 聞かず、浅い息の下からアスマが言葉を続ける。
「…………お前はッ!どうしてそうッ!!」
 耳にした科白の下品さにエビスの頬がカッと燃えた。
「ふん?……言葉で言われるのに弱いのか」
 気付いたアスマの唇にたちのよくない笑みが浮かぶ。
 例えばの話だが、拷問する相手を責める場合には肉体に訴えるだけがその手段ではなく、むしろ精神的に追いつめた方が効果の顕れることもある。あとはその両方の組み合わせと応用だ。元暗部所属のアスマは、イビキほどではないにしても、そのいくつもを手中にしていた。
「弱くなんかない。よしてくれ、そういうのは嫌いだ」
 むっつりとした顔のエビスが不機嫌そうに言う。
 けれど否定する男の言葉以外の何をどう知ったのか。
「嘘つけ、そういうの好きだろうが。認めちまえよ」
 嫌だって言ってる割にはお前の―――硬くなってくぜ。
 にたりと笑いながらアスマが言った。
「俺ん中でドクドク言ってやがるじゃねぇか」
 ほら言ってるそばからデカくなったぜ。これは何だよ。
「……よせと言ってるだろうが……ッ!」
「今にもイッちまって……俺の中に出しちまいそうだな」
 たっぷりと白いのぶちまけてよ。
「いいぜ。―――出しても」
 そう言いながらエビスに視線を流したアスマが喉を反らせ、赤い舌を突きだしながらごくりと音を鳴らしてみせる。
「…………ッ!!」
 それを目にした瞬間、エビスの躰の中で何本もの血管がちぎれたような音がした。
 羞恥心も劣等感も何もかもが同時に吹っ飛んだ。
「ア、あ……ッ!アスマ、アスマ……!!」
 名を呼びながら、恋情を抱いている相手の躰の中へと、くり返し何度も腰を打ち付ける。
 アスマからの言葉と躰とに誘われるまま、想いのたけをその躰の奥に叩きつけ―――熱い飛沫とともに、どく、とアスマの中に射精した。