春うららかな日に我想う

  










「………………」
「だからそう怒るなって。悪かったよ。けど悦かったろ?」
 誠意なくそう謝る男の視線が、黙りこくるエビスへと向けられている。
「…………どうしてだ」
 意地を見せて貝になったように口を閉ざし、それまで全身で怒りを表明していたエビスの唇から声がこぼれた。
「んあ?何がだ」
シャツを引っかけただけのしどけない、というよりはただだらしないだけの格好で寝そべるアスマが聞き返す。
「私としている時……お前の眼が…………熱い」
 怒りを含んだようなエビスの口調だった。
 今のアスマの視線からはそんなものを感じないのに。
 時おりの情交の合間にこっちを見る、その眼の熱さに全身で囚われる。

 あの視線は―――アスマ、何ゆえだ。

「カカシが……アスマは抱……いや。寝てる時も躰だけが反応していて中身は付いていってないと言っていたのに」
「お前らなぁ。男二人でそんなこと話してるのか?」
「私が聞いたんじゃない。奴が勝手に喋って行ったんだ」
 男の呆れたような声を耳にして、自分が下世話な会話を交わしたことを暴露してしまったエビスが口早に弁解する。
「……ったくアイツを暇にしとくとロクなことしねぇな」
 ぶつぶつと口の中でぼやいたアスマは。
「何もお前が気にするこたねぇんだよ」
 どこか柔らかさのある穏やかな視線をエビスに向けた。
 人体の仕組みを知り尽くしているイビキや自分と同じく暗部出身のカカシ、女忍であることから男を楽しませる房術を叩き込まれている紅とは違い。確かにエビスの愛撫の仕方もその抱き方も、未だ拙くはあったが、アスマにとってはそれを補って有り余るものをこの男は持っていて。
「眼が熱い?そりゃ濡れてるってことか?まあ、俺だって感じちまうさ。あれだけ熱烈に何度も求められちゃあな」
 欲しい―――ってよ。
 アスマがにやにや笑いながらエビスの股間に目を向けた。
 ついさっきまで熱く硬く漲りならアスマの躰に埋め込まれていたものが、その服の下にはある。放っても勢いを失わないエビスのそれに、アスマは繰り返し喘がせられた。
「…………アスマ」
 本気の想いを揶揄されたのかとエビスの顔が固く強ばる。
「別にからかってる訳じゃねぇよ」
 アスマは笑い、違うと言いながらひらひら片手を振ると。
「……ホントなんだぜ、エビス」
 俺をそこまで本気で欲しがるヤツなんてお前ぐらいだ。
 低い声でそう言った。
「……………アスマ」
 何か言いたげなエビスがどこか切ない響きの声をもらす。
「うん?」
 名を呼ばれた男が、相手のその声になにがしかのものを覚えながら穏やかな視線で見返した。
「…………」
 名を呼んだきり後を続けない相手の顔を視線でたどる。
「―――そうだな」
 何がそうなのか、男はそれだけ言ってエビスを見ていた。 
 アスマ、と。
 礼儀正しく堅苦しいこの男が「猿飛上忍」ではなくて、自分のことを名でそう呼ぶのは、情交のさなかに我を忘れている時と、その前後だけだった。
 アスマ、アスマと。
 抱いてるのはそっちのくせして、すがるように繰り返し名前を呼ばれて。
 エビスに抱かれて深く躰を繋げていると、喪ってしまったはずの感覚がふっと甦ったような錯覚に捕らわれて。
 感じない筈の躰のどこかが熱くなるのだ。
『……アスマ……』
 より深く埋め込もうとしてアスマの上で動き続けるエビスの乱れた声が、自分の名を呼ぶのを耳にすると。
 忘れてしまった筈の感情がどこからか呼び起こされて、
 躰のどこかが切なくなるのだ。
「……何でそう俺にこだわるんだろうな、お前は」
―――お前らは、と。
 そう言うアスマの口元には、エビスには見慣れぬ笑みが浮かんでいた。
 やわらかな笑みを見せながら、アスマがふわりと笑う。
 エビスはその笑みから目を引き剥がせぬまま。
「それはだな。お前が今にもどこかへ消えそうだからだ」
 半ば意固地になって目を据わらせながら決め付けた。
「そうに決まっている」
 生真面目な表情に怒気を含ませてアスマを見つめる。
 これが口の悪いカカシであれば。
『アスマってば、オレ達が放っておいたら屍になって腐り果てて土に還っちゃいそうだからでしょ』
 と立て板に水でそのぐらい言って、あははははと屈託なく笑ったことであろう。
 けれどエビスにはただ睨み付けるしか出来なくて。
「……ふん。そういうもんかね」
 反論するでもなくそんなことを言いながらアスマがわずかに首を傾げているのさえ、小憎らしく眼に映っていた。
 エビスの視線の先で男がふと顔を上げる。
 視線が出会い、ゆるやかに絡まった。

「俺が消えたら―――――辛いか、エビス」
 アスマが静かに口を開く。

「……まさか…………暗部に戻るのか」
 知らぬうちにエビスの声は怯えを含んでいた。
 その部署にまとわりつく噂と、真実の更なる禍々しさと。
 目の前の男から喪われてしまうかも知れない、命というたった一つしか無いものに恐怖して。
「いや、そういうんじゃねぇけどよ」
「それなら……別命でも下ったのか」
 所属は正規部隊のままで、どこか―――二度と戻れぬような遠い任地に派遣されるのかと。
「だから違うって」
 言ってみただけだと、そう言ってアスマは静かに笑った。
 しかしそれは今現在の話であって、この先決して無いことなのだと言い切れる訳ではなかった。
 この男の。猿飛アスマという上忍の能力は、里の中だけに留め置くにはあまりに高すぎるのだ。 
 里外の世界に疎いエビスだとてそれぐらい知っている。
 高い能力は―――――高く売れる。

 だから。

 里を存続させるための財源の一つとして、人としてではなくただの優秀な忍として。
 この男はまたいつか、どこかへ。
 そして、どこかで。
 エビスの。自分の知らぬ場所で―――――その命を。


「………………」
 しばしの沈黙の後、エビスはふいと横を向いた。
「噛むな。唇の形が悪くなる」
 見咎めたアスマがどこかためらうような口調で言った。
 どう言えばいいのかと、そんな響きを含む声だった。
―――まただ……。
 またか、と。
「私の唇の形がどんなに悪くなろうがお前には一切関係ないことだろうがッ」
 やりきれない思いと怒りとを込めて、一息で叩きつけるようにしてエビスが言い放つ。
「まあそう怒るなって。俺はお前の唇……好きなんだよ。薄くて、冷たくて―――」
 熱い。
 そう言いながら延ばされかけた手はふと止まり、触れることはせずにアスマは視線だけでエビスの唇をじっと見つめて。
「だからよせ」
 な?
 そう言って唇だけで浅く笑った。
「…………お前は……ッ!どうしてそう…………!!」
 掠れたような声で叫んだきりエビスの言葉が続かない。
 怒りと惑乱と。こんな時になぜかまた再びこみ上げてきた欲望とに、エビスは自分の頬がうっすらと染まっていくのを感じて屈辱を覚えながらアスマから視線を外す。
「…………………」
 エビスは続く言葉を見つけられずに無言のまま、ぎゅっと強く拳を握りこんだ。
 いつもそうだった。
 この男は―――自分からは手を触れることなく、ただエビスを見つめるだけで。
 少しだけ困ったように向けられるその視線の奥には。
 赤や黒や灰色や、その他の色で既にもう汚れてしまっている自分が手を触れて、エビスまでもを汚してしまってはいけないと、そう思って躊躇しているようにも感じられて。
 躊躇。
 思ってしまってから、エビスはわずかに顔をしかめた。
―――まさか。
 それは……そう、この男には不似合いな態度だった。
 けれど何度探してみても頭の中にはそれしか浮かばない。
 ということはそう間違ってはいないのだ。
 エビスだとてアスマと同じ忍び。たとえランク下の特別上忍であったとしても、種々の訓練と鍛錬を積んでいる。
―――私の読みとったものが正しいのだ。
 読心の能力に秀でている訳ではなかったが、それぐらいのことは感じ取れた。
 ならば―――。
 アスマはエビスに触れることを躊躇しているのだ。
 自分でも知らぬうちにエビスは、きちんと短く切り揃えられた爪が手の平に食い込むほど拳を握り込んでいた。
 優しく見つめられているようでいて、けれどそれは、自分がアスマとは対等な立場に立っていないことの裏返しでもあって。そう告げられている気がしてならなくて。
 アスマがこれまでの人生で舐めてきた辛酸を自分が味わっていないのは。一つ歳下であるこの男が経験してきた修羅を、その身に受けた凄惨を、眼にした無惨な光景を。それをエビスが知らぬのは。
 決して自分のせいではないのだと知りつつも歯がゆくて。
「……………ッ」
 互いが積み重ねてきたものの。歩いて来た道のりの。
 そのあまりな差異に怒りさえもが込みあげてきて、エビスは声を失うしか出来なかった。

 自分の未来に輝かしい将来を約束されていることが。
 暗闇の中から暗闇の中へと葬り去られていく任務を知識でしか知らぬことが。
 自分の手で屠った相手の返り血と己の血とで全身を紅く染め抜いた事のないことが。
 どうしてこんなにも己の不甲斐無さのように思えてしまうのか。
 情けないまでに卑屈な思いに囚われてしまうのか。
 それこそが数多の修羅場を踏み、更には生き抜いてきた上忍と自分との違いなのだと、あからさまに線引きされているような気がして。
 ありありと突きつけられているようで。
 その差は永遠に埋まることはないのだと、無言のうちに言われているようで―――。

 けれどエビスは、目の前にいる男と同じ道のりを辿り来たかったわけではない。
 むしろそんなもの、と。
 人としてはむろん、忍びとしてであっても通らずに済む道なら避けて通りたいと、そう、誰もが思う筈だった。
 けれどそれが分かっていたとしても―――この歯がみしたくなるほどの思いの持って行き場を見つけられず、目の前にいるこの男に当り散らしたくなることが時々あった。
 けれどエビスのそんな思いや、憤りすらもアスマは難なく受け止めてしまうのだ。
 「まあ、そう怒るなよ」と穏やかな口調で。時にはのんびりとした笑顔すら見せながら。
 普段は冷静にすぎるエビスが時おりそうして怒りを見せると、いつもほんの少しだけ困ったような顔をしながらアスマはそう言う。
 そう言う男の態度、いやその男の存在こそが、エビスに自分がいかにちっぽけかと思い知らせるのだとは、おそらく露ほども思わずに、アスマはそう言うのだ。
―――無神経にすぎる。
 エビスはぎり、と唇を噛んだ。
 けれど、自分がそんな男を欲していることもエビスは知っていて。
「アスマ……冗談でも消えるなんて事は言ってくれるな」
 強ばった顔を崩せぬままで男に言った。
「ああ、そうだな。ここへ戻るさ」
 降参したかのようにふぅと息を吐いたアスマはエビスに視線を向けながら言った。
「……どこへ行ったとしても戻って来る」
 この里へ。

 お前が―――――お前達がいる限りな。

 そう言って笑う男の笑顔は、確かに自分の前へ在る筈なのに。
「アスマ……アスマ」
 胸裡に湧き上がる不安が、エビスの唇にまで込みあげる。
「ったくお前はしょうがねぇな。まぁた名前だけかよ?」
 自分より一つ年上のはずの男の表情が奇妙に歪むのを目にして、アスマが苦笑した。
「おいおいっ、泣く気かよ。勘弁してくれ、お前男だろ?」
 エリート教師がそんなザマ、さらしていいのかよ。
 口ではそう言いながらアスマの視線は変わらず穏やかにエビスを見ていて。
「そういうのは関係ないッ!………関係ないんだ、アスマ」
 一瞬だけ激したエビスの声がすぐに力を失った。
 分からないのか。
「…………分からないんだろうな」
 胸にわずかな痛みを覚えながらエビスは言って、アスマを強く―――強く見つめる。
「ん……独りで何をぶつぶつ言ってる?」
 意味の取れぬことを呟くエビスに、不審そうな表情を浮かべながらアスマが言った。
「その通り。独り言だ、気にするな」
 ちいさく笑ったエビスのその顔に。
 アスマは胸の奥のどこかを、とん、と叩かれたような気がして、自分が何に反応したのかとわずかに首をかしげる。
「ふん?」
 唇をひん曲げながら、ぼり、と顎下の髭をかいた。
「まあ、いいけどよ」
 面倒臭くなったアスマは考えることをやめてあっさりとそう言って終わらせる。
「なあエビス、機嫌直せや。……ちゃんと戻るからよ」
 そう言ったろ?
 自分よりも年上だとは思えぬほどに若い相手の顔を見つめながら、約束の言葉を口にした。

 待っていてくれる者がいる限り、必ず自分は。
 戻ってくる。ここへ、この場所へ。―――この里へ。

「普段はいい加減なこと言ってるあいつらもな……みんな、心の中じゃそう思ってんだよ」
 表情を歪めたままのエビスに仕方なくアスマは笑みを浮かべながら、言うつもりのなかったことを口にした。
 自分を待っている者が居るのだと、ギリギリの瀬戸際にはそれだけを最後の心の糧として。
 必ず生き延びて帰ってくる。
 たとえ生きて帰れぬことがあったとしても。その時は。
 何せアスマ本人の意思を無視してでも連れ帰ってやると宣言している人間もいることだ。
 どんな形であろうとも、たとえ魂魄だけの存在になったとしても。
 たとえ、待っている者に別れを告げるためだけであったとしても。
―――必ず……俺はここに還る。
 アスマの中でそれだけは確かなことだった。
 何故なら自分の還るべき場所はここにしか無いのだから。

―――それだけ分かってりゃあ……十分だ。

 そう思い落として、最後までを口にはせずに胸の内へと静かにしまう。
 アスマは窓の外へと目をやって、空を見上げた。
 うすく霞がかったような青空の下、春の陽気が部屋の中にあたたかく流れ込んでいる。
「……そろそろ午後の演習が始まるな……」
 太陽の仰角と高さから瞬時に時刻を読み取ったアスマは、よっこらせと長椅子から身を起こした。
 大きく息を吸い込みながらうーんと大きく伸びをして、緊張感無くあくびを洩らすと目尻に浮かんだ涙を拭った。

「ああ、そうだ。忘れるところだった」
 身繕いを終えて長椅子から立ち上がり、一歩を踏み出しかけたアスマの足が止まる。
「……飲んでねぇだろうって、お前にまた怒られる」
 からかうような声で言った男は振り返って身を屈めると、長椅子の片隅に放り出されていた丸薬の袋を取り上げて。
「これ、ありがとさんよ」
 目の高さに持ち上げてエビスに示しながら片目を瞑った。
「無くなったら面倒臭がらずに来るんだぞ。いいなアスマ」
「そうだな、また邪魔するぜ」
 いかめしい顔で言いつけるエビスに穏やかな笑みをチラと見せたかと思うとアスマは身軽い動きで長身を翻した。
「―――ああ、またな」
 一拍遅れてエビスが声を返す。
 その時にはもう、男の姿は半ば扉の向こうに消えていた。
「…………」
 立ち去っていく上忍の背中を無言で見送る。
 廊下を歩いているはずの男の足音は耳に聞こえなかった。
「―――余韻のない男だ」
 憎まれ口を叩きながら我知らず笑みを浮かべていたエビスが、部屋の中にゆっくりと視線を巡らせる。
 移り変わっていく季節ごとの美しい景色を切り取って観せてくれる窓辺へと目を向けた。

 時たまふらりと姿を現す男が、そこから見える里の景色を好んでいることは知っていた。
 アスマがたとえ、それを目にするためだけにこの部屋を訪れているのだとしても。
 時間と場所と―――おそらくはアスマに取ってかけがえのない風景のために。それを借り、それを目にする代価として自分に抱かれてくれるのでも構わない。

 また、と。
 そう言った気まぐれな男の来訪が果たして次はいつのことなのか。

 紫陽花が美しく色づく梅雨時か、蝉の声が聞こえ始める初夏なのか、それとも青空に入道雲が浮かぶ盛夏であるのか、もしくは―――――。
 そんなことは分からなかったけれど。

 あの男は必ずここへ戻ると言ったのだ。
 アスマはその怠惰なまでの無精さとは裏腹に、自分の口で言ったことは守る男だった。
 だから―――。

 ここへ戻って来てくれるのならば。

「―――次の約束など……無くてもいい」

 窓から見える景色をエビスは見つめ。
 想いを込めながら静かに呟いた。


 桜花咲き乱れ、窓辺から見える里の風景は見渡す限りの薄桃に彩られている。

 春爛漫。

 その言葉にふさわしい、春うららかなある日の昼下がりのことだった。




                                           ― 了 ―