The Bar −interval− |
「ちょっとぐらいいいじゃないですか」 「そうですよ。世の中の行事ですって」 「お返しなんて気持ちの問題ですよ」 何がそんなに嬉しいのか、うきうきとしながらジャンケンまでした末にカウンター席を勝ち取って陣取る事に成功した数人が、そうだそうだと肯定を頷きながら、目の前で立ち働く人物に言い募る。 「男同士で何薄気味悪りぃ事言ってんだ。世の中の行事?お返しだと?ハン、ふざけるな」 手首のスナップを利かせて宙に独特の弧を描き、カラカラと触れ合う氷の音も涼やかで見た目にもリズミカルな美しいシェークを終えた京一が、カウンターの中から鼻先で笑いながら酔客達を冷たくあしらった。 右手でシェーカーのストレーナーとボディを押さえて左手でトップを外し、流れるように滑らかな動作でグラスに酒を注ぐ。 仄かな光を映し込んで揺らぐ薄黄緑の液体から、スクイズされたフレッシュライムの艶やかな濃緑をしたピールが脳裏に浮かぶような。香り高い青さが微かに、ふわ、と立ちのぼった。 「俺にそんなもの期待するんじゃねぇ。それぐらいなら最初から寄越すな」 長い腕を伸ばして、出来上がった淡く透けるライム色のカクテルをオーダーした人間の前に置きながら京一はそう言うと、シェーカーをシンクへと移動させる。 カウンター内を照らすライトを受けたそれはキラリと輝いて、銀の残光が軌跡を描いた。 彼らの今の話題は、バレンタインのチョコレートに対する『お返し』についてである。 京一の眼には忌々しくにしか映らなかった、先月の十三日に押し付けられたチョコの山のうちいくつかは、翌日街中で偶然出会って部屋にやって来た啓介の腹の中に収まったが、そんな些細な事で減るような量でもなかった。 残ったチョコの始末を考えるのも煩わしくなった京一は、それの全てを、付き合いのある甘い物が好きな女達へ適当にバラまいて処分したのだが、さすがにそこまでは口にしない。 「でも………」 「………なあ?」 「だよな………」 控えめながらもメンバー達のそこかしこから、嵐のようなブーイングが湧き起こる。 この夜は、エンペラーの面々にはお馴染みのバーを、珍しくチームメンバーのみの貸し切りにして盛り上がっていた。 今夜はそれだけの人数を捌く人手もなく、ならば、と持ち込み自由にしてみたのだが、この連中はとうの昔にいい加減育ち盛りの時期を過ぎ去った筈だというのに、それでも足りなかったらしい。この店では軽い食事を作るのもカウンター内にいる人間の仕事のうちとして扱っているのをいいことに、京一へかなりの数の料理を注文した。 そして現在、それらの皿の上に乗っていたものは順調に彼らの腹の中へ収まっていき、既に殆ど空になりつつある。 折しも今日は三月十四日。 世の中ではホワイトデーと言われている日であった。 先月のバレンタインデーでは嫌がる京一へ無理無理チョコを押し付けるようにして渡し、各自の愛車―――ランエボに飛び乗り、蜘蛛の子を散らすが如く一目散に逃走していった連中のほぼ全員がここに雁首を並べている。 挙げ句、何か期待する様子があるのだが、菓子やプレゼントの遣り取りになぞは全く興味のない京一には、その風潮がどういう向きなのかがよく理解できていなかった。 おまけに。 どうしてもこの十四日にやりたい、と言うから、実質この店を切り盛りしているバーテンダーの雅史に店を占拠してもよいものかどうかを確認した所、その日には外せない用事があるので臨時休業の予定にしており、ついでに店で使っている他の人間にも休みを出してしまったという答えが返ってきた。 するとそれを聞いた連中は。 以前、今よりはずっと仕事が少なかった頃にはバイトがてら毎晩のように店でシェーカーを振っていた京一がいても駄目なのか、と粘ったのだった。 そして、そりゃあまあ大丈夫だろうが―――と言った途端に、何故か更に喜色を露にした面々の訴えにより、京一が代わりにカウンターに入って店を開ける事になってしまった。 それも貸し切りで。ということは。 その日、京一がエンペラーメンバー専属のバーテンダーとなるという事でもあった。 京一はこの夜、店で指定されている白と黒のシンプルな仕事着を身に纏っていた。 ウィングカラーで比翼仕立ての白いドレスシャツに黒のボウタイ、黒のカマーベストに同色のスラックス。 そして調理をも扱っている今は、ギャルソンエプロンにも似た黒の細く長い前掛けをピシリと腰に巻いている。 お前ら相手なら普段の格好のままでもいいだろうが、と言った京一に対して一斉に難色を示したメンバーらに呆れながらも、まあいいか、と久方振りに店のロッカーから自分用の物を引きずり出したのだった。 人より高い身丈と均整の取れた長い手足、厚みがあり引き締まった体躯の持ち主である京一にはこのお仕着せがよく映えて、この上なくしっくりと似合って様になり、誰しもが一瞬思わず目を奪われるほど堂に入った雰囲気を醸し出していた。 かつては毎晩のように着ていたそれだったが、今ではもうごくたまにしかカウンターへ入る機会がない所為で、チームの人間の中にはバーテンダー姿の京一を知らない者も多い。普段はざっくりとしたラフで動きやすく実用的な格好しかしない京一の、日頃とは全く違う艶姿とも言える出で立ちに皆―――秘かに―――大喜びしていた。 京一にしてみれば、非情に難解な男どもの心理ではあったのだが。 「じゃあ、何だ。俺から飴やら菓子やらを貰って嬉しいとでも言うのか、お前ら」 会話の合間にも京一は手を動かして、彩りも豊かな温野菜のサラダを作っていく。 茹であげられて鮮やかな緑を晒すブロッコリー、軽く火を通して香ばしい匂いを漂わせながらキツネ色に炒められた椎茸やエリンギ、赤や黄のパプリカに黄緑のズッキーニ、仕上げに温かいゴルゴンゾーラチーズのソースをトロリとかけて、艶やかな表皮を見せるブラックオリーブを添えると、盛り付け終えた皿をカウンターの上にトン、と置いた。 カウンターの端に座っていた人間に向かって手の甲を奥へと一振りし、運ぶようにと指示を出す。 それを受けて立ち上がったのは、清次だった。 何故か今夜は特に皆との会話に加わるでもなく酒にも殆ど口を付けずに、眼前で立ち働く京一へ時々チラと目を遣りながら黙々と煙草を吹かしてた清次だったが、無言のまま頷いて皿を手に取り、奥のボックス席へと向かう。 京一は最前受けたオーダー表を眺めて一通り作り終えた事を確認すると、手元近くに置いていた煙草のパッケージから一本を振り出して唇に銜え、ジッポでヂッと火を点けた。 客―――いかに気安い仲間内であるとは言え―――へ真っ向から煙が行かないようにとする長年の習い癖で無意識のうちに斜を向き、俯き加減の横顔を見せて佇む京一が旨そうに眼を眇めながら煙草を吸い込んで、ふぅ―――……ッと唇から紫煙を吐き出す。 カウンター内を照らすオレンジ色の仄かな光線が野性味を帯びた精悍な容貌に当たり、滑らかに削げた頬へくっきりとした鼻梁の陰を落としていた。 常であれば相手の奥底までを射抜くような鋭い鋼色の視線を放つ京一の、軽く伏せられている瞼の狭間から今は、深い静けさを湛えて灰水晶のような彩をした双眼が垣間覗く。 ゆっくりと漂う紫煙が、白と黒の鮮烈なコントラストにその身を包み、長い指先に煙草を挟んで燻らしている京一に緩く纏わりつきながら、ユラリと立ち昇った。 「…………」 眼前に陣取る連中だけではなくカウンター周辺にいる人間は皆一様に視線を京一に集中させたまま押し黙って、しん、と静まり返り、得も言われぬ沈黙が周囲を覆っていた。 中には口が半開きになっている者や、目が惚けたような虚ろに染まっている者もいる。 「おい。どうした」 その様子を訝しく思いながら京一が、最前放った自分の問いへの返事を催促する。 「え………」 「………それでも………いいよな」 「………おう」 「全然………OK」 夢から覚めたばかりのような、まだ半分夢うつつのような表情を浮かべながらの反応が返って来る。 ボックス席の方からも何やら、ボソボソと不気味極まりない囁きがあちこちの口々から漏れ聞こえて来た事に、京一は軽く眉をひそめた。 ―――こいつら何をボケた顔してやがる。 訝しみながらも、しかしそうまで言われたらこれはもう処理するしかない事柄なのかと判断した京一は、嫌がる自分の心情に見切りを付けてさっさと思考を切り換えた。 「しょうがねぇな」 ついさっき、店に入って来たのを眼の端に留めていた男へと振り返る。 暗がりの中で闇に紛れそうな色合いをしたダブルのスーツ姿。 丈高い長身に逞しい体躯。広い肩に分厚い胸。後ろに流して緩く固めたやや長めの髪。穏やかな柔らかさを浮かべながらも何処か油断のならぬ光を秘めたような双眸。皮肉な笑みがよく似合いそうな口元。京一よりはいくつも年上であろう落ち着いた風貌。 この店の専属バーテンダーである雅史だった。 思ったより早く用事が終わったのだろうか。彼は、状況によっては今夜帰れないかも知れないと言って京一にその間の留守を任せていった筈だったのだが。 「雅史。今日のこれ、ロハってワケにはいかねぇか?」 京一は、男連中が食い散らかした金額を考えるに無謀としか思えない内容を口にした。 しかし、尋ねる内容ではあったが、断られるとは思っていないような口振りでもある。 「京………お前、それ………自分が返すのとは何か違ってやしないか」 気配を殺すかのような静けさで先ほど店内に足を踏み入れて、照明の死角となる目立たぬその場所の壁へと背を預けて腕を組み、手酌で注いだ酒のグラスを時折口元に運びながら興味深そうに会話の成り行きを見守っていた雅史が、突然話の矛先を向けられた挙げ句の無理無体な注文に唖然とする。 「無理か」 そうだろうなとは思いながらも駄目で元々と口にしてみた京一が、それでも更に何かを言い掛けようとする前に。 「―――分かった」 雅史は諦めたようにふうッ、と一つ大きく息を吐き出すと、両手を広げて肩を竦めながら苦笑した。大抵の日本人がやると気障に映るしかないそんな大仰な動作が、嫌味なくらいに様になる男だった。 「………いいのか」 少々意外の念に駆られて、京一が確認する。 「ああ」 今度ははっきりと、雅史が答えた。 「だとさ。俺からお前らにって事で………これで譲歩しねぇか?」 『お返し』をねだる期待の光を満たし、信じてやまない数多の瞳を見回して、京一は面に微かな疲労感を滲ませながらチームメイト達に問い掛けた。 ねだる、とは強請る、と書き。 それはゆする、とも読むんだぞお前ら―――と内心で嘆息しながら。 中には京一から貰うキャンディの方がいい―――と思った者がいたかどうかは知らないが。 そう金がある訳でもない走り屋連中はそれを聞くや否やワアァッッと歓声を上げて、勢いその場が大きく湧いた。 「オラ、お前ら。明日の仕事が早いヤツもいるだろうが。そろそろ開くぞ」 続く騒ぎの中に、京一の放つ低く重みのある声が店内の奥まで響き渡る。 「あ、はいッ」 「―――っかりましたッ」 「ご馳走様です。京一さん」 耳慣れた檄の響きを持つチームリーダーからのオーダーに、メンバーらは口々に応を返しながら次々と帰り支度を始める。 京一に言われる前に、清次が気の利きそうな数人に声を掛けて、手際よく各テーブル上からグラスやら料理の乗っていた皿やらその他の物をカウンターへと運んで来る作業を始めさせた。 「京一。中も手伝わせたらどうだ?」 着々と運ばれて来る皿の数の多さに目を見張った清次が、京一にそう尋ねる。 「―――いや、ここはいい」 カウンターの周囲に積まれていくそれらに眼を遣りながら、京一は苦笑した。 荒っぽい事が大の得意なこの連中に、カウンター内での洗い物、グラスや食器の後片付けを任せた日にはどんな惨状になるのかと、そう考えただけで溜息のひとつも出ようというものだ。 自分でやった方が何倍も早くて、かつ安全であろう事は分かり切っていた。 「そうか」 京一の顔を見て大体の事情を察した清次も苦笑を返すと、自分もテーブルの片付けをする人手の中へと加わりに行った。 二人が会話をしていたその合間にも。 「どけよ。出られねぇだろ」 出口が込み合う前に、と周囲の人間を要領よく押し分けて素早く脱出を図る者。 「あ、待て。その皿置いてけ」 「なんだよ、まだ食うのかお前」 運ぼうとした皿へ素早く伸ばされた手に呆れたような声。 「もったいねぇだろ?」 「そこの煙草とライター、誰んだ。忘れるなよ」 どこの集団にでも必ず一人はいる、宴会場の跡に視線を走らせて目敏くチェックする者。 「あ、俺のだ。サーンキュ」 「俺の上着……っと、おっまえ!踏んでるじゃねぇかッ」 ごった返す店内の一画から唐突に沸き上がる怒声。 「あ、悪りィ。へへ」 「ってェッ!」 隅にある、褪せた臙脂色の天鵞絨カバーが掛かる古いアップライトのピアノに蹴躓く者。 「おいッ。壊すなよ、気を付けろ」 「お前がそこ立ってると邪魔だから早く出ろって!」 テーブル間の通路を塞ぐ人間を小突きながらの苛立たしげな声。 手狭と言う程ではないが、かと言ってそう広くもない店内に結構な大人数を詰め込んでいた所為で、引き上げるにも一騒動の有様である。それでも何のかんのと言い合いながら、大柄な男達は押し合いへし合いしつつ店の出口へと向かっていく。 「京一さん、お疲れ様です」 「お先に失礼しまーッす」 「お休みなさいッ、京一さん」 メンバーらは出しなに京一へ声を掛けて挨拶をしながら、大挙して店の外に姿を消し地上へと吐き出されていく。 「おう。またな」 カウンター内にいる京一はそれらに応えながら、殊勝に手伝いをしている者達が運んで来る皿の上の残骸やグシャグシャのペーパータオル、湿ったコースターや汚れた割り箸、握り潰された煙草の空き箱などを、片っ端から足元に置いた半透明の大きなゴミ袋の中に落とし込みつつ、その合間に、置き去られていく皿が無用な場所を取らないよう大まかに種類を整えながら素早く積み替えていく。 テーブルの上が大方綺麗に片付いて、それと反比例するように京一のいるシンク周辺やカウンター上へ数々の汚れた皿やカトラリーが山となって積み上がり、使用済みのグラスが所狭しと並べられる頃になると、手伝っていた人間も手の空いた者から三々五々と挨拶の言葉を残しつつ帰って行った。 |
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