The Bar −interval− |
店内に戻った京一は、残る洗い物を片付けようとカウンターの中に入った。 大量の汚れた皿を眺めて所要する大体の時間を弾き出しながら、指先でクイと引きボウタイを解いて首からぶら下げ、上半身にピッタリとフィットしているベストの前を開ける。 カッチリと首を締め付けていたドレスシャツの比翼の中へ指を突っ込んでボタンを二つ三つ外し、襟元をくつろげて息を吐く。 「こういう堅苦しい格好は性に合わねぇな………」 呟いた。 「―――にしてはしっくり来てるぜ」 コトン。 言葉と同時にひんやりとした音を立てて、眼の前のカウンターにロック・グラスが置かれた。 濃度のある琥珀色の液体が揺れている。 「まあ………長年馴染んで来た水だからな」 軽く言って京一はグラスに手を伸ばした。 「その歳で言う台詞じゃないぞ」 雅史が苦笑する。 「本当の事だ」 京一は何の気負いもなくあっさりと言いながら、グラスを口に運んだ。 「まあ、な」 「どこの世界に、まだロクに歩けもしないような自分のガキへ、オモチャ代わりに酒のグラス与える女親がいるんだよ」 言って、グラスの縁に唇を当てた京一が中身を一口呷る。 「………そうだったな」 今はもういない、鮮やかに華やかに人生を駆け抜けたひとを思い出しながら雅史は、僅かに仰向いて、ごく、と動いた京一の喉元に視線を吸い付かせた。 琥珀色が揺らぐグラスをカウンターに戻した京一は、少しばかり潰れてクシャリと歪んでいる煙草のパッケージを手に取ると、一本を降り出して唇に銜える。 ヂッ―――。 両手でジッポを囲い込んで石を擦り、炎を避けて顔を傾けながら、ボゥ、と火口を灯した。 客席側の照明は既に落とされており、こちら側も必要最低限の小さな照明のみを残した仄暗いカウンターの中で、ジッポの炎が一瞬、京一の彫りの深い鋭角的な顔の陰影を浮き上がらせる。 灼けたオイル独特の、焦げたようなツンとした臭いが周囲へと粒子を飛ばす。 その間に雅史が、気配を感じさせない滑らかな身のこなしで、すっ、と京一の背後に立っていた。 スーツの上着の裾が翻り、裏地の紫紺がチラリと覗く。 無言のまま後ろから両腕を回して、京一の腰をそっと抱いた。 チン。 硬質な音を響かせて銀色のシンクの上にジッポを置いた京一の動作に遅滞はなく、その表情にもまた何らの変化はなかった。 深く吸い込んだ煙草の煙をふぅ―――っと吐き出す。 二人の周囲を紫煙が。緩く巻いて漂う―――。 背後からの指がドレスシャツの比翼へ潜り、器用にプツとボタンを更にいくつか外した。 開かれた前立てからスルリ、と雅史の右手が滑り込んで来る。 はだけられて乱れた胸元から浅黒く灼けた肌が覗く。 好きにさせたまま京一は特に何の反応も見せずにただ、紫煙を燻らせていた。 胸の上をごくゆっくりと、その手が這い回る。 指の触れる箇所が、京一に微かな熱の蹟を残していく。 暖かい人肌に触れるのは触れられるのは、決して嫌いではなかった。 軽く眼を瞑って、その手の感触を追う。 節の張った長い指が、京一の鍛えられて分厚く隆起している胸の表面を柔らかく撫でながら動き回る。 僅かに力を込めた指の腹が胸筋の脇を辿り、肋骨に沿って蛇行しながら、ゆっくりとした動きで脇腹から引き締まった腹にかけてを緩く撫で降ろしていく。 そのまま続く下腹へ伸びようと潜り込んだ指は途中、腰回りを囲む衣服の妨害にあって名残惜しげに惑って彷徨い、肌の奥を深く探るように擦り上げるとス―――と通り抜けて行った。 張りのある滑らかな肌を伝いながら再び這いのぼって来た掌が円を描くように撫でながら、指先で片胸を弄ぶ。 中央の突起を摘んで幾たびか優しく転がしていた指が一転して、ぎゅ、と捻り上げた時。 ビク、と初めて京一の躰が小さな反応を見せた。 熱を持った指先が更にそこへ刺激を与え、愛撫を施していく。 背後から伸びる左腕は衣服の上から下腹部に降りて、ピシリと腰に巻かれている黒い前掛けの下に潜り込み、掌で撫でるようにして蠢きながら、生地越しに京一へ触れていた。 「………京」 耳元に落とされた熱い息遣いと共に、背後からぐいと腰を押し付けられた。 薄い布地を通して凶暴な熱を持つ塊が双丘の狭間に当たり、軽く突き上げられる。 京一が、ふっと瞼を開く事で現れた鋼色の双眸の奥から、淡く淡い別の彩が陽炎のように立ち昇って、揺らめいた。 ジワリ。 背を這い上がった微かな感覚に一瞬、京一の眉がぴく、と僅かに小さく跳ねて寄ったが。 「そこまでだ。雅史」 背後の男に静かな制止の声を掛けた。 ゆるゆると煽るように胸と腰を這い回っていた手の動きが、その場でぴたりと止まる。 代わりに首筋へ、熱を帯びた唇が降ろされて。 京一を抱く腕に力がぐ、と籠もり、男の腰が更に熱く密着した。 ややあって。 無言の腕と気配が、ゆっくりと離れていった。 「寝るってもな。お前と寝るのは構わねぇが、俺が抱くんじゃ嫌なんだろ?」 強い視線で見据えて来る雅史へ、京一が口の端を吊り上げて片頬を歪めながら聞いた。 「当たり前だ。馬鹿」 雅史が酸っぱいものでも食べたような表情を見せた。 「なら、しかたねぇよ。残念だったな」 京一は苦笑したまま、手馴れた仕草でその顎を捕らえる。 相手の目線が、きもち自分より上にある事へ非常な違和感を覚えながらも僅かに仰向いて顔を傾けると、雅史の唇に自分のそれを軽く合わせた。 柔らかく唇を吸って舌を忍び込ませる。舌を絡め合い、角度を変えて深く口吻け合う。 再度強く腰を引かれ、雅史の腕の中に抱き寄せられて背を抱かれ、今度は前から腰をぐっと押し付けられた。 唇を甘く噛まれて激しく貪られて。唇を大きく開いて男の舌を奥深くへ受け入れる。 僅かな隙間から時折零れるのは、濡れた粘膜が放つ高い音、喉の鳴る低くくぐもった音。 籠もる吐息と熱い息遣いがどちらからともなく漏れる。 舌を蠢かしながら這わせて互いの中を探り合い、巻き付いてきたそれに緩く擦られて、ゆっくりと舌裏を舐め上げられた。 闇を纏うシンとしたバーの空間に、濡れて湿った淫猥な音が響き、壁を這いのぼる。 暗黒色のスーツと漆黒のバーテンダー服に包まれた身体が一つに重なって溶け合い、黒い影となって絡み合う中で唯一、長い腕がゆっくりと蠢いてドレスシャツの純白が閃く。 男の頭を抱いた。 「………ふ」 漏れた声音に、淫蕩な雰囲気を漂わせる空気が更に密度を増して、ねっとりと濃くなる。 互いの舌をうねらせて、シガーとバーボンの残り香を奪い合うようにして共有し、食らい尽くすようにして味わい合う。 漏れ出る吐息までをも貪るかのようにして、きつく舌を吸われた。 口腔を舐め合ううちに溢れそうになる蜜を、舌を絡めながら交換するように飲み下す。 京一の唇の端から一筋の透明な滴がツ―――、と零れて顎に伝う。 やがてゆるりと離れた口唇の間から、銀の糸が細く緒を引いた。 「………京」 唾液に濡れた京一の唇を親指の腹でスイとなぞり、更にもう片方の手を伸ばしてこようとする相手の腕を跳ね除けて、トン、と胸を突いて押しやる。 「もう、終いだ」 先ほどまでとは別人のように手の平を返した態度で、京一が素っ気無く言った。 だがさすがにその眦には、濃厚な口吻けを終えて微かな色が見える。 「分かった分かった」 京一のその眼許にゾクリとして、つい、指で触れてなぞり上げてしまいたくなる衝動を何とか押さえ込みながら雅史が、両手を挙げて降参を示す。 「………しかしどうしたんだ今日は。やけに………」 拒絶しなかったなと言うべきか、素直だったなと言うべきか、それとも。 雅史を一顧だにしない常とは違って、何らの拒絶も見せぬままその腕の中に抱き取られ、積極的とさえ言える程に応えながら自分の口吻けを受けた京一へ、機嫌を損ねずには何と言ったらいいものかを迷っている間に。 「お前も寄越したろ。貰った酒の礼だ」 手の甲でぐい、と唇を拭って、既にして何事もなかったかのような顔に戻ってそう言うと、京一はシンクに向き直って蛇口を捻り手早く洗い物を始める。 「…………」 何の事だ、と雅史は眉をひそめて考え込んだ。 確かに自分は京一に酒をやった。先月、妹の華音が京一に会いに行くと言った時、ついでに、京一が時折好んで嗜む酒が先日の仕入れで店に入ったので一本、持たせた記憶がある。 そういえば確か、あれは二月の十四日だったような気もする。 と言うことは。 もしや。 さっきのは自分に対する京一なりの『お返し』のつもりだったのか。 だが雅史が京一に酒を渡すのは、そう珍しい事と言う訳でもない。 それに、しかしチームメンバーの面々には酒や料理を振舞うに過ぎなかったが―――。 ふん? そういや、さっき清次が出て行った後にゴミ捨てに行ったがそれだけにしちゃあヤケに時間が掛かっていたっけな………。 何をしていた? どうせ半ば推測できるそれであろうと苦笑した雅史は更にふと、思い当たる。 まさかお前。 受け取った品の、大体の金額に比例して返そうとしていたりなぞ―――。 ―――京。 「…………」 雅史の沈黙がより一層、深くなる。 どうやら、返すとなったらあの時京一へ何かを渡した誰にでも分け隔てなく返す姿勢に徹する事を決めたらしい割り切りのよさと、潔くも残酷な精神構造の持ち主の後姿を、雅史は複雑な思いで凝っと見つめた。 暫くすると。 「上の連中追い出したぞ、京一。後片付け終わったらそろそろ帰ろうぜ」 清次が戻ってきた。 「泊まって行かないのか」 雅史のその目は、そうしろと言っていたが。 「お前が帰って来たんなら必要ないだろ?家に帰るさ」 京一が休み無く手を動かしながらあっさりと言った。始末すべき洗い物は、既にあと残り僅かとなっている。 「じゃあ、クルマあっためて待ってるからな。着替えたら早く来いよ、京一」 言いながら清次は、どことなく勝ち誇ったような表情で雅史の方を見る。 男がゆっくりと、清次の方へ顔を向けた。 そこに何を見たのか。 向けられたその視線を受けた清次が、目に見えてビクリと怯む。 「ああ。分かった」 京一が応えるのを聞くと、雅史を一睨みしてから勢い良くドアを開けて店を出て行った。 「躾の行き届いた可愛い飼い犬だな………」 クスリと笑いながらの揶揄するような、男の口調だった。 そこに微か、酷薄そうな響きが混じっていたのは気の所為か。 「可愛い?どこがだ。気色悪りぃ言い方をするんじゃねぇよ」 大方を片付け終えたらしい京一は手を拭いながら顔を上げると、その他は否定しないままでそこだけについて、忌憚のない感想を述べた。 「今日は折角の宴会だったってのに、入ってやれなくて悪かったな、京」 常と同じくラフな姿に戻って奥から出て来た京一へ、カウンター内で無言のまま紫煙を燻らせていた雅史が、いつも通りの静かな声と穏やかな態度でねぎらいの言葉を掛けた。 「構わねぇよ。俺が自分でここの面倒見てる訳じゃねぇが。一応は―――」 店の出口に向かいながら京一が肩越しに振り返る。 「―――俺の店だ」 珍しくも苦笑ではなく、ふ………と薄い笑みを唇に滲ませながら言って重厚な黒い扉を開けると。 母親の唯一つの形見としてこのバーと地上階の喫茶店を受け継いでから久しいオーナーは、繁華街へ満ちる光の奔流が渦巻く地上へ続く階段にと足を踏み出して。鮮やかな残像を雅史の瞼裏に灼き付けながらその姿を消した。 バタン。 ドアの閉まる音と共にバーの中が再び仄暗い薄闇に包まれる。 カウンター内をごく微かに照らすオレンジのライトの下、穏やかな表情を浮かべていた雅史の顔から一切の感情が拭われたようにして消え失せた。 代わりにその下から、見た者の肝が冷えるようなひんやりとした無表情が現れる。 潜めていた昏い影を露わにする双眸の奥へ生まれた、鋭い光点。 胸底に押し込めていた深い息を煙と共にゆっくり肺から吐き出すと、まだ長さの残る煙草を灰皿にギュッと押し付けた。 最後に一筋、スゥ―――ッと紫煙が仄闇に立ち昇る。 そう力を入れている様子にも見えないのに肉厚のクリスタルの灰皿の中でグシャリとへし折れた吸殻は、いともたやすくバラバラに捻り潰されて細かな茶色の葉を散らす。 京一の残していったグラスを掴み、ぐい、と呷って一気に喉の奥へと流し込んだ。 タン―――。 カウンターに戻した手の中でグラスを、ミシリ、と強く握り締める。 シガーとバーボン。 京一の唇の味がした。 自分の唇を熱く灼いて通り過ぎて行った酒の残滓を、口腔内でゆっくりと含んで味わう。 煙草の味が残る舌を刺したそれが躰の芯をゾクリと痺れさせて、肌がザワ―――と粟立つ。 周囲に淡く漂う京一の残り香が、蕩かすようにやわりと雅史を包み込んで、蠢いた。 「………ウ」 瞼が強い瞬きを繰り返す。 惑乱されるような蠱惑の幻覚が、極彩色で脳裏に乱舞して―――。 くら、と目眩を誘われて頭を振った。 後ろに流して整えられていた前髪が一筋乱れて、パラリと額に垂れかかる。 パリ―――ンンン………。 硬質で澄んだ音と共に、握った拳の中で堅いグラスが砕け散った。 見る間に朱く赤い染みが、突き破られた皮膚の合間からジワジワと滲み出す。 ポタリ。ポタリ。 飴色に磨かれたカウンターの美しい木目の上に、毒々しくも鮮やかな深紅の雫が滴る。 それには目もくれずに。 「………生殺しだぜ………京」 呻くような声で。苦く、呟いた。 ―了― |
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