The Bar -interval-


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 先ほどまで空間に満ち溢れていた喧噪が去ると、籠もっていた熱気の気配を未だ残しつつも、ようやくの事で店の中がシンと静まり返る。
 我が物顔で場を占拠していた大量の男達がいなくなり、京一と清次、それに雅史の三人だけとなった店内は、そう広いスペースではない筈なのに、彼らの目には随分とまたガランとしたような光景に映った。
「手伝おうか」
 各所に置かれていた灰皿を集めてカウンターに運んで来た雅史が、京一に声を掛ける。
「いや、いい。俺がやるさ。今夜はただでさえ店を荒らしたしな」
 言下に京一が、雅史の申し出をあっさりと断った。
「―――さすがに凄い騒ぎだったな」
 僅か何処か。感じた一抹の寂寞にチリと毛羽立つ己の心の有り様を笑う雅史が、それを何気ない苦笑に紛らわせながら思い返すような口調で言う。
「ホントによかったのか。済まねぇな」
 連中の飲み代の事である。
 自分で言い出しておきながらも多少の罪悪感は湧いたのか、京一が今更な事を口にした。
「まあ、いいさ。お前の頼みならオヤジも嫌とは言わないだろう」
 種々様々、手広く取り扱っている事業の一環としてこの店の経営をも担っている男の息子が、軽く肩を竦める。続けて。
「帳簿が上手く合うのかどうかは―――何とかしよう」
 そう言った雅史は、微かに低く笑った。


「京一、どうする。今日はこのままここにいるのか?」
 二人の会話が一段落するのを見計らっていたらしい清次が、何とはなしに落ち着かない風情で京一へチラチラと目を遣りながら尋ねる。
 京一は確か、今夜はこの奥にある居住スペースに泊まっていくと言っていた筈であった。
「―――そうだな。片付けるもの片付けたら俺も帰るか」
 雅史の方へ眼を向けるともなしに向けながら、京一が呟いた。
 その視線の先では、空になったグラスへ新しく酒を注ごうというのか、それを片手にした男が、京一の立つ場所とは反対側のカウンター端にある跳ね板を上げて中へと入り、壁際に据え付けられている内側に鏡を張った酒棚をゆっくりと眺めている。
 京一は、自分は店を開けるついでの留守居を頼まれたのだから、雅史が帰って来たのなら今夜はもうここにいる必要もないだろうと判断していた。
「時間も大分遅いな。おい清次、上の連中まだいるのか」
 壁に掛かる時計に眼を走らせた見た京一が、足元に置いていた業務用の大きなゴミ袋の口を閉じようと背を屈み込ませながら尋ねる。
 あの大人数にこのバーのスペースだけではさすがに少々手狭で息苦しいかと危惧した京一は、地上階にある喫茶店を今夜、店の人間は置かぬまでもチームメンバーらに解放して休憩所がてらとして使えるよう手配してあった。
 宴会の合間に時たま、何名かが上へ下へと移動しているのを眼にした記憶がある。
「さっきはまだ、ぼちぼち残ってたな」
 清次は思い出そうとするような顔付きで天井に目を遣りながら、カウンター下に屈み込んでいる所為でこちら側からは姿の見えない京一に向かってそう答えた。
「なら、そいつらも上がらせて来い。その間に俺はここの片付けをしておく」
 周囲に積み上がった皿の山、グラスの大群を見上げながら京一が言った。
 今夜のこれは課された仕事という訳ではなかったが、どんなに数が多かろうとも店の片付けや洗い物はかつてよりの慣れた作業であり、特にうんざりするような事でもない。
 今の自分に要求されている、ただこなすべき事柄として眼前に広がっているだけである。
「おう、分かった」
 京一の言葉に清次は軽く請け合うと、身を翻して店を出て行く。
「あ。待て清次―――」
―――バタン。
 袋の口を縛り終えて立ち上がった京一は、これをヤツに持っていかせればいいじゃねぇかと気付いて呼び止めようとしたのだが、少々遅かったらしい。
 ゴミの集積所は店の外、階段を上りきって程近い場所にあるのだが、清次へ声が届く寸前に黒い重厚な扉は無情にも音を立てて閉まり、京一の声は遮られた。
「しょうがねぇな。先にゴミ出しに行って来る」
「ああ」
 一声掛けた京一に、雅史は背中で答える。
 左手に大きなゴミ袋を掴んだ京一は、清次の後を追う形で店の扉を押し開けた。
「あ?どうした、京一」
 階段の中程を上っていた清次が、店の外に出た京一の気配に気付いて振り返った。
「ゴミ出すんだよ。そういやお前、今日何かあったのか。いやに無口だったじゃねぇか」
 そう言っている間にも身軽く階段を上った京一が、清次のいる場所に到達する。
 仲間内で楽しむ宴会時の大概において、メンバーらに率先して大騒ぎを繰り広げるのが常である清次の今夜の態度に些かの不審を覚えていた京一が、思い出したような口調で問い質した。
「い……いや」
 唐突に問われた清次は、思わず狼狽えたようにウロウロと視線を彷徨わせ、空咳をして自分を落ち着かせようとしながらも、焦ったような風情で小刻みに躰を揺する。
「何だ」
 唐突に妙な素振りを見せ始めた清次のその様子を眼にして、京一が僅かに片眉を上げた。
「な、なんでもねぇって」
 清次は顔の前でわたわたと両手を振りかざしてそう言いながらも、決して京一と目線を合わせようとはしない。
「うっとうしいヤツだな。―――言え」
 はっきりしない清次の態度に微かな苛立ちを見せた京一にずいと一歩詰め寄られて、思わず後ずさった清次は、当然の事ながら、階段の両脇にそびえているザラザラとして冷たいコンクリートの壁にドンとぶつかって瞬く間に逃げ場を失った。
「ち、近付くんじゃねェって」
 そのまま背中で石壁に張り付きながら、必死に逃れる道を求めるかのように清次は両手でジリジリと、灰色に薄汚れている左右の壁を探る。
「―――何だと」
 京一が、瞬時にして物騒な響きを帯びた低い声を洩らす。
「違うッ!いや、その………俺は……ッ」
 何をか誤解されてはたまらないとばかりに、清次が慌てて弁明しようと口を開く。
「――― 」
 その先をさっさと言え―――と掛かる無言の圧力が清次に向かって放たれる。
「………俺はッ………お前のそのカッコが見慣れないだけだッッ!」
 蛇に睨まれた蛙よろしく、清次が観念したような半ばヤケクソのような声を張り上げた。
「これ、か?お前は初めてだったか…見慣れないったって―――どこか変か」
―――特段どうという事もない格好だろうが。
 何事もなかったかのように獰猛な気配をスッと潜めて消し去り、怪訝そうな口調でそう言った京一は確認するような眼付きで自分の姿を見おろす。
「………ふぅ」
 相手が下を向いた隙に小さく一息ついたものの、思わずその視線の先を追った清次は惹き寄せられるようにしてつい、自分も京一へチラと目を遣ってしまい―――。
 思わずヒュ……ッと音を立てて息を飲み込む。


 周囲の昏い闇に溶け込むような漆黒と、夜目にも鮮やかさを見せる純白とに包まれた躰。
 僅かのゆとりを残してフィットする仕立て良いそれらがこの上なく映える、逞しい長身。
 俯いている精悍な横顔。滑らかに削げた頬。深い影を落とす眼窩。強い意志を示す顎。
 引き結ばれている薄い唇。光に透ける晒けた色の短い髪、左耳朶を飾る微かな鈍い銀光。
 ストイックな色彩と引き締まったラインとを身に纏う京一の姿が、清次の眼前で。
 階段上に広がる繁華街から射し込む綺羅な彩を放つネオンの―――煌めく夜の光を受けてボウと仄明るく浮き上がっていた。
 ドク……ッ。ドク……ン―――……。
 宴会中の店内でも眼前に、すぐ間近にあった見慣れぬバーテンダー姿の京一をまじまじと直視する度にそうであったように、今またしてもその姿を目にする事で、ハッとするような新鮮な想いが沸き上がると同時に自分の動悸がドキドキと速くなり、心の臓が暴れ出しそうな気配を感じた清次が慌てて目を引き剥がし、視線を逸らそうとした時。
 折悪しくも京一が顔を上げた。
―――う……ッ。
 切れ上がった眦。微かな青味を帯びる眼の際。真っ直ぐに清次を射抜く鋭い鋼色の双眸。
 京一と真っ向から視線がかち合い、瞬間、息が止まりそうになった清次が目を見開く。
 そのまま京一の双眸へ吸い込まれるようにして目線が固定されてしまい、それを外すに外せなくなってドキマギした清次の頬が、この暗がりの中でも見間違いようのない程にカッと赤く染まり、壁に張り付いたままの躰が身の置き所をなくしてわたわたとせわしなく身じろぎをする。
 傍目に余りにも不自然な清次のその様子を訝しむように見ていた京一は、無言のまま、すい、と片腕を持ち上げた。
 清次が条件反射で思わずビク、と身を竦ませる。
 
 ダン―――!!

 清次の顔のすぐ脇の壁に、音を立てて京一が右手を突いていた。
 背を壁にしたまま立ち竦んでいる清次の顔を、至近距離から暫くの間じっと眺め回していた京一が、その足の間に自分の片足を割り込ませ、腿と腰をグイと押し付ける。
 ほう?という表情を浮かべた京一は次いで、片頬を歪めてニヤリとした。
「お前………欲情してるのか―――」
 清次の耳許に顔を寄せてヒソ、と囁く。
 言葉と共に京一の唇から漏れた息遣いが耳の奥を擽り、清次がゾクリと身を震わせた。
 眼前にある清次の首の肌が瞬時にして粟立つのを眼にした京一がくつ、と低く含み笑う。
 その吐息が首筋に触れて、更に清次が硬直して固まった。
 それと同時に、京一の腿へ当たっている清次の硬さと容量がグッと増す。
 面白そうにじっくりとその様を見ていた京一が、ふと思案する表情を浮かべた。
―――そういや、こいつからはあれを貰ったっけな。
 先月の今日、清次から手渡された物の事を思い出していた。
―――俺は一口だって飲んじゃいねぇがな。
 チョコレートビールと銘打たれていたビールにあるまじきその甘ったるそうな飲み物は、その大半が啓介の腹の中に収まった筈だった。
 が。
 まあ、いい。
「眼をつぶれ」
 物慣れた響きを帯びる命令口調。
「え………あ?」
 清次は反対に大きく目を見開き白黒させて、動揺を露わにする。
「―――清次」
 清次の耳にぞわりと甘く忍び込んだのは、促す口調でありながらも一切の拒否と抵抗を許さぬ男の声。
「あ、あ」
 ガクガクと頷いた清次が、ぎごちなく言われた通りに目を瞑った。
 自分の言うがままに無防備な姿を晒け出した清次を前にして、京一が低い笑いを洩らす。
 無言のまま顔を近付けて、自分の唇を清次のそれへと押し当てた。


「後で抱いてやろうか―――?」
 僅か数秒の後に唇を離した京一が、互いの唇が触れ合うか触れ合わないかの微かな隙間から一方的な言葉を清次へと滑らせた。
 その京一の首筋から仄かに漂って来る香りが、清次の鼻先へと届く。
 一日の終わりにも未だ微か残る、京一が身に纏う嗅ぎ慣れた香り。
「へ………いや……その……」
 耳許で囁かれる言葉に嬲られて京一の匂いに煽られて、股間がドクンと熱く疼き、思わず浅く息を上げながらも清次は。
 叶う事ならば、出来うる事ならば。

―――そうじゃなくて俺はお前を抱きてェんだ………ッ!!

 という内心の無音の叫びを口に出来る訳でもなく、また必死の無言の想いが京一に伝わる訳でもなく、ヘドモドとただ口ごもる。
 その間に、至近距離にあった京一の唇の割れ目から尖った舌先が伸びてきて、清次の唇の間を焦らすようにしながらゆっくりと舐め上げる。
「……きょう……い……」
 堪えきれずに身動きした清次が、もうどっちでも構わねェッと躰の欲するままにその舌を受け入れようとして唇を開き、京一の躰に触れようと手を伸ばした。
 途端。
 ドサッ―――。
「あ。悪りぃ」
 全くそうとは思っていないような声。
 清次がこわごわと自分の足元に目を向ける。
「…………」
 最前からずっと京一が左手に掴んでいた大きなゴミ袋が、清次の右足の上にドサリと乗っかっていた。
「汚ねぇ手で触るな」
 最前、薄汚れたコンクリートを撫で回すハメになった清次の掌を見ながら、その元凶である筈の京一は冷たく素っ気ない声でそう口にする。
「上へ行くついでにそれ、捨てておけ」
 続けて京一は事も無げな口調でそれだけ言うと。
 何の未練も見せずに清次からすい、と身を離し、くるりと背を向けて階段を下って行き。
 やがては。
 バタン。
 茫然としている清次の見守る中、バーの扉の内へとその姿を消した。
 為すすべもなく京一を見送った清次は情けなさそうに自分の股間に目を落としたが、そのままズルズルと背で滑り落ちながら壁際に座り込む。
 辺り一面を支配していた覇気に満ちる強烈な気配が消失した今、最前までは昏い中でも煌めくような明るさと共に精彩を放っていたようにも見えていたこの場所だったが、改めてよく眺めてみれば、そこは殆ど光の届かぬ薄暗がりであり、灰色の階段が延々と続くだけで何の変哲もない、ただの色褪せた光景をしか清次の目には映していなかった。
 地面に程近くなった目線で、清次は見るとも無しにあてどもなく自分の周囲を取り巻く階段の上下へと視線を彷徨わせる。
 ふと気付けば、その視界へ次々と飛び込んで来るのは。
 灰色に薄汚れて所々がヒビ割れているコンクリートの上に点在する、様々な痕跡。
 酔漢の仕業と思しき、勢いよく撒き散らされた吐瀉物を流し清めて掃除したような跡。
 何らかの乱闘でもあったのか、未だ僅かに残る変色したような小さくはない渋茶の染み。
 近辺にドブネズミでも棲み付いているのか、濡れた細い尻尾を引きずったような黒ずみ。
 否が応でも目に入って来たそれらが、今の清次のどん底な気分へ更にと拍車を掛ける。
「………は……ァ」
 天を仰ぎながら諦めたような顔をして深い溜息をついた清次は、しゃがんだお陰で顔の横に位置する事になった傍らの大きなゴミ袋の方にノロノロと視線を向けた。
 そして残されたそれの口を仕方無さそうに片手で掴んでその場に座り込んだまま、己にも人目にも、立ち歩いて支障がない程度にまで躰が落ち着くのを待ち始めたのだった。