TIME on Your Side


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 白く華奢な指で、目の前の陳列棚に並ぶ商品へ順繰りに触れていきながら。
「あとは……何買って行こうかな」
 京ちゃん好き嫌いがないのはいいけど、こういう時ちょっと寂しいわよね。
 ふぅ、と溜め息をつきながら華音が呟いた。
「でもきっと自分じゃ作らないし」
 せっかくお料理上手なのに。
 自分の為には一切手間をかけないっていうのも、問題よね。
 延々と独り言を呟きながら華音がデパート地下食料品売り場の通路をひとつ曲がった時、前方に、どこかで見た覚えのある後ろ姿を目にしてふと足を止めた。
 縦だけ伸び過ぎた薄い躰に骨の張った肩。ジーンズに包まれたすらりと細くて長い脚。
 勢いよく跳ね散らかって揺れている金茶の髪。
 陳列棚を眺めながら行ったり来たりしているあのシルエットは。
 くるくるとよく動く焦茶の瞳の。
 確か。
「……啓介くん?」
 声をかけながら華音は、手にしたカゴを持ち替える。
「あ?」
 青年が怪訝そうな顔で振り返った。
「久しぶり。元気だった?」
「え、と。あんた。えーと?……かのん、だっけ」
 癖なのか、髪の中に指を突っ込んでくしゃくしゃと掻き回しながら記憶を探るような顔つきで首をかしげていた啓介が、半年ぶりに出会った女の名を思い出す。
「覚えててくれたんだ」
 恐らくは年下なのだろう青年の、少し高めの声で呼ばれた自分の名は不思議と本来の意味に聞こえて。心地よい旋律が耳を流れていく。
「うん。きょ……須藤の彼女だったよな」
「ほんとはね、違うのそれ」
 恐らくは。京一、と言おうとしたのを慌てて言い換えたのだろう丈高い青年をおかしそうに見上げながらも、確かめるような口調でそう言った啓介にまだ勘違いしたままだったのかと華音が苦笑する。
「京ちゃんとは幼なじみなの」
 たまに寝たりもするけど、とまでは以前の京一と同じく華音も口にしなかったが。
「へえ。そーなんだ?」
「うん」
 たわいない会話を交わしながら歩き始めた華音の後ろを、背が高く体格が二回りほど優っている啓介がくっついて歩く形になる。
 まるで躾の行き届いた大型犬を連れているかのような微笑ましい光景。
「それ貸して」
 ごく自然に手を差し出した啓介に「ありがと」と華音がカゴを手渡した。
「何か乾物が多くねー?」
 手にしたカゴの中身を覗き込んだ啓介が、不思議そうな声をあげる。
 真空パックの白米にカレーやシチューの真空パック。魚介類やコンビーフなど肉類の缶詰。水を加えて加熱するだけの中華や湯を通すだけのソース付きパスタ、水に戻すだけの海草サラダ。その他諸々。カップ麺こそ入ってないが、どれも殆ど手を加えずに食べられるものばかりが雁首を並べていた。
 その中になぜか紛れている豆のままの珈琲だけが微妙に、それらとの整合性を欠いている。
 華音は一見キャリアウーマン風に見える女だったが、啓介には家事も料理も難なくこなしそうなタイプとして映っていた。これが華音自身の食生活だとすると少しだけ意外な気がした。
 果たして。
「違うわよ、これは京ちゃんの」
 女特有の勘のよさというやつなのか、華音がごくあっさりした口調で言外の問いに答えを返してきた。
「須藤の?何で?」
 思わず問いを重ねてしまう。
 華音の地元らしきここ群馬で栃木に住む京一の食料を、それもごく一般的な乾物類ばかりを買い込んでいる意図がよく分からない。
「風邪引いてるのよ京ちゃん。鬼の霍乱てやつかしらね?」
 だからこれ、届けてあげようかと思って。
 ちょっと困ったような、わずかにおかしそうなその言い方は、自分の子供の身を案じる母親のような口調だった。綺麗な笑みが華音の小作りな顔に柔らかい表情を刷く。
「直るまで看病してやったらいいのに」
 あいつ独り暮らしだろ。
 そんな事は当人同士の問題で自分が口を挟む筋合いではない、とは思いつつも知り合いが病気と聞いてしまっては言わずにはおれない啓介だった。
「……京ちゃん、人がいると眠れないから」
 体つらい時に、私がずっとあそこにいたら直るものも直らないでしょ?
 隠すような事でもないと思うけれど言っていいのかしらと迷いつつも、この子ならたぶん大丈夫―――と思っている自分へ、啓介にそう教えてから華音は気が付いた。
「えー?でも前に寝てた事あるぜ須藤。オレがいる時に」
 ほらオレ、あんたと初めて会った後あいつんち行ったろ。あん時。
 啓介のその口調には、友達―――とまでは言えなくとも知り合いが部屋に転がりこんでいる時にうたた寝するなんて事、別に珍しくもないだろ?というニュアンスが含まれていた。
「う、そ」
 目を瞠った華音が小さく息を詰める。啓介の言葉に耳を疑って。
「―――ホントだけど」
 凍り付いたような視線を向けてくる華音のその眼差しの中に紛れもない驚愕を見出して、理由も分からぬまま罪悪感が湧いた啓介までもが小声になる。
「眠ってた……の」
 京ちゃんが。
「うん。前の晩、交流戦だったって言ってたしさ」
 きっと疲れてたんだろ。
 なぜ華音が動揺しているのかその訳は分からずに、それでも自分が彼女に何か衝撃を与えてしまった事だけははっきりと悟って啓介はつい、弁解するような口調になってしまう。
「…………」
 だが華音は、それしきの事で京一が人前で意識を手放すなどという不本意な真似を晒す人間ではないという事を、十分すぎるほどに知り抜いていた。であれば。
 ならばそれは。
 胸の中に広がるざわめき。複数の羽虫が発する不協和音のように。
 意志の力で振り払う。
「オレ、何かまずい事言った?」
 あまりにも予想外な華音の反応に、啓介は居心地悪そうな様子でそわと、その身を揺らす。
「ううん。ちょっと驚いただけ」
 びっくりさせてごめんね。
 ふふっと笑いながら華音は言って、尖った舌先をちろりと覗かせた。
「んな事ねーけど……」
 びっくりしたのは確かだけどそれよりも。華音が一瞬、堪えるような眼をしていたようにも見えてそれがひどく気になっていた。でもきっとそれは聞かない方がいい事で。
 一度は開きかけた唇を、啓介はついと引き下ろす。
「……でもそれなら。ね、啓介くん」
「んー?」
 惑いながらも答えた啓介に。
 時間あるかなぁ、これから。ちょっと頼まれ事される気なぁい?
 誘うような柔らかい口調でそう切り出した華音は、自らの言葉通り先程の驚きからはすっかり冷めたのか、もう既に啓介が出会った時と何一つ変わらない華やかで美しい女の顔を見せて微笑んでいた。




 啓介と別れてデパートの地下から階段を上がり。続く屋外への一歩を踏み出そうとしたところで唐突にぴたりと華音の足が止まる。
 残暑の厳しい炎天下、照りつける強い日差しに目が眩みでもしたかのように。
 都会の常として周囲の人間は通行の妨げとなる障害物を無意識に避けて歩を進め、結果、華音の周りには小さな隙間ができあがる。未だ汗ばむ陽気の中にある街の喧噪が、額に汗ひとつ浮かべていない華音の頬の白さを際だたせていた。
 ほんの少しだけ下を向く。
「そっか。京ちゃん眠ったんだ」
 眠れたんだ。
 小さいけれどもそれははっきりと、安堵の息を吐くような声だった。
 俯いたままの華音の表情は、波打つ栗色の巻き毛に隠されて傍からは見えなかったけれど。
「あっちの奴はどうでもいいのよ」
 そりゃ納得は行かないけど。
 人間だと思わなきゃ、ぜんっぜん気にならないし。
 犬猫と一緒よね。
 聞きようによっては―――いや、どう好意的に解釈したところでかなり非道な事を口にしながらも、常に強い意志の光を湛えている華音の瞳があるまじき彩に染まる。ごく透明な淡さに。
 頑是無い童女のような瞳。
「でもあの子は」
 京一が新たに眠りを分け与えたあの青年は―――。
 真っ直ぐに正面を見つめ、唇を結んだ華音の上を静かに。静かな沈黙が覆う。
「……京ちゃんの馬鹿」
 小さく呟いた。
 運命は常に、彼女へは傍観者でいることを強いていて。
 どんなに願っても。
「……………っ」
 きっとそれにも確かな意味はあるのだろうけれども。でもそれでも。
「ばぁ――――かっっ!!」
 唐突に顔を仰向けた華音は大きく息を吸い込んで、天に向かって思いっきりの声で叫んだ。
 大気中にうわんと、余韻が広がる。
 一瞬の静寂。
 行き交う人波に逆らって佇んでいた女が発した突然の大声に。
 その内容が内容なだけに、瞬間びくりと立ち竦んで硬直状態へと陥っていた周囲の人間達が恐る恐る振り返った。
 流れる栗色の髪を振りやって背筋をすっきりと伸ばし、頭を高く持ち上げる。
 固まっている彼らにあでやかな大輪の笑みを振りまきながら華音は、かつん、と細い踵のヒールを鳴らして。
 自分のいる場所からの一歩をゆっくりと踏み出した。

 華音の去った後にぽつんと一滴、灼けたアスファルトを黒く滲ませている箇所があった。
 だが見る間にそれは、照りつける太陽に蒸発して薄れていき。
 まるで最初から何もなかったかのように跡形もなく消えていった。


 何でいつも、私じゃないんだろ―――。
 言葉にされなかった言霊は。
 ね、京ちゃん。
 放った存在の消えた場所に暫し留まって、陽炎の揺らぐ空間に残響していた。