アスマにご執心

    











 冷たくざらついた唇が頬の上を滑っていく。……冷てえ。
「よせって……イビキ。冷てえ」
 眠い目を開けぬままのアスマが嫌そうに手で押しのけた。
「だがもう朝だぞ」
「……だからそういう起こし方はやめろってお前。ただでさえ寒い冬なのに男の口吻けで目覚めるなんざ更に寒い」
「嫌ならさっさと起きればいいだろう。違うか、ん?」
 腕に浮いた鳥肌を擦っているアスマにそう言う男は平然としたものだ。傷だらけの顔に笑みまで浮かべていやがる。
「…………分かったよ」
 夜通し傍らにあった邪魔と言えば邪魔、温かいといえば温かい人体がいつ消えたのかにも気づかず寝こけていたアスマは寝床の中から手を伸ばし、枕元の煙草を取り上げた。
「あん?」
 抜き出した一本をくわえたまではいいが、火種が見あたらぬことに気付いて不明瞭な声をもらす。どこやったっけ。
 寝床の中で印を組むのも間抜けだよなとぼんやり考えながらも起き抜けの一本を吸いたければやはり火種は必要で。

「火遁、風林火ざ―――」

 指を組み合わせてアスマが印を切ろうとした途端。
「待て待て待てッ!!よせアスマッ」
 慌てたような気配が飛んで来たかと思うと両手を押さえられ、見上げるとそこには見慣れた男の厳つい顔があった。
「んーん?」
 寝惚けたままのアスマは当初の目的も忘れ、目の前の男の頭に空いている無数の穴に数本の指をずぼりと突っ込む。
「………………アスマ。オレの忍耐にも限界があるんだが」
「ああ悪ぃ。俺、これけっこう好きでな」
 寝起きの間延びした顔でへらりと笑ったアスマの罪のない笑顔に、イビキの拳がふるりと震えた。ついでに声も。
「……ア、アスマ……」
 もちろん怒りにからではなく愛しさから震えに震えた。
「うわ何だ何だッ!!」
 頭抜けた大男に突然がばりと抱きしめられてアスマの頭がようやく覚めた。寝惚けてる場合じゃねぇまた犯される。

「―――チ。ゆうべはあんなに素直だったくせに」
 アスマに容赦なく寝床から蹴り出されてイビキがひがむ。
「そうか……?」
 どうでも良さそうに言いながらボリと顎下の髭をかいた男の横顔を、イビキはため息をつきながら眺め遣った。
 アスマを抱いているのが自分だけではないということは無論承知の上だ。
 酒肴を手にしてこの家を訪れて、飯を作ってアスマに食わせ、その後酒の勢いと欲望に任せてイビキが押し倒すたびに難なく身を任せる男が、ただ抵抗するのが面倒臭いと思っているからだとも知ってはいるが。

「………………お前の方が冷たいぞ」
 それでも愚痴の一つや二つは言いたくなろうというものでイビキは恨みがましい目でアスマを見遣る。けれど朝の一服を旨そうに吸っている男は聞いていないようだった。
「―――オレはそろそろ出勤だ。出かけないと」
 あきらめたようにそう言ってイビキは準備を始める。
 暗部服の上に黒のコートを着込み、最後に額当てを取り上げたイビキが額に巻きつけて頭の後ろでギュッと縛ると、 見るも無惨な頭部の拷問跡の殆どはそれで隠れてしまった。
「アスマ、お前はまだ時間は大丈夫なのか?」
 寝床から降りる気配のない男を振り返ると、アスマは煙草をくわえたままぼんやりとイビキの準備を眺めていた。
「ああ、そろそろ起きないとな」
 そう言いながら起き出そうとする気配は微塵もない。
「ん?……どうしたイビキ」
 カツカツと踵を鳴らしながら近づいて来た男の顔のアップが迫ってきたことに驚きながらアスマが見上げた。
「行ってきますのキスだ。馬鹿者」
 声と共に、ちゅと音を立てて頬に口吻けが降ってくる。

「……………………」

 キスって柄か。それすら言えずにアスマは凍り付き、無言のままで腕に浮かんだ鳥肌を再び擦った。
「おいアスマ、今日の晩飯には何を食いたい」
 そんな姿すら好ましそうに見つめながらイビキが尋ねる。
「……晩飯」
 そう呟いただけで今日も来るのかと言わぬアスマは目先の欲に捕らわれたのか、考えるような目の色を見せている。
「秋刀魚の塩焼きと焼蟹、茄子の味噌汁。あと蒲鉾と焼酎」
「分かった」
―――妙な献立だな。まあいい。……よし釣れた。
 頭の中に書き付けながら頷いたイビキがしめたと喜ぶ。
「イビキ、何時頃に帰って来るんだ」
「出勤してみないと分からない。が、出来るだけ早く戻る」
「そうか、まあ今日も楽しく仕事して来いや」
「ああ、行って来る」
 最後にそう言うと、イビキはアスマの家を去っていった。


「―――残念だったな」
 窓の下に男の足音を聞きながらアスマが呟いた。
「さっき言ったのはカカシと紅とエビスの好物だ。今晩もまたお前一人が来るんじゃさすがに躰がもたねぇ」
 ゆうべイビキにさんざん嬲られた躰は未だ軋んでいる。
「飯があるぞと言って親切にあいつらも呼んでやろう」
 のんびりと呟いたアスマは、残りの煙草を吸い始めた。


「―――今日は一楽に寄りつくのはやめておくか」
 暗部詰所に向かいながらイビキもまた独り呟いていた。
 油断も隙もない連中に嗅ぎつけられてはたまらない。
「せっかく当たりクジ無しで手に入れた権利だからな」
 そう言ったイビキは、今夜の楽しみが既にアスマの企てによってお釈迦にされる予定であることを未だ知らない。



 さてここで時は戻って前夜の宵の刻。場所は一楽。
 以下そこで日常茶飯事の如くに行われている一幕である。
 
 
「―――さあ、用意はいい?」
 白い手の中に四本の割り箸の片端を握った紅が、油断のない視線で周囲の男達を見回した。

 イビキ、よし。エビス、よし。カカシ、……。

「ちょっとカカシ!あんた何してんのよ?」
 目ざとく見咎めた女が何気なく額当てをずらそうとしている男を睨みながら恫喝した。
 素晴らしく堂に入っている。
「いや、何だかいきなり左目がかゆくなっちゃって」
 チッと口の中で小さく舌打ちした男がえへらと笑った。
「ふざけてんじゃないわよ。写輪眼使おうっての?反則ッ」
「止めなくていいぞ紅。瞳術と言っても写輪眼はコピー機能だ。割り箸クジの当たり外れが見える訳はない」
 腰の座った科白を吐いたイビキの視線は、だがしかし一心不乱にその割り箸を睨み付けている。それによく聞けば。
 動揺を誘われるなイビキ。こういう物はただの運だ、運。
 呟きながら自分を落ち着かせようとしているらしい。
「何よ結局動揺してるんじゃないの。ったくもうあんた達ったら眼の色変えちゃって」
 己を棚上げして女が蔑む。
「こういう時だけは写輪眼じゃなくて白眼が欲しーいぃ」
 悲しげな表情を浮かべながらカカシが長く遠吠えをした。
「なに卑屈な犬モード入ってんのよカカシ」
「うるさいよ紅。あぁやだやだ女は歳食うと婆ぁみた―――」
 ブンッ。
「うわぁ暴力反対ッ」
 ひょいと首を竦めて拳を避けた男に。
「あらそーお。じゃ……」
 紅の目が一気に据わる。

 シュシュッシュ―――シュンッ。

 片手で簡易印を組んだ紅の手から蒼い火花が散り飛んだ。
「ぎゃああああッ!!」
「熱ッ……じゃねえ冷たいぞ紅ッ!!凍るだろうがッ」
 派手な悲鳴をあげたカカシとコートを翻しながら飛び退いたイビキの全身のあちこちに蒼白い幻火が点っていた。
 冷たく燃えさかる灯火は実際の温度を伴っている。
 マイナス273.15度。
 絶対零度の氷結幻術だった。
「紅ってば。凍傷になっちゃうでしょ」
 そう言いながら、カカシは剥き出しの肌に張り付いてしまった氷の結晶をペリペリ剥がし、火傷をした箇所に指先を当てるそばから跡形もなくすぅと傷を消していく。
「……全くだ」
 迷惑そうに言いながらイビキがぶるりと震わせると、全身を覆っていた氷柱が剥がれ落ち、躰の中で唯一剥き出しの顔からも落とした後には元の傷以外残っていなかった。

―――バケモノ。
 落ちた呟きが幾つだったのかは木の葉の里の秘伝録にて。

「―――いいからさっさとクジを引きなさい」
「紅、幻術遣いのお前がクジを持つのはどうかと思うぞ」
 うん?と一見温厚そうな笑顔を浮かべつつ、イビキが一歩も引かぬ構えを見せながら異議を唱える。
「あらそうねえ。じゃあアヤメちゃんに頼みましょ」
 素直にそう言った紅はにっこりと笑いながらカウンターの中の少女に向かって、おいでおいでと手を振った。
「何か御用ですか?」
 呼ばれた少女が、つぶらな瞳で紅をじっと見上げる。
「何も難しいことはないのよアヤメちゃん、さあこれを」
 握って。と嬉しそうに紅は娘を見つめ返しながら、少女の手の中に四本の割り箸を持たせた。
「……こう、ですか?」
「そうよ。こうやってぎゅっと」
 娘の小さくて柔らかな手を握りしめながら再び微笑む。
「ああー紅が公私混同してるー」
「うるっさいわねカカシッ!」
 間延びした声をあげた男を眼光鋭くぎりっと睨んだ紅は。
「あらアヤメちゃん、怯えなくていいのよ?今のは冗談」
 一転して優しげな年上の女の微笑みを少女に向けた。
「可愛いコには優しいんだから」
 拗ねたような声が呟き。
「カカシ、口は災いの元だぞ」
 横から重々しい声も呟く。

「……あんた達、いま何か言った?」

「なーんにも」
「言ってない」
 恐ろしげな笑みを湛えた女の問いに男達が声を揃えた。
「あらエビス、静かね。独り占めは諦めて籤引くんでしょ」
「―――仕方ないだろう。しょせん私も同じ穴のムジナだ」
 騒ぎの中、それまでずっと不機嫌そうに押し黙っていた男が、鼻の上の黒眼鏡をぐいと押し上げながら口を開いた。
 その言葉に他の三人が、三者三様の反応を見せる。
「……穴。まあそうだな」
 イビキが低い呟きを洩らして。
「エビスセンセったら、だいたーん」
 カカシがふわと笑い。
「気持ちは分かるけど……」
 紅が白い額を指で押さえた。

「…………何のことだ?」
 けれど、ひとり蚊帳の外に置かれた―――というよりも自ら外に出たエビスが不機嫌な顔のままでそう言った途端。

 ひゅるるるるう―――――。

 そんな疑似音を伴いながら白い風が店内を吹き抜けて。
「……………………」
 エビスをのぞく全員が沈黙した。

 彼らの周囲には何とも言えぬ複雑な空気が漂っている。
 なぜならばエビスを含め、ここに居る四人が四人とも、アスマとはその手の意味での関係者―――はっきりと言ってしまえば寝床の中での交渉を持っているのだ。
 不特定多数の一人であるという意味においては全員が全員とも全くの同一線上、同じ立場にある。
 エビスの発言は聞きようによってはカカシの言う通り、かなり大胆なものだった。
 知らぬは本人ばかりなりという奴である。
 下ネタごときに動じる三人ではなかったが、エビスが本気で言った挙げ句に自分で言っておきながら全くその意味に気付いてないとなれば―――さてどう切り出したものかと微妙な空気も漂おうというものだった。

「…………えーと?」
 へらりと笑いながら口火を切ったのはカカシだった。
 一見人畜無害そうな笑顔で笑いながらエビスを見つめる。
 そして視線はそのままに。
「ちょっと奥さん、お聞きになりまして?」
 黒い口布で覆い隠されている口元をわざとらしく片手で覆い、横に座るイビキの肩を指先でツンツンと突ついた。
「誰が奥さんだ、このウスラトンカチ」
 科白の内容とはそぐわぬ重々しい口調でイビキが返す。
「……イビキったらひどい」
 男の冷たい科白に泣き真似をするカカシを無視したまま。
「例えが悪かったなエビス。自分で自分の墓を掘ってるぞ」
 敗因のポイントを冷静に指摘するのは森乃イビキ、拷問と尋問のプロだった。そして紅は。
「一緒にしないでくれる?私はその穴使ってないわよ」
 カウンターに頬杖をつきながら呆れたようにそう言った。
「穴違い……」
 ぼそとカカシがそう言った途端、耳ざとく聞きつけた紅の鉄拳で容赦無く殴られる。
「痛い痛い痛いッ」
 頭を抱えて喚くカカシに向かって。
「ふん」
 冷たい顔の紅が鼻を鳴らし。
「そこの二人、品が無さすぎるぞ」
 イビキがたしなめた。
 そして騒ぎが再び一件落着したところで。
「………………」
 再び三人の視線がエビスに集中する。待ち受ける気配。
「……え?……え?」
 黒い丸眼鏡の下でエビスの視線がウロと泳ぎ。

「………………!?」

 唐突に目を見開いた男のその頬がうっすら染まった。
 ようやく三人が何を言っているのかに気付いたのだ。遅。

「……な……ッ!!」
 と同時に、怒りと恥辱とに声をわなと震わせる。
「……わ、私はッ!そんな意味で言ったのでは―――」
「無いってのは無理な話でしょ。顔が赤ーいよ」
 言い切る前に科白をむしり取ったカカシが、にこにこと笑いながらエビスの頬を指差した。確かに赤い。
「いい加減に諦めろエビス。引き際が肝心だぞ。いやしかし、やはり女は歳を食うと恥じらいというものが無―――」
 イビキが腕組みをしながら重々しく言った途端。

 ドンガラガッシャ―――ン!!

 一楽の店内に派手な破壊音が鳴り響いた。
 イビキの腰かける椅子を、紅が蹴倒した音であった。
 瞬速で空間を駆け抜けた白い太股の残像が目に残る。
 けれどイビキは巨体に見合わぬ動きで場所を移していた。
「…………チッ」
 浮かべる笑顔は変わらずに美しい紅が鋭く舌打ちをする。
「おーこわ。なあイビキ、やっぱり口は災いの元だな」
 肩を竦めながらこっそり言ったカカシがけらりと笑った。
 その頭がごんっと前に倒れ込む。
「だから痛いってば!」
 またもや紅の硬い拳骨で力いっぱいに殴られたのだ。
 どんなに白く細かろうともその破壊力は計り知れない。
「暴力反対反対ッ」
「うむ、そうだな。暴力はよくない」
「あらそう―――」
 男達から何度も言葉の暴力を受けた紅がぷちんと切れる。
 何気ない仕草で両手を背中に回し、白い指を蠢かした。
 文句を言い返すかと思いきや、そのまま口を噤んでしまった女をカカシが拍子抜けした表情で見ていると。
「…………亥……巳……」イビキが何事かを呟いた。
「どうした?」
 問いかけながらも、突然呟き始めたイビキの口にしているのが印であることに気付いたカカシが訝しげな声を放つ。
 だが呼びかけられてもイビキは反応しない。
 同じく無言のままの紅の両腕を一心に見つめている。
 長く就いている任により人体の筋肉一筋の動きすらも見極められるイビキは、そのほんのわずかな動きから、目に見えていない部分の動きをも察することが出来るのだった。
「……酉……申……?……基本印じゃない。対角二本横四」
 低く続いていたイビキの声が不審そうな響きを帯びる。
「……何だと?」
 自分が記憶している情報の中から発動されようとしている術を探り出したカカシが、すいと細く目をすがめた。
「その印は―――――まさか」

 沙羅曼陀羅。

「……さら……まんだら……?」
 音にされることはなかったカカシの口布の下で唇の動きを読み取ったイビキが反芻した。
「禁術の一つだよ」
 言葉少なに答えながらカカシが額当てに手を持っていく。
「………やべーな。ぼやぼやしてたら木っ端微塵にされてお天道様まで打ち上げられるぞ」
 呟くカカシの剥き出しにされた左眼の中で勾形が浮き上がり、円を描くようにゆっくりと廻り始めた。
―――この際だ、写させてもらおうか。悪く思うなよ、紅。

 火遁幻術、沙羅曼陀羅。
 その名はどこか涅槃を、そして屍臭を感じさせるような。
 それもその筈、術者の命を削るという規定其ノ壱に適合する事もさることながら、発動されればその場の生けとし生ける者すべての命を奪う可能性があるという事から規定其ノ弐にも当て嵌まるとして禁術に指定されたものだった。