アスマにご執心

    









「おおーいアスマぁああ!!」
 窓の外で聞き慣れた声が大音声で叫ぶのが耳に聞こえた。
「……今朝はまた随分と早ぇお着きで」
 イビキが去った後も寝床から起き出さず、怠惰に寝そべっていたアスマが新しい煙草をくわえながら声を洩らす。
「めんどくせーけど起こしに来てやったぜ!」
 再び聞こえるのは教え子の一人、シカマルの声である。
「ありがとよ」
 アスマは窓の外へと片手を突きだし、相手に向かってひらひらと振ってやった。
「何だよ、まだ着替えもしてえねえのかよ……ってことは。……まだ寝てやがんな!」
 濃紺のシャツに包まれている腕を見て察したらしい。
「いいから叫んでないで上がって来いよ。近所迷惑だ」
 くわえた煙草に火を点けながらアスマが声を飛ばす。
 そのまま相手の気配が消えたことからすると、建物の中に入ったらしい。
 果たしてしばらくの後。
「よー、邪魔するぜ」
 コンコンと叩いた扉をすぐ開けてシカマルが姿を現した。
「さっさと支度しろよ、アスマ」
「ああ、そろそろ起きるか」
 そう言いながらアスマがぼりぼりと顎の下をかく。
「起きるかじゃねえっての。今何時だと思ってんだよ」
 ぽんぽんと言いたいことを言う教え子を、まあそう怒るなと宥めながらアスマはようやく身を起こした。
 しどけなく開かれたシャツの胸元に、紅色をした痣が散っているのを発見したシカマルの顔が一気に赤くなる。
「昨日誰か女が来てたのかよ」
 ウロと部屋の中に視線を泳がせかけた自分に気付いた少年は眉根を寄せ、ぐいと視線を戻しながら男に尋ねた。
「いや?来てねぇよ」
 シカマルからの問いにアスマが答える。
 嘘は言っていない。言ってないことはあるが。
 俺はお前らの教師だが生憎と性教育担当じゃねぇしな。
 アスマは心の中だけでそう追加した。
「ふぅん、そうか」
 シカマルはシカマルで言葉を額面通りには受け取らず。
―――随分激しい女だな。
 アスマが隠しているだけだろうと思いながら胸に呟いた。
 自分がいま目にしているものの意味ぐらいは知っている。
 男が羽織っているシャツの合間からは、所有印であるその紅痣の他に爪痕や指痕のようなものまでもが見えていた。
 どちらにせよあまり心臓に良くない眺めである。
 心臓発作で寝たきり若者になるつもりは今のところ無い。
 けれど、アスマの躰や覗く肌をチラチラと盗み見ているうちに、何やら動悸が激しくなってきた。まずい。どうも血圧までもが上がってきているようだ。頬が熱い。しかし視線は固まったようにアスマの躰の上から離れてくれない。
「…………っ」
 唐突に勢いよく両手で鼻を押さえたシカマルに。
「どうかしたのか?」
 体調でも悪いのかとアスマが訝しそうな視線を向けた。
「……いいからあんたは早く支度しろよ」
 そう言いながらも鼻を覆ったままの手が離せない。
「これ吸ってからでもいいだろ」
 訝しげな顔を見せながらも男が手元の煙草を持ち上げた。
「…………」
 シカマルは無言で頷いた。喋ると鼻血が出そうなのだ。
 やばい。鼻の奥が更に熱くなってきた。流血の予感にシカマルの表情が珍しく焦りを帯びる。

 何か他の話題を。
 そう、意識が切り替えられるような。

 焦りながらシカマルが自分の頭の中を引っかき回した。
 あった。しかしあまり嬉しくない。だが背に腹は替えられなかった。鼻血吹くなんてみっともない真似晒せるかよ。
「なあアスマ…………」
 嫌々ながらもシカマルが口を開いた。
「こないだのアカデミーの忍術大会ん時だけどよ……」
 何やら言いたくなさそうな声と気配である。
「どうした」
 振り向いたアスマに向かって。
「―――ウチの親父に会ったか?」
 ようやくのことで鼻から手を離し、膝の上に頬杖をついたシカマルが嫌そうな顔で尋ねた。
「ん……いや、会ってねぇと思うが。っても会ったとしても誰がお前のオヤジさんか分からねぇけどな」
「似てるってよく言われる。取りあえずオレと同じ外見」
 シカマルが、一つに括られて天を向いた自分の髪を差す。
「ふん?じゃあ会ったかもな。親切な人だったぞ」
「……シンセツ……?」
 シカマルの声が凍り付く。そのままその場で硬直した。
「何固まってるんだ、お前」
「そ、その、よ。どこいら辺が親切だったんだ?」
 それは一体、人違いか記憶違いか勘違いか。どれだ?
 まさかだが違わないとか。
 頼むそれこそ違ってくれッ。
 シカマルが胸の中で念じながら手を合わせる。
「俺その時ちょうど煙草切らしててな、確か予備買ってあった筈だよなーって思いながら懐探ってたら―――」
「……たら?」
 のんびりと口を開いた男の顔を凝視する。
「そのオヤジさんが寄ってきてよ。にこやかに笑いながら『兄さんどーしました』っつうからよ。『どうも煙草切らしちまったみたいで』って言ったら―――」
「……言ったら?」
 シカマルが固唾を飲みながら続きを促す。次が佳境だ。
「その人が『これで良かったらどうぞ』っつって一本くれたんだよ。それも俺と同じ銘柄でなぁ。助かったぜ」
 な、親切な人だろ?
 言い終えたアスマが罪なくシカマルに同意を求める。
「あんのクソオヤジッ!おかしいと思ったぜ!!」
「どうした?」
―――珍しい。シカマルが吠えてるぜ。
「オレの親父が最近あんたの事ばっかり聞きやがるんだよ。歳とか星座とか飯の好みとか趣味とか、もちろん煙草もな」
 腕組みをしたシカマルが眉根を寄せながら情報交換する。
「で、お前は教えたわけだ」別に構わねぇけどな。
「オレが甘かった。畜生ッ。……あのなアスマ。家の神棚によ、二本だけ中身の無い煙草の箱が置いてあってな」
 あんたのソレと同じ銘柄ね。
 アスマのくわえている煙草を指差しながら、うざったるそうな顔で馬鹿にも分かるシカマル講座を開講する。
「けど別におかしいこたねぇだろ?そういや―――オッサンも自分で一本吸いながら、ゲホゴホ咳き込んでたのが不思議っちゃあ不思議だったがな」
 お茶目な人だったのかねと言いながらアスマが笑う。
「ち・が・う・ッ!!」
 こめかみに青筋を立てたシカマルが、血の巡りの悪い大人に向かってがなり立てた。
 お茶目なのはお前だクソバカ。

―――ああ何でオレ、あんたみたいな頭悪い奴相手に体力使ってるわけ?
 おまけにオレ、何で放っておけない訳!?

 内心でぶつぶつと文句を垂れ流しながらも自分の危機感が一つ一つ検証され、真実が明らかになっていく以上は忠告せざるを得ないのもまた間違いないことで。

「―――アスマ、いいからちょっとそこに座れ」
 有無を言わせぬ口調のシカマルがずいと指を突きつけた。
「……って言われてもな。俺はもともと座ってるんだが」
 布団の中で胡座をかいていたアスマが困ったように笑いながら、ぼりぼりと顎を掻く。
「あんたが吸ってるその煙草だがな……そのオッサンも吸ってたって言ったよな?」
「ああ、言ったが?」
 神妙な顔でアスマが相槌を打つ。
「いいかアスマ。耳の穴かっぽじってよーく聞けよ」
 男を睨み付けながらシカマルは大きく息を吸い込んだ。
「言っとくが、ウチの親父はな、煙草、吸わねーんだよッ!」
 こめかみの青筋を更に浮かびあがらせながら、シカマルが一言一言を区切るようにしてアスマにそう申し渡した。
「そうなのか。じゃあ何であん時煙草持ってたんだろうな」
「………………」
―――このウスラボケ。接近する為の小道具だ。
 首を傾げたアスマにシカマルの頬がひくりと震える。
 耐えろオレ。馬鹿につける薬はねえんだから。耐えろ。
「―――アスマ。あんた気をつけろよ?」
 腹を括ったシカマルは直接的な表現に訴えることにした。
「何をだよ?」
 怪訝そうな男に事実を突きつけようとして。
「いやその……ほら色々とあるだろうが大人にはよ」
 あまり直接的ではなかった奈良シカマル、弱冠十二歳。
「ほう―――大人じゃなくて色々もありそうだがな」
 にやにやと笑う男を、頬を染ながらも怒りを込めて睨む。
「黙れアスマ。あんなクソオヤジに何かされてたまるか!その前にあんたはオレが唾つけ―――」
 言いかけて、ばっと両手で口を押さえたシカマルの顔が赤くなったり青くなったりと明滅をくり返す。
「い、今の失言ッ!今のナシ!」
「その科白は俺の十八番なんだが。……はどうでもいいが、シカマル……お前は俺のことをそういう目で」
 先生は悲しいぞ。
 腕組みをしたアスマは教育を間違えたかと頭を振った。
―――畜生、こういう時ばっか大人ぶりやがって。
 そんなアスマを睨み付けるシカマルが如何に才気溢れる少年であったとしてもそこはまだ経験不足の悲しさである。
 ゆうべアスマの躰に赤い所有印を刻みつけたのは女ではないということを知らずに。
 既にアスマは他の男と寝ているということを気付けずに。
 更には、先程ここへ来る道すがらにすれ違った森乃イビキが昨晩の相手だったとも気付かずに。
 自分の父親が両刀遣いであるという、アスマにとっては些細な事実を告げられなかったのである。
 シカマル大黒星。

「ま、せっかくの忠告だ。気を付けるさ」
 唇を噛む自分の生徒をアスマはそう言って慰めた。
 人生経験においてシカマルの二倍以上の時を生きている男には、少年が何を言いたかったのか汲み取れたのである。
 しかし真の問題はそこではなく別の所――アスマもまた男でも女でもいい人間、というよりは面倒臭いからまとめて掛かって来いという適当な性格の持ち主である――という点にあったことをシカマルは未だ気付いていなかった。
「…………どうせオレはまだガキだよ」
 穏やかな笑みを顔に浮かべる男を複雑な思いで見つめていたシカマルが、ふいと横を向いて視線を逸らせた。
 秀才だ軍師の器だ逸材だと褒め称えられた所で自分はしょせん肉体的には十二歳のガキでしかなくて。
 そして目の前の男は上忍で、里でも指折りの実力者で。
 けれど時おりにアスマと差し向かいで将棋をしていると、それだけの能力を持っている男が正面切って全力で向かってきてくれるのが心地よくて。
 それだけだと呟いたシカマルだが実はそれだけではない。
 表向きには、テキトーに忍者やってテキトーに稼いでフツーの女と結婚してフツーの結婚生活を送り、忍者を引退後は楽隠居を決め込んでという人生設計を立ててはいるが。
 本当は女と結婚などせずとも、よぼよぼの年寄りになった時に茶を啜りながら将棋や碁を打つ相手として自分の向かいにアスマが居るのであれば、二人してそんな人生歩んでも構わねーかなーと思っているシカマルなのであった。

 しかし自分の秘かな野望の為には、その前に排除すべきものがある。
 いうなれば害虫駆除というやつだった。

―――春の祈願祭も終わったし夏の水芸大会も終わった。
 まずは、記憶しているアカデミーのイベントデータを頭の中で一つ一つよどみなく順番に並べていく。
「さっきから何度も黙り込んで、どうしたシカマル」
「いいからちょっと待ってろ」
―――で、秋の豊穣祭も終了だろ。
「はいよ」
 そう言いながらアスマが見ればシカマルは眼を閉じてその両手を結跏趺坐にも似た形に組んでいる。
 ふん、考え中ってか。
 そうと知って自分は煙草の消費に専念することにした。
―――で、忍術大会も終わった。……てことは暫くの間はあのクソオヤジとコイツが出くわす機会はねえ筈だ。よし。
 確認し終えたシカマルが胸の中で拳を握りながら。
「まあ当分ウチの親父とあんたが顔会わす事もねーしな」
 ようやく晴れやかな笑顔を見せてハハハと笑った。
「けど来月の三者面談で会うだろ」
「そう三者面談で―――」
 当然ながら頷くものと思っていたアスマの科白をシカマルは反芻しかけて。

――――――ッ!?

 ぐるんと頭を百八十度ほど回転させながら振り向いた。
「……さ……さんしゃ?」しゃっくりのような声になる。
「ん?こないだの演習の時にプリント渡したろうが」
 見なかったのか?と紫煙を吐きながらアスマが尋ねた。
「……クソめんどくせーから見なかった」
 そう、アスマが親に渡しとけと言ったので、内容は読まずに家に帰ってそのままホイと父親に渡してしまったのだ。
 ちくしょう抜かった、とシカマルがほぞを噛む。
 父親に手渡す前に内容に気付いていれば、そのまま握り潰して、後はアスマを丸め込んで何とでも言い抜けてしまえば避けることが出来た筈の事態であった。
 己の適当な性格をこの時ばかりは恨んだシカマルである。

―――てことはだぞ?
 三者面談の日の朝メシには気をつけねえと。
 終わってしまったことを悔やんでも仕方がないと腹を括ったシカマルは次の手を考える。
 自衛策は安全かつ万全に。

―――いや、前の晩のメシも怪しいな。……外で食うか。
 今や如何にアスマが笑い飛ばそうが、自分の父親がアスマに執心を見せていることは間違いようのない事実なのだ。
 となると―――獲物と狙い定めているアスマと密室で二人きりになる機会を得るためであれば、自分の父親が、顔色一つ変えずに息子の食事に腹下しの薬の一包みや二包みや三包みや四包み、平気でざらざらと振り入れるであろう性格の持ち主であることをシカマルは実によく知っていた。
 そう、十二年分ほど。
 今までにも父親から煮え湯を飲まされたことは幾たびか。
 言っとくが比喩じゃねえ。涙無しには語れない。

 だがしかし、今度ばかりは思い通りにさせてたまるかよとシカマルが拳を握る。
 こうなったら全力でかかるしかない。如何に相手の先手を読み取って更にその先手をどのタイミングでどう打つか。
 智恵比べでも忍耐比べでも何でもしてやろうじゃねーか。
「それじゃ……と」
 秘かに決心したシカマルの耳に呑気な男の声が聞こえた。
「ここは一つ、俺が責任を取ってだな……」
 言うなりアスマが片腕でぐいとシカマルを抱き寄せる。
「アスマッ!?」

 責任?何の話だ。
 いや、んなこたどうでもいい。

 瞬時の間にシカマルは百通りぐらいのパターンを考えた。
 考えたがアスマの言動と前振りから考えてそれしか思いつかない。他には無いか。無い。無い筈だ。確率九十九%。

―――ファーストキッス奪われんのかよオレ!?

 出来ればオレからしたかった。
 けど……ま、まあこれでも。

 そっと目を閉じながらシカマルがそう思ったのも束の間。
「いてッ……よ、よせ……離せアスマッ!」

 こんな責任の取り方があるか馬鹿ッ!!一体何の責任だ!!

 力の限りにそう叫びたくても、痛さのあまり声が出ない。
 何とアスマは胸の中に抱き寄せたシカマルの頬に、自分の硬い顎髭をごりごりと擦りつけているのであった。
 そこはそれ、腐っても鯛―――もとい上忍である。
 アスマはシカマルの考えが及ばぬ手で来たのであった。

―――意外性があるのはナルトの奴だけでいいってよ……。
 男の分厚い胸を精一杯の力で押し返し、腕の中から抜け出そうと踏ん張りながらシカマルが口の中で力無く呟いた。
「ん?何か言ったか?」
 面白がって更にアスマが顎髭を擦りつけてくる。
 猿飛アスマ、ただ今教育間違いの責任取ってお仕置き中。
「よせ、って……アスマてめぇ聞いてんのかぁあああッ!!」
 身動きならぬ状態のシカマルが、男の腕の中で絶叫した。


 奈良シカマル、十二歳。
 ヲトナな欲望に囚われて残1%の確率に負けた朝。
 うら若くも青き性の目覚めに乾杯。



                                            ― 了 ―