正しい車載カメラの使い方 |
カシャ―――カシャ。ジ―――。 さきほどから、部屋の一画ではごく微細な電子音が繰り返されている。 ごくり。 生唾を飲み込む音が間近から聞こえた。 「珍しい?」 薄く開けたドアの隙間にカメラのレンズを押し当てて、ファインダーを覗き込んでいた男が真下を見おろす。 「……お前にはまだ少しばかり刺激が強かったか」 カメラを構える男の視界をさえぎらぬよう中腰で扉の隙間に貼り付いていた青年の目が、視線を避けるようにドギマギと左右に泳ぐのを見て、くすりと笑った。 「いえ、あのっ」 そんなことはないと反論しようとする青年の頬は、しかし、染まるように赤くなっている。 「デカい声出すんじゃねえよ。―――っと、おい」 「は?」 「あそこでドタドタうろつき回ってる猿、なんとかしろ。女にバレたらどーする」 「………………猿」 言ったきり口を半開きにした青年の大きな目は、まん丸に見開かれていた。 「お前その顔バカに見えるぞ。いいから早くしろって」 「……はいっ」 我に返った青年は素早く学習したらしく今度は囁き声で返すと、足音を立てないようにしながら、部屋の中を意味もなく徘徊している大柄な男のもとへと近寄っていく。 「………」 こわごわと袖を引いて何やらを囁くと、忌々しげな顔をした男がこっちを向いた。泣く子が引きつけを起こして気絶しそうな凶悪なご面相で不機嫌をまき散らしている。 「静かにしてろっての」 相手に聞こえはしまいが身振りでそう伝え、仕事に戻る。 「あらら、またイッちまう」 もうダメだなあの女。 ファインダーを覗き込みながら口笛でも吹きそうな声で言った男は、タイミングを見計らって最後となるであろうシャッターを切った。 カシャ―――。ジ―――。 「んっやあっ―――あっあっ。……あぁあああ あ!」 男に突き上げられてせわしなくあえぎを放っていた白い背中が大きくのけぞり、唇から高い嬌声をもらした女の躰から唐突にくたりと力が抜け落ちる。 「ちッ、気ぃ失ったか」 欲望をむき出しにした男の顔を脱ぎ捨てた京一が、腕の中の女を冷たい視線で見おろした。 逞しい躰の表面をうっすらと汗ばませながらも、日頃の鍛錬の賜物なのか、こちらはわずかに呼気を荒がせているだけである。 「満足させてやるだと?―――ふん、口ほどにもねぇ」 鼻先で嘲笑うと、汗に濡れた女の脇腹を片手で掴み上げて傍らへと放り出す。 人形のように四肢を不自然にバラつかせながら、女の躰が白いシーツの上へと転がった。 「―――入って来ていいぞ」 隣室に向かって、いささかうんざりとしたような声を投げかける。 「お疲れさまッした」 部屋の扉が開け放たれ、レンズを通して一部始終を見ていた速見が笑いを含んだ声で言いながら姿を現した。少しばかり足取りの怪しい峰岸がそれに続く。 うら若き青少年にはやはり、間近で目にした光景の刺激が強すぎたらしい。 一仕事が終わったとばかりに速見が煙草をくわえながらほい、とカメラを渡すのに、あやうい手つきで峰岸があたふたと受け取った。 その後ろから清次の大柄な体躯がのそりとドアをくぐる。 「なに不機嫌なツラしてんだ、清次」 「……別に俺は……」 京一に見とがめられた清次は、仏頂面のまま何かを言いたげに唇を動かしたが、言うに迷ったのかふいと押し黙る。 「機嫌がよくねぇのはこっちだぞ。ったく面倒なこと押しつけやがって」 「―――押しつけたのは俺じゃねェよ」 タバコ、と手を出した京一に、清次はベッドサイドからそれを取り上げてジッポと一緒に渡してやりながら、じろりと速見をねめつける。 「終わっちまったこと言ってもしょうがねえだろ。最初に仕掛けてきたのは奴らの方だぜ?お前だって怒り狂ってただろうが」 「……そりゃあそうだけどよ」 ひょいと肩をすくめた速見に返す言葉をなくして唇をひんまげた清次が、京一へと視線をさまよわせる。 くわえた煙草に火を付けて紫煙を吐き出し始めた京一は男同士の気安さから ではなくただのデリカシー欠損症ぶりを発揮して ベッドの上で全裸をさらしたまま平然としている。 清次はその躰にチラと目を走らせたものの、すぐに、慌てて引き剥がすようにしながら視線を逸らせると、複雑極まりない表情で黙り込んだ。 事の起こりは数日前のことだった。 いろは坂周辺や街なかに、見かけぬ胡散臭い男達がうろついているという噂が流れてきた。だがそれは彼らがエンペラーの情報を聞き回っているらしいという程度のささいな事でしかなかった。それが一昨日から何やらいきなりキナ臭いことになったのだ。 夜のあいだにチーム員のランエボ―――それも白ばかりが二台、潰されていたのである。 持ち主の男が朝起きて仕事に出ようとしたところ、それぞれの駐車場で無惨な姿の愛車を発見したらしい。 それを知り、必ずの報復を誓ったエンペラーのメンバーらではあるが、相手の姿が見えないとあっては手の下しようがない。怒りの遣り場をなくしたまま、緊張感を漂わせながらの翌日を過ごしていた。 そしてこの日の晩。特段の用がない夜の習慣に従っていろは坂に向かった速見は、赤エボを明智平駐車場に滑り込ませた途端、血相を変えた清次に詰め寄られた。 「速見ッ―――」 「なによ」 「てめェ今日一日どこ行ってた!?連絡しても出やがらねェで。例の連中が動き出してゆうべ二台潰されたんだぞ!!」 「……ああ、あれか」 「あれか、だとォ!?」 胸ぐらをつかみ上げる勢いで問われた速見が、何だ、と拍子抜けしたような顔をするのに、清次が食いつきそうな形相を見せる。 「朝イチで京一さんから洗い出しのオーダーは受けてる」 「―――そうなのか?」 今度は清次が拍子抜けする番であった。それを聞いて瞬間の怒りは解いたものの、相手の胸ぐらをつかんだまま疑わしそうな目を向けた。 「嘘言ったって仕方ねえだろ」 いいからまずはその手を離せって、と速見が清次の腕を掴んで外させた。 「今日はそっちにかかりっきりだったんだよ」 エンペラーのサードでもある速見は、チーム内では主に情報収集とその処理を担当している。 目を引く長身とそれに見合う体格を持つものの、肩まである柔らかな茶髪と人当たりのいい笑顔は一見、強面の男が多いメンバーの中では珍しいほどの優男ぶりだった。しかし間違いなくエンペラーの構成員である。その外見に騙されていると痛い目を見る事になる。 そして今回の件でその能力を遺憾なく発揮した速見は、この時すでに事件のあらましを手にしていたのだった。 相手はいささか頭の悪い連中だったらしく、秘密裏の行動を狙っているようでもいくつか穴が残されており、チームの数人を使って痕跡を辿らせた結果、管制塔たる速見の目には歴然たる事実が浮かび上がってきたのである。 だがエンペラーの男達は荒くれ者揃いであり、目には目を、の法則が公然としてまかり通りがちであった。 それがささいな小競り合いであれば適当なガス抜きとして黙認するが、今回の場合は事が事である。犯人の情報がチーム内にもれた場合、双方が血の海になりかねない。 ゆえに、速見は情報を拾わせた数人に対して固く箝口令を敷き、手にした結果は京一にしか報告していなかった。 「で、分かったのか?」 「んーまぁぼちぼちと」 「どこの奴らだ」 「網張ったからな……そろいぶし出されてくる頃だろ。京一さんもそれを待ってるはずだ」 身元が割れたという答えを巧妙に避けながら、速見がチームのセカンドに状況を伝える。 「おい清次、相手が見つかったとしても先走るなよ?」 「分かってる!俺が暴れて済む話ならとっくに―――」 声を途切らせた清次が、そろりと速見を振り返った。 「―――あのよ。ブチのめしちまったら……やっぱりまずいと思うか」 どうやら京一に直接そう申し立てる事は避けたいらしい。 サードとはいえ速見からの仮承認を受けておけば、うやむやのうちに正当化できはしまいかと考えたのだろう。 ―――だからお前には言えないんだっての。この単細胞が。 と思っても口には出さない、自己保身能力に長けた速見である。 「お前な……オレに責任なすりつけるつもりか。汚ねえぞ」 「ううう、うるせェ!」 言い当てられて清次が唸る。 「どっちにしたってそりゃまずいだろ、お前が表立って騒ぎを起こしたら京一さんに迷惑がかかる」 「……だよなァ。けどよ……どこのどいつだ。俺達エンペラーに喧嘩ふっかけようたァいい度胸じゃねェか」 清次の眼がぎらりと光った。敵味方かまわず手当たり次第に周囲の者を噛み殺しそうな獰猛さを潜めた気配が、大柄な体躯からゆらりと立ちのぼって膨れあがる。 正体の分からぬ相手に仲間の車が潰されたことへの怒りもあるが、手に掛けられたのが自分と同じ白エボだということで、更に怒りを煽られているようだった。 「落ち着けって。ほら身元が割れたらバトルして片をつけるって手もあるしよ」 せいせいどーどーと、さ? とは言いながらも、そんなまともな手段で収めてやる気も更々ないエンペラーのサードではある。 「ああ?潰し屋みてェな連中だぞ?まともに取り合ったところで馬鹿を見るのァこっちだろうが。だいたいそいつらが正面切ってバトルに応じるわけねェよ」 凶悪な表情のまま、清次がペッと地面に唾を吐き捨てる。 「………まあねえ」 そのバトルの相手がお前を潰そうとしてやったんだよ。 どれだか分かんねえからウチのステッカー貼った白エボを手当たり次第に、って頭の悪さだったけどな。 ―――って言ったら。 やっぱりブチ切れて飛び出すんだろうなあ、こいつ。 「明日の晩は群馬の連中とバトルだろ?」 速見は胸の中でそう確信しながら、それとなく清次の関心を逸らそうとする。 こちらからの申し込みだとはいえ、仮にも先方は受けて立ったのだ。 なのに、バトルを前にしていきなり牙を剥いて襲いかかってくるとは。それも身を隠しての背後から。 おおかた、申し込みを受けたはいいが、後からエンペラーの噂を聞いてこれは負けるとでも思ったのだろう。 ―――今さら怯えたって遅えんだよ。 やる前から投げてんじゃねえ。 真っ向からの正当な申し込みに対して、ここまで汚い手を使われたのだ。逃がしはしない。 だがやり方というものがある。 バトル―――表の勝負は清次にまかせておけば間違いはない。 清次なら確実に獲物を仕留められる。 それと知らずとも完膚なきまでに叩き潰すはずだ。 そして裏は―――。 ―――京一さんがどうでるか、だな。 「ダウンヒル一本だったよな。どうよ、調子は」 「ああ?……別に。調子はいつもいいぜ」 胡散臭そうな表情を見せながらも、しぶしぶと清次が提供された話題に乗ってきた。 速見の真意を知らずとも、それは京一が押し進めている計画の一端である。 当然ながら、白星を勝ち取ることしか清次の頭にはない。 「だけどよ、あんなちっせェ峠で最速気取ってるような、つまんねェ連中だぜ?やる気起きねェよ」 チームがこんな時によォ、と清次が苛立たしげな口調で吐き捨てた時。 「―――どうした、走らねぇのか」 背後から聞きなれた声が投げかけられた。 耳にした清次が、怯えたようにびくりと身を揺らす。 「―――やる気が起きねぇだと?」 恐る恐る振り返ると、背後に京一が立っていた。 「じゃあ何しにここへ来た。無駄話をするためか」 双眸の冷たい光が清次を射抜く。 凍るような視線。 「明日は他の奴を出した方がいいのか?もしくは……俺が出ても構わねぇが?」 低い声で問う。 こういう時の京一は本気だった。 走ることにかけては一切の妥協を許さない。 もちろんバトルに関しては清次も生半可ではないプライドの持ち主である。鍛え上げた技術と戦績に裏付けされた自信と矜持があり、それは京一も知るところだった。 だがたとえどんなに約束された腕があろうと、どんなに脆弱な相手だろうとも勝負となったら全力で叩き潰す。 それが相手への礼儀であり。また―――。 当然ながらひとつの失敗も許さない。 敗北を喫することは、万に一つも。 それだけの気概がないのであれば去れ―――今すぐに。 京一の眼はそう言っていた。 「ち、違う―――京一ッ!!」 清次の顔面からは血の気が引いていた。 「違うッ―――!!やめてくれ京一、俺を使えッ!!」 切羽詰まった表情の清次が、必死の眼差しで訴える。 「………頼む、京一……頼む!」 頼む――――――!! 狂おしい目の色で京一を見つめた。 何事であれ押さえるべき要所要所は必ず自分で押さえ、決して人任せにすることのない京一である。 譲らないその気性を知っているからこそ、エンペラーの公式記録に残すようなバトルにおいてオーダーを受けるのが常に自分であることに、清次は誇りを持っていた。 京一から受けたオーダーには必ず結果を出す。 自分にはそれが出来る。 そして清次は、京一が自分に対してそこに価値を見いだしていることも知っていた。 反対に言えば。 ―――京一にとって俺の価値は……そこにしか……ねェ。 降ろされるわけにはいかない。 京一にとって無用の存在になることだけは―――耐えられない。 うつむきそうになる自分にギリ、と奥歯を噛みしめながら面を上げ、清次が京一を凝視する。 「それなら―――くだらねぇ話にいつまでもうつつ抜かしてるんじゃねぇよ」 追い打ちをかけるかの如く、冷たい声が容赦なく清次に突き刺さった。 「……わ、分かった……すまねェ」 「あっちの件は俺が考える。お前が気にすることじゃねぇ。いいな」 「……ああ……」 それでも京一をじっと見つめていた清次は、行け、と顎を振られてようやく背を向けた。 走ってくる、と低い声で言って白のランエボへと踏み出したその足取りはいつもと変わらぬように見えたが、おそらくは悄然と肩を落としたいところであったろう。 だがそうと知られるような素振りを見せなかったのは、清次の、自分自身に対する最後の矜持であったに違いない。 |
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