正しい車載カメラの使い方 |
ダンッと愛車のシートに腰を落とす。 「あの野郎、すっとぼけやがって」 速見は、京一の双眸の奥に走った影を見逃してはいなかった。 あんなもんに捕まったのか、清次。 あんな。 他人を―――どころか。 自分のことすら愛せていないような男に。 「大馬鹿ヤロウが……ッ」 フロントガラスに向かって罵声を投げつける。 「お前のお陰でまた男とキスしちまったじゃねえかよ。それも舌まで入れて」 髪の中に突っ込んだ両手でがしがしと頭をかく。 「嫌がらせもほどほどにしときゃあよかった」 確かにオレが自分で言ったさ。言ったぜ? だけどよ―――。 「……まさかホントにキスする羽目になるとはな……」 自他共に認める女好きは、目眩を覚えながら呟いた。 おまけに。 「……念の入ったことに舌絡めてたよな、オレ」 うげえええ。信じたくねえ。 有言実行を売り物にしているとはいえ、自分の為した所業を思い出すと気が遠くなりそうだった。 「やっちまった事はまぁ仕方ねえけどよ」 今頃になって襲ってきた衝撃に打ちのめされながらも、速見はあきらめの息を吐く。 ―――けどな。 「お前の気持ちも分からないじゃねえよ、清次」 あの、鋼の双眸に射すくめられて身の裡に湧き出す快感を思う。 世のことわりに囚われず、己の定めた価値基準にしか従わぬ速見のような男でさえ引き寄せられてしまうような何かが、確かに京一の中にはあるのだ。 捕らえた躰をふと手放したくなくなって、口吻けを深くしてしまうぐらいには。 「いや……これは」 あの男の中に潜むものを引きずり出してやりたくなるこれは。 それを引き裂いて握り潰してしまいたくなるこれは。 「―――違うのか?」 こみ上げる破壊衝動。 「まあどっちでもいーけど。……だからって」 分かってどうするよ、オレ。 「……って気もする、な」 強靱にすぎる鋼へ自らを打ち込んで、割り砕いてみたくなる。 その身を抱きすくめ、苦悶の声をあげさせてみたくなる。 だが、この手に捕らえてやりたいと欲望を抱かせながらその実―――目に見えぬ網に絡め捕らえられているのはいつしか自分自身。 「思考回路がヘンよオレ?」 浮かんだ考えの寒さに耐えきれず、ぶるりと身震いした速見は自分で自分にそうツッコミを入れる。 けど、それってさ。 「オレもいい加減……やべえってこと?」 ははは―――と笑った声は我ながら間抜けた響きに聞こえた。 ゆっくりとクラッチを踏みこんでギアを入れた。 踏みつけた左足をそのままに、シフトを握った拳を再度、手前に引く。 「…………ど畜生がッ―――!!」 速見のその叫びは。 ドンッという衝撃とともにフル加速で急発進したボディが発する轟音の中でかき消された。 帰り着くまでの間に頭の切り替えを終えた速見がアパートの駐車場に赤エボを滑り込ませてみると、そこには、嫌と言うほど見覚えのある白のランエボが停まっていた。 「………………なんだあれは」 唇に貼り付けていた煙草を大きく吸い込むと、盛大に吐き出した。 車内にもくもくと白い煙が立ちこめる。 「今日は厄日か?」 思わずぐらりと目眩を覚えていた。 「なんでここに来るんだよ」 ―――ったく世話の焼ける主従だぜ。 だが、まあ―――。 「ここに来たってこたぁ、あいつもそろそろ……限界、か」 赤エボから降り立った速見は、自分の部屋のあたりを見上げながらバタンとドアを閉めた。 半ば覚悟を決めながらカンカンと階段を上がっていく。 案の定、部屋の前では見慣れた大柄な人影が佇んでいた。 「よう、どうした」 軽い声をかける。 「…………いや」 低く言う清次の目は、速見の視線を避けているようにも見える。 「まあいいさ、ここまで来たんなら上がってけよ。断っとくが汚ねえぞ」 清次の躰を押しのけてドアを開け、自室の中へと足を踏み入れる。 壁を手探りして照明のスイッチを入れると、雑然とした部屋の中が煌々と浮かび上がった。 「………ホントに汚ねえな。物が散らかりすぎだ」 「放っとけよ。お前に言われたくはねえ」 自分で言っておきながら気分を害したらしい速見が、清次の尻を蹴飛ばした。 「何だよこのごちゃごちゃしたモンは。……乱数コード変換……び?…ええと何だ?」 部屋の壁際には厚みのある本が山と積み上げられている。 「仕事に使うんだよ。まあそれ以外にも色々とな」 蹴られた尻を撫でさすりながら読めねェと首をひねっている清次の手から、速見が資料を取り上げた。 「んあ?色々?」 「チームのだよ」 「そういやお前―――そうだったっけな」 速見が担っている役割を思い出した清次が、よく分からぬままでも何となく納得する。 「よー清次、何飲む。ツマミがねえけど構わねえ?」 冷蔵庫を開けて中をがさごそと覗き込んでいる男から陽気な声が飛んできた。 「……相変わらず脳天気な声出してやがんな」 相手のあまりな朗らかさ加減に、今の自分のささくれ立った気分を思い出した清次が地の底を這うような声を出す。 「まあそれがオレの身上だからな」 はははははと笑う声を耳にしながら、清次はこの男と出会った夜のことを思い出していた。 「……速見」 「なによ」 清次の口調に何かを感じたのか、背を向けたままの速見が手を止めた。 背後で人が動き出す気配。 「………」 「お前ねえ―――なに煮詰まってるんだか知らねえけど」 缶ビールを二本取り出して横にあるシンクの上に置くと、冷蔵庫の扉をパタンと閉める。 「……速見」 背後から抱きすくめられて、ゆっくりと動きを止めた。 「―――ふぅ」 背にした熱い躰に、あきらめにも似た溜息を吐く。 「………」 無言のままに肩の上へと乗せられた重み。 視界の隅に艶のある黒髪が映る。 「どうした?」 聞いても、額を当てている清次からはいらえがない。 「……速見」 「―――分かったよ」 名を繰り返すだけの男に白旗を振った。 「………」 「お前って、ホント要領悪いよなあ」 「……………何だよそれ」 ようやくのことで清次が口を開いた。 「ま、俺はそういうのも嫌いじゃねえけどな?」 もちろん限度ってヤツはあるけどよ、と前を向いたままで速見が笑う。 「…………すまん」 くぐもった声が背中から聞こえた。 「何にもしてねえのに謝ってんじゃねえよ」 「……なら……よ」 「ああ?」 「……謝らなきゃいけねェような事……してもいいか?」 「してもいいかって……お前ね」 ―――一気に気力が萎えること言いやがって。 「そんなんで足りる話でもねえだろ?オレでいいのかよ」 「だってよ。お前には最初っから見られてるじゃねェか」 半ば自暴自棄な口調。 「見られて、じゃねえだろ。最初っからヤってたの間違いだろうが」 くつくつと速見が意地悪く笑った。 それには黙ったまま、背後から男が手を伸ばしてくる。 ざらりとした手にシャツの下を探られた。 肩にかかる柔らかな茶髪をかきわけた熱い唇が、首の後ろに押しつけられる。 「速見……ほんとに………いいのか?」 胸板の上を這いまわり始めたその手がふと、止まった。 「ダメならお前は今ごろ蹴り出されてるだろ」 「……でもよ……」 男の手に撫でまわされ、肌を吸われているという気色の悪さに全身を鳥肌立てている速見の嫌悪を感じ取ったのだろう。清次のその口調は弱い。 「京一さんの方がいいか?そりゃそうだよな」 「……お前?」 声には、何故その名を今ここで出す、との非難の響きが込められていた。 動きを止めた清次の腕から抜け出した速見が振り返り、一歩を下がる。 「乾いてて……冷たい唇だったっけな。中は熱いのに」 そう口にした男の目は、清次を見ている。 「……何の……ことだ」 愕然としたような声は、その目に本能的な何かを悟ったのだろうか。 「お前……まさか、京一に……何か―――」 速見がペロリと舌を出して唇を舐める。 清次の目がそれに吸い寄せられた。 薄い色をした唇の端に、小さな紅い噛み傷。 ……………? 女を扱うことにかけては手練れのこの男が、そんなヘマをするはずが―――。 清次がカッと目を見開く。 京一、か――――――!! 「てめェッ!!」 ダンッ―――!と壁に向かって突き飛ばした。 「その気になったか?」 速見が人を食ったような笑みを浮かべてみせる。 常日頃から見慣れているそれが、こんな時には清次の感情を逆撫でした。 「…………許さねェぞ」 歯の間から食いしばったような声を洩らす。 「許さねぇだと。ふん、それなら―――どうする」 鼻先で嘲笑った速見が、ゆっくりと口の端を吊り上げた。 清次を見おろすような―――どこか京一にも似た冷たい笑み。 「―――こうしてやるよッ!!」 それを見た清次の怒りは瞬時にして沸騰し、あっけなく臨界点をこえる。 目の前の男に身代わりをさせることへの罪悪感を吹き飛ばされた清次が、手始めにと速見の顎を鷲掴む。 「―――犯してやる……」 唇がひき歪み、残忍な表情に彩られていた。 欲望を叩き付けるべく、暴力にも似た力で唇を割った。 残る手でシャツの前を引きちぎる。 ブツ――――――ッ! 速見の胸元から、いくつものボタンが悲鳴をあげながら飛び散った。 ドォオオン、という重低音が駐車場を出ていくのが耳に聞こえ、馴染んだそれがすぐに遠ざかっていく。 「……行った、か……」 疲れたような声が呟いた。 「――― ッ」 長い脚を床に投げ出し、背を寄りかからせていた壁から身を起こそうとした速見が、低いうめき声をあげる。 躰の奥に残された、痛みを伴う深いうずき。 「ヘタクソが」 顔をしかめながら吐き捨てる。 床の上には、無理矢理に追い上げられて速見の放った白濁が散っていた。 「おまけに単細胞ときたもんだ。手もなく芝居に引っかかりやがって」 引き裂かれたシャツの合間から覗く肌には赤い擦過傷がいくつも走っている。 「ったく馬鹿だよなあオレも」 ヤキが回ったのかね。 「こんなにお人好しのつもりじゃあ無かったんだがな」 申し訳程度に躰へまとわりついているシャツの残骸を見おろした速見が、あーあと肩をすくめて天井をあおいだ。 「まぁ、自業自得なりに…こういうのも悪くはねえけどよ」 苦笑する。 「だがまぁ……欲しかったもんが手に入った」 ―――ってわけじゃあねえもんな。 お前に入り用なのは―――欲しかったのはオレの躰だろ。 「だがな……オレはお前と寝たいワケじゃあねえんだよ」 オレが欲しいのは―――欲しかったのは。 違うもんなんだ。 「お前みたいに……アイシテルってヤツならまだ手はあるんだけどよ」 ―――けどまぁ、それも。 「あの人が相手じゃそうも言ってられねえのか」 まったく厄介なもんだよなぁ清次、と苦く笑った。 京一が―――。 欲しいなら持って行っていい、と言った時。 その双眸の奥に走ったものを見逃してはいなかった。 なのに―――。 それでいいのか、と聞いた速見に。 俺のモンじゃねぇ、と言ったのは―――いつもと変わらぬ声だった。 殴ってもいいかと聞いた自分に。 ああ、と答えた男は―――静かな表情だった。 走ったのは諦観の彩。 あの男は―――。 ぐっと拳を握りしめる。 京一の胸ぐらを掴み上げた時と同じように。 オレは、あがく前からあきらめるなんてことはしねえ。あきらめ悪くあがいてやる。むろん、代償もなしにそれが手に入るなんて都合のいいこた思っちゃいない。 本当に欲しいもんがあった時には―――。 それを手に入れるためなら、自分の何を失おうとすべて捨ててやる。 そしてようやく捜し当てた場所に何もなかったら―――。 その時初めて、オレのしてきた事は無駄だったのだと言えばいい。 だがあれは―――あいつは。 清次は手に入らない。 網にかけて捕え―――縛りつける手段ならいくらでもあるが―――奪えない。 それに奪ってはいけない。 あの何も持っていない男からは。 オレはあの男よりも遥かに恵まれている。 なによりオレは―――欲しがることを知っている。 「知っているんだよなあ、オレは。……でもあんたはそれすら―――」 言いようもなく重苦しい疲労に全身を支配されていた。 「……こういうのも敗北感……て言うのかね」 やりきれぬように呟いた速見が、髪をかきあげたその手でがり―――と頭をかく。 これ以上の深みにはまるのは御免だった。 望みもしない弱味を持たされるなんざ冗談ではなかった。 ―――だけどオレはあの時……あの眼を見ちまったんだ。 初めて目にした時から自分を捕らえて離さなかった清次の眼。 苦悶を抱えながらも歪みを知らぬ―――強い眼だった。 とうに自分が捨ててしまった、まっすぐな視線。 どういう時であれ―――。 最後まで、自分の大事なものを捨てずにいられるだけの強さを秘めた男の眼。 大切なものを抱えたまま、自分も生き残ることが出来るのはああいう奴なのかも知れない。 遠い昔に自ら捨ててしまった眼。 痛みを覚えるほどに、まっすぐな。 子供の頃に持っていた宝物箱を思い出す。 何が入っていたのかは、忘れてしまった。 ただ―――。 大事なものが。心躍るものがたくさんつまっていたことだけは覚えている。 ―――自分の生き方に後悔なんざねえが。 お前にはずっとその眼をしていて欲しくなる。 ずっと見ていたくなる。 「あんたに頼むのは筋違いなんだろうが―――頼みたい気分だぜ、京一さん」 ここにいない男へ向かって、速見が語りかける。 「それにな……あんたも」 ―――少しは欲しがることを覚えた方がいい。 手を伸ばすことを。 ふと思い出したように顔をしかめた。 「……どっちを助けるかだと?」 ああ、あんたを助けてやるさ。 それがあんたにとっては救われたことにならなくともな。 「谷底へ落ちて楽になりたいってんなら―――」 ふん、と鼻を鳴らす。 「―――意地でも引き上げてやる」 何せオレは天の邪鬼だからな。 「あんたを…今のまんまで死なせてなんかやるもんかよ」 京一の後ろ姿が脳裏に浮かんだ。 それとは悟らせずに拒絶を張り巡らせた男の背。 「―――確かにあんたは人間だけどな」 遠ざかろうとする背中に視線を投げながらそう言って。 「それだけじゃあ……人とは言えないんだよ」 やるせないものを唇に浮かべた男が、かすかに笑う。 身を起こすことをあきらめて、壁によりかからせている躰からぐったりと力を抜いた。 「……清次」 ず、と壁伝いに沈み込みながら、掠れた呟きを洩らす。 「手を………離すなよ」 離すな。 一人きりで谷底へ落ちたがっているあの人の手を。 離すんじゃねえ。 「………いいな」 速見は言って、ゆっくりと目をつぶった。 ― 了 ― |
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