正しい車載カメラの使い方


    5 








 翌晩。十一時、PM。
 栃木。日光第二いろは坂、終点。
 満天の星空いただく明智平駐車場にて。

「よーッす。あれアキラ、今日はもう上がりか?」
「お疲れさまッす。入れ違いですんません、お先」
「ちょい待ち」
 今晩は思うように調子が出ないのか、まだ早い時間だというのにそそくさと帰ろうとする青年の襟首を、速見が後ろから掴んで引き止めた。
「はい?」
「これ、京一さんか?」
 青年の襟ぐりに見え隠れしているものに目ざとく気付いた速見がふいと身をかがめ、唇を近づけてその紅い痣の上をやわらかく吸った。
「―――んっ………うわッ!?……なッ、な―――ッ!」
 あたたかい唇がもたらす心地よい感触に、思わず掠れ声をあげてしまった峰岸が我に返って悲鳴をあげる。
「そんなに嫌がらなくても」
 青年からするりと身を離した速見は、もう何もしねえよと両手を挙げて身振りで示しながら、傷ついたような表情を作って見せた。
「……速見さん…も…そういう人だったんすか?」
 峰岸が恐る恐る振り返る。
「いーや?俺はオンナノコ専門―――いちおうね」
 にっこりと笑った男に。
「何すかその一応っていうのは―――ッ!!」
 青年が恐怖に耐えきれず絶叫する。
「胸はまっ平らでケツは硬え、突っ込もうにも濡れねえから挿れるまでに手間ぁかかる、おまけにオレと同じモンぶら下げ―――違う、おっ勃ててるヤツ抱いて何が楽しい?」
「……た、立て板に水……ですね」
 紙のような顔色をした峰岸が呆然とつぶやく。
「まあ試したことはあるからな」
「うわぁあああ―――っ」
 更に絶叫をあげて逃げ出そうとした峰岸だった。
「お前、過剰反応してるぞ」
 猫の仔をつまむようにして襟首を掴み上げた速見が、大丈夫か?と心配そうに青年の顔を覗き込んだ。
「誰のせいですか!?」
「寄って来たから食ってみただけだって。食わず嫌いはいけねえからな」
「……みただけ、って、そんな……食わず嫌いって……なんか違う……ぜったいになんか違う……」
 峰岸がうわごとのようにブツブツと呟く。
「しっかりしろって。オレがついててやるから。な?」
「……な?って言われても…いや…その…」
―――ついてるから危ないんでしょーがッ!
 とも言えずに、引き攣った笑いを見せるしかない峰岸だった。
「ほんとに大丈夫か?」
「速見さんに言われたくはありません!!―――!!昨日もオレを人身御供にしたくせにッ!!」
 そうだと思い出した峰岸が年上の男に向かって噛みつく。
「―――ほーお。言うねえ?」
 速見はにっこりとその顔に極上の笑みを浮かべてみせた。
「……ひ」
「―――で、どうだった?」
 恐怖に引き攣る青年の耳元で、ひそりと囁く。
「う……あ……?」
「京一さん、優しかったろ?」
「……あ…………は……い」
「憧れの京一さんが、お前のことだけを見てくれたか?」
「…………は…い」
 誘導されるようにして青年がこくりと頷く。
「お前もよかったんだろ?」
「……そ、それは……」
 言ったっきり赤くなって、ゆうべのめくるめく夜の記憶の中に突入してしまったらしき青年の肩を、速見が励ますようにしながらぽんぽんと叩いた。
「優しくて誠実で巧くて一晩の愛を語るならもってこいの男、ね。へえ」
―――生の情報提供ありがとよ。
 仮置きしてあった情報を、検証終了として頭の中のデータベースに更新した。
「……京一さんにオチたか。まぁ御大自らに手え出されたとあっちゃあ無理もねえよな」
 あっち側に行く、にオレ確か三千円賭けたよなぁ胴元誰だったかなぁ、と口の中で呟いた速見は、固まったままの青年を見てにやりと笑った。
「京一さんを抱きたいっても難しい話だからな。寝たいってんなら、ヤられる方でよかったんじゃねえの?」
 面と向かってあられもないことを口にする。
「……な、なんてことをッ!―――速見さんッ」
「もう一度抱かせろって言われたら断らねえだろ?」
「…………ッ」
「あーあー。あの人も罪作りな」
 かっと頬を染めた峰岸に苦笑した速見は、羞恥にか怒りにか震える青年の肩をもう一度ぽんと叩いて背を向けた。
「にしても。どこでも似たり寄ったりの話はあるが」
―――ここは特に多くねえか?
 やだねえ。
 今回の件では自分も一枚噛んでいたというのに無責任なことを口にした男は、賭けを仕切っていた男に自分の権利を主張すべく、姿を求めて駐車場内をうろつき始めた。
「あ、京一さん」
 途中で行き会ったリーダーの姿に、ふと思いだしたような顔つきで呼び止める。
「アレ、刷り上がりましたよ」
「―――見せてみろ」
 速見から手渡された紙束を、京一の節の張った長い指が機械的な動きでざっと繰っていく。
「よく撮れているな」
 どちらの顔も、知っている者が見れば一目瞭然だった。
 そこに清次が通りがかった。
「何だよそれ」
 興味を引かれた顔つきで京一の手元をのぞき込む。
「な、んだ……これは?―――ッ!!ゆうべの……か」
 男女が絡み合う写真を見て愕然としたような声をあげた。
「そうだ」
 写真を確認する京一の目に好奇の色はなく、事務的な視線だけが一枚また一枚と紙の上を通過していく。
「―――そうだ、じゃねェだろ京一!?」
「うるせぇ。耳元でがなるな」
「…………これ、どうするんだ?」
「向こうに送る」
「見せるのか!?」
―――お前の裸を。
 他の男に。
「見せなきゃ撮った意味がねぇだろう」
 何を当たり前の事を、と京一が平然としながら返す。
「………京一だって……映ってるじゃねェか」
「映ってなけりゃあ意味がねぇ。何を言っている?」
「そうじゃねェよ!服着てねェだろ!?」
「ヤってたんだから当たり前だろうが。だいたい男のヌードなんか目に入るか。あっちにとって意味があるのは自分の女と俺の顔だけだ」
「そういう意味じゃねェよ!!」
 もどかしそうな口調で言った清次だったが、苛立ったような顔で口をつぐむとふいときびすを返し、そのまま背を向けて歩き去って行ってしまった。
「何だったんだあいつ」
「えーと?……で、どうします」
 受け流した速見が、それ、と京一の手の中を指さした。
「さっき言ったろう―――送りつけておけ」
 撮れと命じた男が、うすく笑いながら次の命を放つ。
「最初っからそういう風に使うつもりだったんスね」
「ああ」
「あんたもいい加減えげつねーな」
「お前ほどじゃない。
 Nightmare―――head,Hayami。
 京一は、ここへ来る前に速見が率いていたチームの名を口にした。
「うっわ、こええ。エリア違うのによく分かりましたね」
「関東圏内なら俺もそれなりのツテは持っているからな。お前のそれ―――」
 と、京一は速見の右手首を指さした。
 そこには幾重にも銀鎖が巻かれている。その一端には小ぶりの球体が揺れていた。
 重みのありそうな金属光沢。
「珍しいと言っただろう。それで分かった」
「控えめなモンに変えてみたんですが」
「そうだな……当時と同じ品ってわけでもなさそうだ」
 値踏みするような目を当てながら京一が言った。
「調査済みってわけッすか」
「悪く思うなよ。得体が知れねぇモン置いておく趣味はないんでな」
「まぁそうでしょうね」
 上に立つ者としては当然だろうというように、速見が肩をすくめてみせた。
「こっちに渡ってきたのは―――何故だ?」
「さあ―――何ででしょーね」
「他の奴らには適当に合わせているだけのお前が、清次のことは気に入っているようだな」
 気に入ってる、と速見が京一の言葉を口の中で転がした。
「素敵な表現ッすね。まあアイツはからかうと面白えし」
 誰に対しても同じように愛想がよく、八方美人的な世渡りのうまさで軋轢なくチーム内外の役割をこなしている速見が清次に対してだけは容赦がない。
 どちらかと言うと暇つぶしがてらにつつき回して怒らせて―――遊んで楽しんでいる感ではあるが。
「それだけか?」
「どういう意味ッすか」
「ただのたとえ話だが―――」
「……何です」
「崖っぷちで俺とあいつが落ちそうになっていたら―――どっちを助ける」
 ヒョオッと口笛を吹きそうな顔で目を丸くしてみせた速見が、いつもと同じような人を食った笑顔に戻って口を開きかけたところに。
「両方ってのはナシだ。―――無理に聞こうとも思わない」
 先を読んだように京一がさえぎった。
 答えるも答えぬもお前の自由だ、とその眼は言っていた。
「……あんた、イヤな人ですね」
 そう言った速見が、見慣れた仕草でひょいと肩をすくめる。
「答えられないか」
「いーや?」
 速見はしょうがねえなというような苦笑を浮かべた。
 京一は何も言わずに速見を見ている。
「あんたを助けますよ、京一さん。清次もそうしろと言うはずだ」
 迷いのない口調で、あっさりと男が答えた。
「役目のことじゃねぇ」
「分かってます。オレもそういうつもりで言ったんじゃない―――あんたを助けます」
「奴は落ちるぞ」
 京一は、続く答えを待つような目の色を見せていた。
「………」
 速見の笑みがゆっくりと奥に消えていく。
「――― 」
「――――――」
 二人の男の間に、深い沈黙が横たわった。
 それでも無言のままを見せる京一に、下を向いた速見がくつりと笑う。
 凄惨な気が漂った。
「あんたを引き上げた後で―――俺も落ちてやるよ」
 面をあげた男は、能面のような表情を京一に向けた。
 いつも人を食ったようなふざけた笑みを浮かべている男だったが、元の造りが整っているだけにそうした表情を浮かべると非人間的な顔立ちとなる。
「―――そうか」
 だがそれを聞いても、京一は顔色ひとつ変えなかった。
「驚かねぇんだな」
 感情の欠け落ちた男の声が、夜の中に低く流れる。
「お前ならあるいは、と思っていたからな」
「つくづくイヤな男だ」
「悪かったな。よく言われる」
「まぁ、そうだろうな」
「―――欲しいなら持って行っていい」
「あんたはそれでいいのか」
「俺のモンじゃねぇ」
「………一発殴らせてもらってもいいッすか、京一さん」
 最前の表情はもうすでに跡形もなく、速見が見せているのはいつも通りの捕らえ所がない笑顔だった。
 ゆっくりと左手で京一の胸元を掴みあげる。
 ス―――と右の拳を自分のこめかみの横に持ち上げた。
「……ああ」
 その答えを聞いた速見がチ、と鋭く舌打ちをする。
 拳を降ろし、京一の胸元を掴んでいた腕から力を抜いた。
 問いかけた男は本気だった。
 そしてそれは答えた方も同じだったのだ。
「あんたはそう言うと思ったよ」
 胸元を掴んでいた手に再び力をこめて京一を引き寄せた。
 ゆっくりと口吻ける。
「…………」
「…………ツッ」
 唇を噛み切られた速見が、口元を拭いながら身を離した。
 手の甲が鮮やかな朱に濡れている。
 顔をあげると、京一の双眸に出会った。
 相手を射抜くような鋭い視線。
 もう一度、無言のままでぐ―――と京一を引き寄せて、強引に唇を合わせた。
 血塗れたキス。
 歯列を割って滑り込んだ速見の舌が、京一を絡め取る。
 口腔内に、鉄錆びた―――甘い香りが充満した。

「虫けらどもの掃除代ですよ。あんたのキスって言ったでしょう」
 とん、と京一の胸を突き放した速見がきびすを返して背を向けた。
「殴るのはやめたのか」
「あいにくとオレは天の邪鬼なタチでして」
 足を止めた男が肩越しに振り返る。
「殴られてもいいと思ってるヤツを素直に殴ってやるほど人が良くねえんです」
―――免罪符代わりにされてたまるかっての。
 声には出さず吐き捨てる。
「それで……これか?」
「好きに取ってください」
 あんたが自分のことを知ってるんならいい。
 そう言うと速見は歩き去っていた。
「……知ってるさ」
 その背を見つめながら、京一が低く呟いた。