Stigma |
一見したところではそうと分からなくとも、京一は起きた時から不機嫌だった。 その原因は、眠りとも言わないような、ただ身体を休息させる為だけに横になり瞼を閉じるごく浅く短い微睡みから覚めた瞬間、不幸にも真っ正面から目の当たりにしてしまった集積物にあった。 ただでさえ鋭い眼光を更に強く増した、険悪とさえ言えるような目つきでそれらを睨みつける。 昨夜帰宅してからこっち、部屋の一角に転がしてあるそれらが視界に入る度に、繰り広げられた馬鹿騒ぎを思い出すハメになってうんざりとする。 そちらの方角を見なくて済むようにとベッドの上でゴロリと転がって俯せた京一は、手を伸ばしてベッド脇のサイドテーブルの上を探り、煙草とジッポを取り上げると朝の一服に火を付けた。 「いつまでブスったれてるのよ、京ちゃん。いい加減にあきらめたら?」 リビングソファに深く腰掛けて組んだ両脚を斜めに流し、コンパクトの小さな鏡を見ながら器用に化粧をしていた華音が、呆れたように言った。 ベッドのある私室とリビングの間のパーテーションを開放してある今、かなり広いスペースとなった南向きのこの部屋とベランダとを仕切る、総計四枚のガラス戸をしっかりと覆う遮光カーテンは、華音のいるソファのあたりにのみ光が当たるようリビング側だけが開けられている。 そこから差し込む溢れんばかりの陽光が、フローリングの床の上でくるくると踊っている。京一の周辺は、未だ薄暗い紗の中に包まれていた。 引き締まった浅黒い躯の下半身を白いシーツで覆っただけの姿で気怠く俯せに寝そべったまま、両肘をついて上体を起こし、緩い紫煙をくゆらせ始めた京一へ華音はチラリと目をやった。 火口だけが薄暗がりに明滅し、ボウと赤く光っている。 恐らく仏頂面なのであろうその表情は見えないが、こちらに背を向けている京一の筋骨逞しく隆起している肩のラインがわずかに強張っているのでそうと知れた。 付き合いの長い華音だからこそ分かる事もある。 「人事だと思って気楽に言ってるんじゃねぇよ」 フィルターを噛み潰しながら京一が、苦々しそうに口を開いた。 「人事だもの」 紅筆を取り上げながら華音が、楽しそうに笑う。 「欲しかったらどれでも持ってけよ。何なら全部でもいい」 振り返ることもなく背を向けたまま言った京一は、ヒラヒラと片手を振った。 「……そんなにいらないけど。どれならいいの?ところで京ちゃん支度は?」 明るいローズカラーを紅筆に乗せながら華音が尋ねた。 「今するさ。―――知るか。そんなもん。どれでもって言ったろ?」 躯に纏わりつくシーツを撥ね除けながらようやく起き出してベッドから降りた京一は、煙草を唇の片端に貼り付けたまま、足元の床に散っている服を拾い上げて手早く身につけていく。 「だって……。くれた相手によっては……とか。ほら」 言葉を選びながらも、思案する顔で部屋の隅に置かれた茶色の段ボール箱から溢れている物体に視線を向けた華音が、無駄と知りつつも京一の同意を求めようとする。 「何がほら、だ。どれが誰からだなんて覚えてる訳ねぇだろうが。大体、相手によって何の関係があるんだよ?」 京一は、銜える煙草の煙が目に染みたのか、しかめた顔をふいと背けながら言った。 実際は覚えていない事もなかったが、思い出したくもなかった。 「ひど……」 京一の気持ちも分からないではないが、京一でない者の気持ちもまた分からないではない華音が、手を止めて小さく非難の声を上げる。 「無駄口叩くのはいい加減にしろ。早くしねぇと置いてくぞ」 身支度を終えた京一が、乱暴な口調で促した。 「寝不足で機嫌悪いんじゃないの?どうせまた、あのままずっと起きてたんでしょ」 綺麗なラインを描いてルージュを塗り終わった華音が、傍らに立った京一を見上げた。 華音が眠りに就いた夜更け。 傍らの京一は、片腕の中に抱くほっそりとした女のまろやかな肩のラインの上を行きつ戻りつさせて手慰むように緩く撫でつつも、意識は完全にそこから切り離されている事が明確である静謐な横顔を見せながら、空いているもう片方の手に持った本の上へと目を走らせていた。 「俺の勝手だろうが」 煩わしそうに向けられる視線。突き放すような冷めた物言い。 それでも華音はいつか京一へ尋ねずにはおれなくて。 「……私がいると眠らないくせに何で泊めてくれるの?」 ―――誰かいると眠れないくせに何で泊めてくれるの? 夜の間中ずっと自分の頸の下にあった逞しい腕の温かさを。鍛えられた筋肉の強靱さを秘める、がっしりとした腕を持つ男の体温を思い返しながら、せめてもの何気ない声で口にした。 「人が側に居るのは嫌いじゃない」 それ以上でもそれ以下でもないと伝える、ごくあっさりとした答えが返ってくる。 人―――それは誰の事でもなく。顔のない他人を指す、言葉。 聞く前から自分はきっと返ってくるものを知っていて。それでも知っていた事を知りたくはなかったような、なのに聞かずにはいられなかったような。曰く言い難い、惑うような心許ない気持ちに囚われる。 「……いつか、京ちゃんがゆっくり眠れるような人……できたらいいね」 胸に微か。遠く忘れていたようなツキンとした痛みを覚えながら華音が京一の為に。 ごくささやかでいて真摯な願いをそっと、唇にのせる。 「必要ねぇよ」 何の気負いもなくそう軽く言い捨てた京一は、洗面所へと足を向けた。 華音はパタンとコンパクトを閉じてバッグに入れながら、その背をじっと見送った。 「お前、何でここにいやがる……」 京一の横を凝視した清次は、茫然として指差した。 待ち合わせた場所は確かにここだった。待ち合わせた相手も確かにここにいる。だがその相手には、余計な付属品がくっついていた。清次の今の気持ちを代弁するかのように、その指先はわずかにワナワナと震えている。 「まぁたそれ?たまにはもっと面白味のある反応したらどうなのよ」 指差された京一の付属品―――華音は、うんざりとしながら言った。 自分の顔を見れば毎度毎度芸のない同じセリフを繰り返し、何度教えてもきちんと名前を呼ばない清次に、犬並の知能で忘れるのかしらそれともハナから覚える気がないのかしら、どちらだろうと埒もない事を考える。 「どうした清次」 京一は、銜えていた煙草の火を傍らの街頭下に備え付けてあった灰皿へ押し付けて消しながら、ついでのような何とも気のない口調で尋ねた。 「……何でこいつ連れて来たんだよ、京一ッ!!」 心底忌々しそうな表情で、清次が京一に詰め寄る。 「今日はお前が旨いメシ奢ってくれるんだろ?ゆうべからウチにいたから一緒に来いって言ったんだよ。構わねぇだろうが一人ぐらい増えたって」 清次の剣幕にも、京一は平然としたものだった。 「何も今日じゃなくたってよぉ……」 恨みがましい口調で清次が零す。 「今日だとまずいのか?金なら……しょうがねぇな。なら割り勘でもいいぞ」 清次の情けない顔を見て、そうかまずかったのかなら妥協してやろう、とばかりに京一が優しげな事を言う。 「違うッ!金はあるッ!そうじゃなくてだな。俺はお前と二人でってよ…いや…その…」 最初だけは勢いの良かった清次だったが、語尾にいくにつれ段々としどろもどろになり、最後にはモゴモゴと口籠もってしまう。 心なしか、無骨な顔の頬が赤らんでいるようにも見受けられるのだが―――。 「不気味な奴だな。今更何言ってる。メシなんてしょっちゅう二人で食ってるだろうが」 何故か何となく一歩後ずさりしたい気分に襲われながらも踏みとどまった京一が、ふん、と鼻で笑う。 「…そりゃあそうだけどよ」 清次が、諦めきれないような風情でチラチラと京一を見る。 確かに京一とは、腹が減ったからとその辺の店に入り、その時々の腹拵えをする機会は多かったが、そうではなく―――。 「じゃあ、何がまずいんだ?」 微妙で繊細な男心などに全く縁のない京一は眉根を寄せて、表情の乏しい顔にわずか怪訝そうな色を浮かべた。 「だから言ったじゃないの。一緒に行っていいの?って」 京一の傍らで、ほらご覧なさいと言わんばかりに華音が、これ見よがしな溜息をついた。 流れる栗色の巻き髪が、その背でふわっと柔らかく揺れる。 清次がそんな華音を、親の敵を見るような獰猛な目付きでギロッと睨み付けた。 今日は二月十四日であった。それがどうしたと言う訳ではなかったが。 イタメシだか何だか知らないが、旨い店を見つけから昼を食いに行こうぜと息巻いていた筈の清次は、何故か気落ちした風情を見せてその辺の店でいいと言い出した。午前中はクルマのメンテ品やらパーツやらを買いに行くから付き合ってくれとも言われていた筈だったが、それも今度自分で行くからいいと清次は言い張った。仕方なく結局、京一と華音には遅めの朝食となり、朝をしっかり食べたらしい清次は茶のみとなる食事の時間を無難な店で過ごしたのだった。 自分が言い出したのだからと、清次は潔く三人分の代金を持ちはしたが。 適当な会話を交わして食事をしながらも、京一を除く二人の間ではいやに気まずい雰囲気が漂っていたのは何故だっだのか。 清次にしてみれば、たまには洒落た店でのんびり京一と食事でもしようかと色気を出したつもりだったのに、見事に出鼻を挫かれて憮然とするのは当然であったのだが。 怒りの収まらないらしい清次は、店を出て早々に仕事に戻ると言って引き上げていった。 自分から人を誘っておいて時間の融通がきかない訳のあろう筈もないが、これ以上、華音の顔を見ていたくはないといった所だったのか。 「京一。これお前にやる」 別れ際に清次は、何やら飲み物らしい小ビンのような形状のものを包んだ茶色の紙袋を京一に渡して去って行った。 「何だったんだ?あいつ」 ああ、と何気なく受け取りはしたものの、常とはやけに様子が違っていた清次の背を追いながら不審そうに呟いた京一だった。 「さあね」 同情するような眼差しで清次を見送った華音が、小さく肩を竦めながら応じた。 「まあいいさ。で、お前は群馬に帰るんだろ。もう行くか?」 瞬く間のうちに興味を失って京一が、連れに尋ねる。 華音は一瞬、複雑な表情で京一を見上げたものの。 「うん。京ちゃんも顔出していってね。でもその前に途中で寄りたい所があるの」 くるりと身を翻して傍らの腕を取り、次なる目的地に向かってさっさと頭を切り換えた。 「胸焼けがするぜ……」 珍しくうんざりとした表情を隠さずに、京一は呟いた。 群馬。高崎駅前。デパート地下。洋菓子販売エリア。期間限定開設コーナー前。一画。 色とりどりの服を身に纏った女達の姦しいざわめきと、噎せるような甘い香りに満ちている。 ―――寄りたい所ってのがこれだと知ってたら、問答無用で実家に送ってったぞ……。 華音が途中で寄り道したいと言った、その行き先にも目的にも興味を持たぬまま言われた通りにランエボを走らせた京一は現在、しばしの反省とともに手持ち無沙汰の状態で壁に凭れながら突っ立っていた。 見たい訳では更々ないのに、ともすれば、各コーナーを行きつ戻りつし、ラッピングされたファンシーな包みを取り上げては眺め眇めつしてまた戻し、お互いに押し合いへし合いしながら次の包みにと手を伸ばしている女どもの、その恐ろしいまでに満ち溢れて撒き散らされている強烈なパワーと熱気に、ついつい目が引き寄せられてしまう。 ―――何で今日もまた、こんなモンを見なけりゃならねぇんだ。 尋ねる事をしなかった自分も悪いとは思うものの、華音を恨みたい気分にもなった時。 「あれ?もしかして……須藤京一?」 あまり聞き覚えのない声に、フルネームで呼びかけられた。 |
![]() |
![]() |