Stigma |
「…おい、京一。おいってば」 遠慮がちな声ながらも、繰り返し聞こえて来た声を耳にして、京一がハッとした。 眼前には、ベッド脇に立て膝をついてこちらを覗き込んでいる啓介の顔があった。 「オレ、喉渇いたんだけどさー」 初めて足を踏み入れた他人の家の冷蔵庫を、断りもなく開ける無遠慮さを持たなかったらしい啓介が訴える。 「今、俺は」 京一の表情の上に、その驚愕が表れる事はなかった。 「ん、ああ。だってゆうべ、遅かったんだろ。疲れてるんじゃねーの」 なのに寝てるとこ起こして悪かったな、と啓介が髪の中に右手を突っ込んで決まり悪げにグシャグシャとかく。 「……いや。ああ、コーヒーでも淹れるか?」 ―――寝て、いた? 啓介にとっては何の意味も持たないその動揺を、京一は無表情の下に押し隠した。 「んー、できれば冷たいもんの方がいい。それにオレ、紅茶党」 甘いもん食ってるしコーヒーもたまにはいいかなーと考える眼を見せながらも今は、ごくごくと思い切り水分補給をしたくて啓介が答える。 「なら、冷蔵庫開けていいから適当に飲めよ」 京一はキッチンの奥を指差した。 「サンキュー!」 礼を残して啓介が、弾む足取りですっ飛んでいく。 その後ろ姿を追いながら。 ―――寝てただと。 「馬鹿な」 呟く。 ―――あれは涼介の弟だぞ。それだけじゃねぇ。涼介の―――。 啓介の向かった方角を見据える京一の片目が、すぅっと鋭く細まる。 ―――あいつの言う通り、疲れてたって訳か? ……ふん。 そんなにヤワではないつもりだったが。 まあ、たまにはそんな事もあるのかも知れないと、思い直す。 何か別の、焦りに似たものが微か胸に兆したようにも感じたが。 気のせいだったかも知れない。 「これ、何―っ?」 キッチンの方から張り上げる声が聞こえてきた。 「これじゃ分からん。こっちに持って来い」 啓介にそう応じた京一は、既に普段の自分を取り戻していた。 「んー。今行く」 ひとしきり、ゴトゴトと何やらが触れ合う音がしていたが、やがて啓介がスポーツ飲料のペットボトルと茶色い紙袋を手にして戻って来た。京一の所までやってくる途中で、段ボール脇に放り出していた赤い箱をも、ついでとばかりにひょい、と拾ってくる。 「これ」 ベッドに腰掛けた啓介が差し出したそれを、京一が受け取る。 掌に感じるのは、よく冷えてひんやりとした瓶の感触。 思い出した。 「そういや清次から何か貰ったっけな」 独り言のように呟く。 「それ誰?」 啓介は、記憶の片隅にひっかかっるものがあるというような表情で、隣の京一の顔を見ながら尋ねた。 確かどこかで聞いた事があるような。 「ウチのナンバー2、なんだろうな」 仮にもチームを背負っている身だというのに京一は、人事のような言い方をした。 「―――岩城って奴か」 エンペラーが群馬侵攻を始めた頃に、バトルで連戦連勝を続け片っ端から峠を制覇して、地元各走り屋チームで要注意とされていた白いエボWを思い出して、啓介が口にする。 しかし、純粋にチーム内でのポジションだけを取り上げるのなら同じ場所に位置するとも言える啓介にしてみれば、京一の言葉は余りにも酷く無責任な言い草にしか思えなくて、信じられないといった激しい非難の眼差しを向ける。 「いや、速いには速いんだがな……」 啓介の視線に、自分があまりにも非情な事を言ったように感じさせられて苦笑しながらも、その先を他チームの人間に言うのも何とはなしに憚られて、京一は言い訳めいた事を口にしながら手の中の紙袋を軽く放り上げて弄ぶ。 「貸せよ」 余所のチームの事を、ましてや内部事情についての事を外部の人間がとやかく言う権利もなく。しかしそれでも渦巻く不満を押し殺すことが出来ずに、心中穏やかでない不機嫌さを露わにした顔つきの啓介が、なかなか開けようとしない京一に焦れて横からそれを奪った。 ガサガサと広げて、首を傾けるようにして中を覗き込む。 その動きが、ピタリと止まった。 「どうした」 訝しんだ京一が声を掛ける。 「…………」 首を傾けたままの姿勢で固まった啓介が奇妙な表情を浮かべながら無言で、ほい、と手渡して来た。 「ん?」 同じように中を覗き込んだ京一が、それと分からない程度ながらもわずかに硬直する。 「お前にやる」 見なかった事にしたくてそのまま袋ごと、ぐいと啓介に押しつけた。 「京一が貰ったんだろ」 啓介が、遠慮するなと押し戻す。 「俺はいい」 これで最後、とばかりに京一が啓介にそれを渡して手を離した。 「しょうがねーな。とりあえず試してみるか。どんな味がすんだ、これ」 結局受け取ってしまった啓介の興味が、次へと向かう。 「―――立ち直りが早いな」 受けた衝撃に、微かながらも脱力の気配を滲ませている声。 「そっちが遅いんじゃねーの?」 けっ、と鼻先で嘲笑いながら、柔軟な精神と旺盛な好奇心とを兼ね備えているらしい啓介が、問題の物体を取り出して紙袋をぽい、と床の上に放り出す。 最近はよく出回っているのか栓抜きを必要としないタイプであるそれのキャップを捻った。 恐る恐るながら口をつけた啓介は、ゴクリと一口を飲み下す。 「んー……それなり、かな。……思ってたよりは―――」 何を思っていたのか、思っていたよりはどうだったのかを知りたい心境の京一をよそに、微妙に語尾を濁した啓介は手の甲でぐいと口を拭いながら、改めてそのビンの側面に貼られているラベルへと眺め入る。 『CHOCOLATE BEER』 そこにはそう、記されていた。 文字の下には、いくつもの華やかな紅薔薇をあしらって形造られた真っ赤なハート。 そのハートの上へ、ピンクのリボンが斜めにかけられているデザインである。 とどめに、リボンの中にはロマンティックな装飾斜体文字で。 『I LOVE YOU』 「…………」 啓介と、その傍らから覗き込む視線でそのラベルを眺めた京一とが、思わず揃って沈黙する。 今日の昼、別れ際に清次から手渡された物である。 それは、甘い物の一切を苦手とする京一へ今日という日に渡そうとする物について、清次なりに悩んで考えた結果であったのかも知れないが。しかし―――。 「あのさ。一口ぐらい飲んでやったら?」 気を取り直した啓介が、瓶の口に―――要はこれを飲む時否応なしに唇へ触れるだろう箇所に、白い羽根の生えた小さな赤いハートのシールがちょこんと貼ってあるのは何故だろうかと考えながら、京一にそう言う。 「いや、いい」 清次からは感謝されるべきであろう折角の啓介からの提案は、京一の冷たい声にあって瞬時にしてあっさりと却下された。 ―――こんな馬鹿な飲み物を考えるのはどこのどいつだ。清次も清次だ。何でこんなもんを俺に寄越す。普通のビールだったら飲めたのにこんな甘ったるそうなもんが俺に飲めるか。 忌々しい思いに駆られた京一だった。 肩を竦めた啓介は指先でラベルをとんとん、とつつきながら。 「で。きっとこの『CHOCOLETE』ってのに意味があるんだよな?」 と、問いかける。 『I LOVE YOU』の方にだよな、とは冗談であってもさすがに口にする勇気も度胸もなかったのだが、見た目まんまで言わずもながだろう事を尋ねて啓介は。 「俺に聞くんじゃねぇ」 男に嫌がられた。 「エンペラーってさ、何か……凄ぇな」 先程は爆笑を炸裂させた筈の啓介であったが、こうなってくると最早そうそう笑い事にも出来ないような心持ちになって、ぽつりと感慨深い声で呟いた。 しかし啓介だとて、自分が男同士で恋愛感情がどうのこうのと言える立場にはないのは承知している。もしかしたら、京一にそれらを寄越した男達の中には真剣な者もいるのかも知れないと考えるとるいつい、同情的になってしまう。むげに笑い飛ばすこともできなくなった啓介は手元に置いていた赤い箱を引き寄せると、そこから丸い物体を一つ取り上げた。 京一は、お前の所こそどうなんだ涼介がいるだろうが彗星サマが、そういう意味で言うんならそっちだって人の事言えない状態なんじゃねぇのか、と口にはしなくともそう、思いながらも。 「―――ほっとけ」 自分でも啓介の言葉を言下に否定するだけの自信はさすがに持てなくて、固い地面だとばかり思っていたのに実はそれが崩れやすい砂の上だったというような、どこか足許がぐらつきそうな嘘寒い気分に襲われながら、それだけを口にした。 啓介は何がし悟ってしまったような気にもなりながらも、自分が京一に諭す事で、秘めた事実が暴露されてしまうかも知れない危険を恐れて口にできぬまま。 煌びやかに光を乱反射して赤く輝く球体の包み紙を丁寧に剥きながら、ふううぅん、と鼻を鳴らすにとどめた。 京一がふと、啓介のその手元に目を遣る。 先程から何度か、同じ箱の中から小さな赤い物体を取り出して剥いては口に入れていたのを思い出す。 そしてまた一つが、啓介の手によって包み紙の中から明褐色の肌を晒していた。 「そういや、捜し物は見つかったのか。リンツだとか何とか言ってたが……」 啓介の当初の目的を思い出して京一が尋ねる。 「これ」 ぽい、とチョコレートが啓介の口の中に放り込まれた。 「一つ寄越せ」 甘い物が苦手ながらも、わざわざ群馬からここまでついてきた啓介の深い執着を知っている京一が興味を惹かれる。 「あ。これが最後」 啓介がもごもご言いながら自分の口を指差した。 指を追った京一の視線が、その一点でピタリと静止する。 甘い塊を噛み砕いて舌の上で溶かす為に、むぐむぐと緩やかに上下する口許。 ぴちゃ―――と軟らかく。くぐもって籠もる咀嚼音。 口の中に満ちてとろける甘さを無心に味わっているのか、ごくゆっくりと動く唇。 京一の中に、ザワリとした感覚が甦る。 表面に残る微かな濃褐色を舐め取ろうとして、薄い唇が内側にきゅっとすぼまる。 ―――目を……離さねぇ、と。 柔肉の割れ目から小さくチラと薄桃色の舌が覗いて、ぺろりと唇の上を這い回った。 舌で扱きながら舐め回したせいでそこは紅く色づき、後にはしっとりと濡れた光が残る。 京一はその口許を―――唇をじっと見つめる。 啓介が咀嚼する。 くちゅり。 艶めいた唇が湿った微音を鳴らして、柔らかく蠢いた。 「何だよ。食いたかったらもっと早く……」 自分を凝視する京一に、もしやチョコが欲しいのかと思った啓介だったが。 「――――――!?」 言えよな、と続く筈だった言葉はその相半ばで途切れた。 驚愕に目を見開く。 ―――くそ…ッ。知るかッ。 滑らかな動作で啓介に手を伸ばして親指と人差し指で掴まえた顎を、くい、と僅かにこちらへ向けさせた京一が、覆い被さるようにして顔を傾けながら唇を合わせていた。 ―――ままよ。 脳裏を横切る貌はあったものの、それを強引に掻き消しながら京一が、残る左手を啓介の背から腰に回す。身長ばかりは育っても未だ肉が薄くて骨張っている啓介の躰を、自分の大柄で分厚い体躯にすっぽりと抱き込んだ。 「………なん…」 ―――な…に……何が…。 啓介が声を上げようとして口を開いた途端に、男の舌がするりと忍び込んだ。 「きょう…い…」 自分の身に一体何が起こったのかを咄嗟には把握できなくて固まっていた啓介が、ようやく驚愕から覚めて身動きし、男の胸に手を突いて身をもぎ離そうとする。 「黙れよ、啓介…」 逃げられないように右手で顎をしっかりと強く掴んだまま、塞いでいた唇の上を滑らすようにして低い声が囁き、再び口吻けられる。 啓介の背を抱く強靱な腕の力が、ぐ、と増した。 「啓介」 優しく穏やかな、それでいて熱い声が再び。 啓介の、名を呼ぶ。 「……んむっ」 封じられる唇。侵入する舌。 やんわりと捕らえた啓介の柔肉のあちこちを、舌先で撫でるようにすい―――と掠めては。 「啓介」 深い口吻けの合間に、呼ぶ。 巻き付いて絡められた舌に翻弄される、啓介のそれ。 男の力強く熱い肉片が蠢いて、啓介の口腔内をゆっくりと犯していく。 くら―――と。墜落感。 京一を押し返そうと、惰性のように動いていた手から力がふうぅ、と抜けかけて。 クシャ……リ。 力を失ったその手はよすがを求めて、思わず掴んでしまう。男の胸元を強く。 「……う」 微かな震えを刻む手の中で、ぎゅっと握りしめられるシャツ。 動転する気と、塞がれる呼吸と、上がる心拍数と。 印される熱。 混乱に陥っている啓介の鼻孔にその時。 空気に入り交じってふわりと届いたものがある。 ―――あ…さっ…き。 この家の玄関をくぐった時にも覚えた、微かなものと同じ。 それは、自分に覆い被さっている男の首筋から緩く漂ってくるような。 ―――コロ…ン…か……? 京一の舌がうねって、啓介の口蓋をゆっくりと舐め上げる。 「……ふ」 その心地よさに妙な声が出てしまいそうになるのを、ようやくの事で堪える。 パーカーの中へ、更にはシャツの下へと滑り込んできた温かく乾いた大きな手が肌を撫で上げて、啓介の躰に微熱を施していく。 啓介は、思わず途切れそうになる思考を意識の片隅で必死になって繋ぎ止めようとする。 ―――どこか…で。 男の温かい肌の匂いだけではなく、体熱に温められて薫るごく微かな香り。 樹木を―――森林を思わせるような。 項に、チリチリとした感覚を覚えるのは―――。 ―――考えろ……かんが…え…。 だが、腕の中に抱いた啓介の気がよそへ向いている事を敏感に感じ取った京一はそれを許さずに、更に深く口吻ける。 啓介は、こんな―――と思いはしても。 遠く彼方にある気懸かりへの答えを求める歯痒い心情とは裏腹に、躰へは全くと言っていいほど力が入らなくなりつつあった。 与えられる優しさが心地よくて。 与えられる熱が思考を奪う。 くすぐるように柔らかく舌を舐められて、緩く吸い上げられた。 「……あ」 全ての思考が麻痺するような疼きが、啓介を満たす。 ―――甘いな、こいつの唇。 京一は、まさぐっている啓介の中へ残る最前のチョコレートの苦手な筈のとろけたような甘さと、啓介自身の小さく熱い舌の甘やかさを味わいながら、腕の中の躰を緩く押し倒してゆっくりと横たえる。 「……啓介?」 力を失っている啓介は、容易に京一の腕の中に倒れ込んで来た。 くたくたに柔らかく溶けたような躰。唇に含んでいたチョコレートと同じように。 心地よい手触りの深い声と丁寧な愛撫の感触に身を委ねそうになる自分を、必死になって繋ぎ止めようとする啓介の努力も空しく。 じわじわと全身に忍び込んでくる快感。 性の快楽をその肉で知るようになってからまだ間もない若い躰は。 正常に状況を判断する機会と余裕の一切与えられぬまま、代わりに奔流のような男の愛撫と口吻けと深い熱とを与えられ押し流されて、兄を想う真っ直ぐな心とは無縁な場所に在る男の生理に翻弄されて。 意志とは関係なく反応し始める。 どうにも言いようがない痺れるような感覚が、身の裡に、どく、と突き上がった。 目を瞑ったままの啓介の眉根がひくりと寄せられて、京一の下で焦ったように微かな身じろぎをする。 覆い被さっている京一の唇の片端がにっと吊り上がり、軽く身動きするような仕草で自分の腰を啓介のそれの前に擦り付けたが、そのまま何気ない素振りで行為を続けた。 合わせたままの唇の奥を、更に舌で深く探る。 「……んっ」 深く重ねられた唇の微かな隙間から、未だ残る戸惑いと込み上げる快感のない交ぜになったような啓介の吐息が零れ落ちる。 思わず洩らされた甘い声。 京一はそれすらも強く吸い上げると、二人の密に濡れた自分の唇を、啓介が纏う服の裾を捲り上げて指で触れて探っていた胸に移した。 「…や、め…っ」 這わせた舌を、弄られて既に紅く色付いている突起に絡ませた途端に、上がる声。 伏せていた瞼をふっと持ち上げて薄く開かれた瞼から覗くのは、滲む快感の彩。 逃げ場を閉ざされた熱が籠もって、淡く上気している頬。 「黙ってろって言ったろ?」 笑みを含んだ、優しく咎めるような口調。 一瞬離した唇と舌を再び、啓介の胸の上に降ろして含む。 「……っふ」 啓介が籠もる熱を喘ぎに洩らした。 ―――もう…どうでも…い…。 意識がたゆとうような心地よさに惑溺し、視線が忘我を彷徨う。 京一に身を任せたまま、ゆるゆると顔を振った啓介が、頬をシーツに押しつけた。 そうやって、熱を施しながら与えられる愛撫に焦点の定まらない瞳を揺らしていた啓介の視線が。突然。 ――― ? 一点へ釘付けになる。 白いシーツの上で緩やかな曲線を描いて繊細な渦巻きを形作っているそれは、栗色の。 一本の長い髪の毛だった。 啓介の脳裏へ、瞬時にして浮かんだのは。 そよぐ風に吹かれてふわりと流れた、柔らかそうな栗色の巻き毛。 記憶。 ―――あ……? 昼間に会った小造りな、啓介に優しく微笑みかけてきた女の顔。 空白。 ―――オレ……は……。 下がる血の気とともに我に返り。 覚醒。 ―――何……を……。 かッ―――と両のまなこを見開き。 衝撃。 ―――そうだ。京一には。 信じられない思いで。 愕然。 ―――それに。自分には。 驚愕に彩られた視線の。 現実。 ゆる―――り。 焦点を、眼前へと合わせる。 途端―――。 自分に覆い被さるようにして鎖骨の上に口吻けながらゆっくりと唇を移動させている男の、逞しい肩が目に入る。 「い…や、だ」 生暖かい濡れた肉片が自分の肌の上を這いまわる感触をまざまざと感じて、啓介の全身が一気にザワリと総毛立った。 「いや、だ…ッ!離せッ。やめろったら……!!」 爆発した感情のままに、啓介が突然、暴れ始める。 「ヤ……メロォォ―――ッッ!!」 闇雲に男を押しのけようとして、眼前で両腕を大きく振り回した。 ビッッ―――! 「つ…ッ!」 勢いよく飛んだ啓介の手が、瞬時に避けはしたものの京一の頬を僅かに鋭く掠めた。 「あ……」 思わず啓介が、竦んだようにビクリと凍る。 男の姿を映している、大きく見開かれた両の瞳。 フ―――ゥ……。 深い溜息をつくと、京一は触れていた啓介の躰から手を離した。 「無理じいするつもりはねぇよ」 シーツの上に両肘をつき、啓介の上で身をもたげた男は肩を竦めながら、安心しろと言うように、くい、と頭を軽く傾けた。 「…………」 啓介は、京一からの視線を避けるかのようにふい、と俯く。 ―――オレ……。 自分が京一の愛撫に応えていなかったとは到底言い難くて、いたたまれない気持ちに襲われてる。 「でも、いいのか」 ニヤリと笑って啓介の足の間を緩く撫で上げながら身を離した京一は、その傍らにゴロリと転がって横になり、片肘をついて頭を乗せる。 「……うるせぇッ!!」 赤い顔が勢いよく振り向いて、小さな声で怒鳴った。 それだけ言うと啓介はまた、ぷいと顔を背ける。 ―――お前が悪ィんだろうがッッッ!! そう思いっきり叫びたい心境ではあるものの、男の躰は感じた快感をどうにも隠しようがないつくりになっていて、いかんともし難い。 啓介はそのまま、むぅっとして黙り込んだ。 「拗ねるな。からかって悪かった」 笑いながら言った京一は片手を伸ばして、眼前の乱れて落ちた薄茶の髪を指でそっとかき上げて秀麗な額を露わにする。 そのまま伸ばした手を啓介の躰の向こう側へ突き、残した肘とで自分の上体を持ち上げて支えると、啓介の額へそっと自分の唇を当てた。 再び近づいた男の体温に躰を強張らせていた啓介が、瞬間、驚いて目を瞠る。 それには構わず京一は。 続けて両の瞼の上へ。鼻の頭へ。そして両頬へ。 触れるだけの静かな口吻けを落としていく。 最後に、啓介の唇へ軽く掠めるようなキスをして。 「終わりだ」 啓介の耳許へ囁きを落とすと、ゆっくりと身を離した。 「あ……」 与えられる穏やかな気配と温かい唇の感触に浸るうちに躰が鎮まり、いつの間にか瞑ってしまっていた瞼を勢いよく見開いた啓介は、次いで決まり悪そうな表情になる。 ふっ、と京一がそんな啓介に薄く笑いかけた。 「京一さぁ…何であんなにオレに優しかったんだ?」 啓介が、聞きにくそうにしながら口にした。 京一には彼女がいる筈なのに。 愛おしい者を見るような目つきで、優しい手つきで。 自分に熱く触れた男を思い返していた。 「ベッドの中じゃあ、相手の事だけ見て相手の事だけ考えるのが礼儀ってもんだろ」 京一はそう、ごく当たり前の事を言うようにあっさりと口にした。 それは相手の躰に没頭して情事を堪能すべき時に、ごく無意識のまま京一が取っている態度でもあった。 「礼儀?」 啓介が不思議そうな顔をして。 「好きだから相手の事だけ考えて相手の事だけしか見えなくて好きだから触れたくて、で、抱き合いたいんじゃねーの?」 逆だろ、と訝るようにしながら言った。 「見解の相違ってヤツだな」 京一は苦笑いしながら軽い口調で返す。 「何だよそれ」 つられて何となく苦笑した啓介だったが、京一が冗談のように受け流しながらも肯定する言葉を口にしなかった事に気付いて、微かな引っかかりを感じていた。 とそこへ。 プルルルル―――……プルルル―――……。 ややくぐもったようながらも、はっきりと聞こえる電子音が鳴り始めた。 京一がここへ帰ってきた時にベッドの足元の方へ脱ぎ捨てた上着の中にある、携帯への着信音だった。 ベッドの上から二対の視線が音源に注がれる。 この時。 チカリ、と京一の勘に触れてくるものがあった。 平日のこんな時間にかけてくる相手が他にもいない訳ではなかったが、京一には確信のようなものがあった。 それにここへ着いた時に啓介は言ったのだ。 連絡した、と。 ―――来やがった……か。 緩慢な動作で上着へと手を伸ばして携帯を取り出す。 ディスプレイの表示を一瞥した京一は、このまま無視したい心情を理性で押さえ付けてフックボタンを押す。 「…………」 無言で耳にあてがった。 『京一か?俺だ。もしやと思うがそっちに―――』 聞き慣れた声が流れ出したその時。 「キョウイチーっ!。もいっこ食っていいーっ?」 それを遮るようにして、啓介の呼び掛ける声が部屋の中にわんわんと響いた。 「ばッ……馬鹿……ッ!勝手に食っていいから少し黙ってろッ!」 瞬間的に送話口を手で塞いで振り向き、可能な限り声を潜めながらも怒鳴る。 携帯が鳴ったのを聞いて距離をおこうとした啓介は身軽くベッドから降りて京一から離れると、再びチョコレートの満載されている段ボールのある場所へと戻り、その前へと陣取っていた。 「何だよ、馬鹿って。京一にまで言われる筋合いねーぞ」 ぶつぶつと何やら独り言を呟きながらも機嫌よく、新たに興味を惹かれたらしい箱を開けて、取り出したチョコレートの包み紙を剥き始めた啓介を、京一は睨むように見つめて。 「……いや、こっちの話だ」 多少の絶望感を感じながらも無駄な足掻きを試みたが。 『―――今のは?』 凄絶な艶を放ち美しい微笑を浮かべている涼介が、まざまざと脳裏に浮かぶような。 その白い貌に嵌め込まれている、恐ろしい彩を滲ませた闇色の双眸が見えるような。 声音―――。 「…………」 背筋を這い上がるようなゾクゾクする寒気を感じて、思わず虚空の一点を凝視してしまった京一だった。しかし反対にこういう涼介だからこそ、興味を惹かれ続けてもいる自分の悪趣味さ加減を知っている京一が、思わず溜息をつきたくもなったところへ涼介は。 『―――京一?用件は分かっているだろうな。そこにいろ、いいな?逃げるなよ』 恐ろしくも、優しく穏やかな口調でゆっくりとそれだけを告げると。 ブツッ。ツ―――ッ。ツ―――ッ。ツ―――ッ。ツ―――。 無情な断絶音を最後に、通信回線を切った。 京一は。 他人に掛かってきた電話への内容を詮索しようとはしない躾のよい青年の顔を―――元凶とも言えるその、無邪気にチョコレートを頬張る顔を―――穴のあく程じっと見つめながらも自分で連れてきたという事実は如何とし難いまでに残り、誰を恨むこともできなくて。 「逃げるな……って。この場合、逃げるだろうが普通……」 思わず京一は、やり切れなさと自嘲の滲む呟きを漏らした。 「さて、と。俺はどうするかだな……」 京一は、ベッド脇のサイドテーブル上に置いてあるエボVのキーに目を遣る。 ―――まあ、出ていく必要はねぇ筈だが。 涼介が本気でここへ来る事はないだろうと確信していた。 ああ言えば京一が啓介を帰すと予測してのことだろう。 そう判断して、用事ができたからと理由を付けて啓介を送り出した後も京一はここに留まっていた。 啓介が帰っていく間際の光景を思い出す。 マンションの廊下で、手摺りに両肘をついて駐車場を眺め降ろしながら見送った。 『また、来いよ』 コクピットの中からこちらを見上げた顔に、ふ―――と薄く微笑った京一に。 『ふん。やなこった』 眩しく輝く日向色の笑顔を屈託なく歪めて見せた啓介は、騎乗するFDのエンジンが放つ低いロータリーサウンドと共にその姿を消したのだった。 京一はふっ、と視線を宙に向ける。 ごく僅かながら、空気中には未だ鉄錆びた血の匂いが入り交じって残留しているような。 未だジンジンと熱く熱を持つ耳裏に手を触れてみた。 トロ…リ―――。 濃厚な感触を覚えて戻した指先には、鮮やかな紅い色が小さな花を咲かせていた。 ―――まだ出血しているのか。 毒々しくも蠱惑の色彩を乗せた指を、唇へそっと持っていく。 尖った舌先を伸ばして、指先をゆっくりと舐め上げた。 緩く蠢く薄桃色のそれへ微かな深紅が滲んで。 ジワリと溶ける。 全ては京一の自由の筈だった。 だが京一が自ら選ぶ事をしなかったにも関わらず、委ねられていた自由は啓介の手によって封じられる結果となった。 その成り行きが見えていよう筈もなかった涼介は、どのような意図を何を、どのような結末を何かを、果たして。 望んでいたのか、それとも望んでいなかったのか。 京一は。 既に気付いてはいるのか。知らず、持たされる意味に。 未だ気付いていないのか。知らず、埋められる未来に。 捕まったのは、誰になのか。 彼に。 捕まったのは、何になのか。 それに。 銀のクロス。 京一の左耳朶に刻まれる十字架。 天使に填め込まれた魔王の刻印。 スティグマ。 虜囚の、証―――。 「…甘い…な」 囁くような声で。低く、呟いた。 ―了― |
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