Stigma |
ガチャリ。 ドアの開く音と共に明るい午後の光が薄暗い玄関へと射し込み、二つの人影が今まで空間に満ちていた静寂を破る。 「入れよ」 さっさと靴を脱ぎ、続く廊下を抜けてスタスタと居住空間に向かった京一は後に続く客を促した。 声を掛けるだけ掛けてしまうと途中でキッチンに寄って、手にしていた物を冷蔵庫に放り込んでからリビングに入る。 「ん…ああ」 玄関を入った途端に立ち止まり、やおら鼻をひくつかせて眉を寄せ、考え込むような顔をしていた啓介が生返事をしながら蹴るようにして靴を脱ぎ捨てる。部屋の主以外には他に誰もいないと充分に承知しながらも、習慣づけられていて他人の家に上がり込む時にはつい口を突いて出てしまうのか、お邪魔しまーす、と言いながら部屋に足を踏み入れた。 デパートの地下で華音と別れた京一は、FDを駆る啓介を先導しながら自分の部屋までへと戻って来ていた。 平日の日中という事もあり、道中一人の知り合いにも出会わずにここまでを辿り着いた。 ただでさえタマ数の少ない黄色のFD。そしてその派手な外見のリアウィングと、ボディに貼られている、つとに名高い存在を誇示する赤いステッカー。それらが共存している車体と、地元では知らない者のいない自分の黒いランエボとが併走している光景を、仲間にでも見咎められた日には厄介な事になるのが分かり切っていた京一は、煩わしい面倒事を避けられて一息ついたものだった。 「時間、平気か」 上着を脱ぎながら壁の時計を見た京一が尋ねる。 「ああ。さっき連絡したから」 啓介に向けられていた背中が、それを聞いた瞬間ぴくりと反応する。 「……誰にだ?」 「アニキ」 「―――!?」 返ってきた答えに思わず振り返った京一は、啓介を凝視した。 FDを走らせる道すがらに啓介は、昼過ぎには帰ると言って出て来た事を思い出して、帰宅が少々遅くなる旨を連絡しようとしたのだが、かけた先の携帯は留守電に繋がった。とりあえず、栃木にちょっと用が出来たから寄って帰る、とそれだけは吹き込んでおいたのだった。 「なあ、須藤」 そんな京一の様子には気付かないままに、啓介が感慨深そうな声で名を呼ぶ。 物珍しそうに部屋のぐるりを見回していたのだが、ふと気を引かれた一点に目を据えて歩み寄り、その前に立ち止まっていた。 「……何だ」 涼介に一体何と説明したのかを問い詰めたい衝動をぐっと押さえつけながらも、啓介の立つ場所を考えれば問われる先の内容は余りにも明確で、応じる京一の口調が自然、重くなる。 「すげぇな、これ」 深いアーミーグリーンをしたパーカーのポケットに両手を突っ込みながら、人より高い位置にある目線を真下に降ろして、啓介は自分の足元を覗き込んでいた。 脱いだ上着をベッドの上に放り投げ、そのままそこに腰を下ろして落ち着いていた京一が、嫌々ながらも青年の視線の先を追う。 キッチンカウンターの端、壁際に置かれた茶色の段ボール箱。 それ自体は何の変哲も無いただの箱であった。 問題があるとすれば。 そこに収められつつも縁から溢れんばかりの、あまつさえ色とりどりのラッピングが施された小箱達と、今日の日付が二月十四日だと言う事である。 それらを鑑みた場合、どう考えてもその集積物はチョコレートでしかあり得なかった。 「お目当てのものはそこに入ってるんだろ?」 京一が顔を戻しながら投げやりに言った。 「中、見てもいいか?」 人が貰ったものを勝手に漁るのも躊躇われて、啓介が足の爪先でとん、と段ボールをつつく。 「好きにしろ。俺は付き合わねぇぞ」 目を背けたままの、依怙地とも思える京一の態度に不審を抱きはしたが。 「サンキュ」 持ち主の了承を得た啓介はその場にしゃがみ込んで、ごそごそと包みを掘り返し始めた。 真っ赤な包装紙にどピンクのでっかいハートが散っている包装紙に目を奪われた啓介は、思わずおののきながらもその小箱を取り上げずにはいられなくて、まじまじと見つめながら、趣味が……いやセンスが悪すぎやしねーか、売る方もだけど買う方もどうかしてんじゃねーの、とぶつぶつ呟いてみたりする。 目的の物を探す前に目移りして、無闇やたらにいくつかを手の中に掴み上げていく。 「これ、今日貰ったのか?…にしては…」 やけに数が集まっている。 ふと手を止めた啓介が、受取人に素朴な疑問を投げかけた。 自分達が顔を合わせたのは昼前だったのに、既にその時これはここにあったという事だ。 「ゆうべだ」 平坦な口調で答えた京一の声に、啓介は微かな疲労の色を嗅ぎ取る。 ―――何でだ? 「ゆうべ……ってエンペラーは交流戦だったよな」 疑問に思う傍らで、たしか―――と思い出すような顔をして啓介が、焦点の合わない彷徨う瞳を見せる。 「―――さすがによく知ってるな」 京一が、チラと鋭い視線を投げかけた。 「そりゃあ、まあ」 入ってくるさ情報は、と小さく肩を竦めながら啓介が何の気負いもなく口にした。 赤城レッドサンズの上層部は、日頃から近隣の走り屋チームの動向を容易く把握しているのが常である。今更言われるまでもなく、啓介にとってはごく当たり前の事だった。 「じゃ、これってギャラリーの女達からとか?」 未消化の問いを再度、啓介は形を変えて繰り返す。至極当然の連想である。 「…………」 先刻とはまた違った意味で、無言のまま京一は啓介を凝視した。 「何でそこで黙るわけ?」 表情に乏しく感情が読み取りにくい男の顔を、啓介は不思議そうに見返す。 京一は押し黙ったままふいと顔を背けると、傍らに投げ出したままになっている上着に手を伸ばす。探り当てた煙草のパッケージを、ぐしゃりと握って掴み出した。 「言いたくないってか」 啓介は、手の中にあるいくつものファンシーな包みに目を落とし、何でだ、嬉しくないのかよ、と腑に落ちぬ様子で眉を寄せる。 今日自分はこれらと同じようなものを受け取りこそしなかったが、渡そうとしてくれる気持ちだけについて言うのならば、純粋に嬉しいと思う。それは相手の好意の形だから。 「……内だ」 銜えた煙草へ故意にかゆっくりと時間を掛けて火を点けながらも京一は、真っ直ぐにこちらへと視線を向けて答えを待つ啓介に、何故か適当な誤魔化しを教える気にはなれなくて、観念したように口を開いた。 「今、何て言った?」 しかしそれは啓介の耳まで届かずに、聞き返す。 「チーム内だ、と、言ったんだ」 今点けたばかりの煙草のフィルターを早くも噛み潰した京一が、一言一言を放り出すようにしながら言う。 「……チーム内って……エンペラーって女なんかいたっけ」 手の中の包みを見つめつつそう聞いておきながらも、同時に、頭の中にあるそのチームの構成についての情報データをひっくり返した啓介は自分で答えを出して、いないよな、と訝しげに呟く。 京一は無言で答えない。ふと目を遣ると、紫煙を吹き上げながら壁の一点を睨みつけている男の横顔があった。 ―――女がいねーのにチーム内? 「あのさ…言いたかねーけど…」 まさかだよな、とは思いながらも、最前から無表情の中にあって何とはなしに感じる嫌そうな京一の様子を見るにつけ、もはやそれしか思いつく事ができずに啓介は、口の端をひくつかせる。 その脳裏には、恐ろしい想像と不気味な光景がよぎっていた。 「なら、言うんじゃねぇ」 啓介を振り向いて睨め付けたエンペラーのチームリーダーの双眸は、はっきりと根暗い色に染まっていた。 「…ぶ…あはっ…!!…ぎゃははははははは―――っっ!!」 突然の大爆笑が部屋いっぱいに響きわたり壁に反響して、こだまさえ伴う程の猛烈な勢いのまま連続して炸裂した。 「うるせぇッ!笑うんじゃねぇッッ!!」 昨夜から溜まりに溜まっていた鬱憤も手伝ってさすがに無表情を突き破った京一が、不機嫌さを露わにして怒声を上げる。 啓介の疑念と問いかけに対する回答は、その態度だけで充分雄弁に語られていた。 「須藤、おま……男から…エンペラーって、そういうしゅうだ……ぎゃははははは…っ!」 まともに口が利けないままに、なおも更なる急激な笑いの発作に見舞われて啓介が、涙さえも滲ませながら衝動に身を任せて爆笑する。 「笑い過ぎだッ。高橋ッ。……いい加減にしろよ」 ギリッと噛み締めた歯の合間から低い唸りを軋らせる。 銜えていた煙草のフィルターを噛み切りそうになった京一は唇からそれをもぎ取り、ベッド脇のサイドテーブル上に置かれた灰皿へぐいと押しつけて捻り潰しながら、険悪な表情で啓介を睨み付けた。 「はあっ……はぁ……っ…おかし…」 悪戯を見咎められたガキ大将のような顔になりなりながらも、突然の衝動は、終いにげほごほと酸素を求めて苦しげに息を切らすまで止まらず、ようやくの事で笑いを納めた啓介が、その目尻を拭う。 その時、手に握ったままだったままだった可愛らしくラッピングされた物体が視界に入った。 涙を拭いて素に戻った啓介は、まじまじと手の中のものを見つめる。 「……そうか」 改めて違うものも見えてきたような気がして啓介が、ぽつりと呟く。 「何が、そうか、なんだッ」 被害妄想に陥りそうな気分の京一が、過敏な反応を見せる。 「いいんじゃねー?」 妙に落ち着いた声で啓介が、京一を見た。 「好かれてんだろ、須藤。チームのヤツらに。それっていい事じゃねーの?」 問いかけるように口にする。 「そういう問題か?」 本当にそうか?と据わった視線を啓介に当てたまま、京一が複雑な色を表情に滲ませる。 「で、何だよ?ゆうべのいつだって?」 一転してすっかり興味津々の顔つきになった啓介が、更に人の不幸を楽しもうとしてか、打って変わったような嬉々とした声で続けて京一に尋ねる。 「交流戦が終わった後だ。結構な人数の奴らが、一斉に取り囲んできやがった」 ここまで言ってしまえば、後はもう何を喋っても一緒だと居直った京一が、淡々、とさえ言える口調で教える。 思い出したくもないが。 お前ら何考えてやがる!いらねぇッ!!と怒声を響かせた京一に対して連中は、日頃の訓練の賜物であるチームの結束力を間違った方向に発揮しつつ、人海戦術の如き連携を見せて京一の周りを押し包んだ。最後には、どこから調達してきたのかそれともそんな事態も端から予測していたものか、手回しよくいつの間にか持ち出されてきた段ボール箱に不気味な物体を詰め込むと、無理矢理京一に押しつけて一目散に逃走して行ったのだ。 一瞬と言えるような短い時間で見事に消え去ったランエボの集団。 常であれば頼もしく誇らしげに目に映る、あの闇に赤く光るテールランプの光芒を渦を、あんなにも憎らしく見送ったのは初めての経験だった。 その騒ぎには参加せず従ってその場に残っていた連中が、茫然としている京一へ向けていた気の毒そうな表情が脳裏に焼き付いている。 後にぽつんと残された段ボール箱を、消えてなくなれとばかりに充分人が射殺せるような視線で睨み付けてはみたものの、そのままそこへ捨て置く訳にも行かず、嫌々ながらも持ち帰らざるを得なかったのだが。 京一にしてみればあの場で何もかもかなぐり捨てて、これは何の冗談だと喚きたくもなる心境であった。 もちろん、冗談―――の筈だ。 「でもよ、バレンタインデーって今日だろ。何でゆうべなんだ?」 さすがに啓介も、聞かされる光景を脳裏に思い浮かべたくないような心持ちになって、思わず意味もなく小声になる。 「今夜は用事があるんで俺がヤマには行かないって事を連中、知ってるからだろ」 京一が投げやりに答えた。 「交流戦の結果は?」 唐突に啓介が尋ねる。 記憶によると確か数台を出す結構大がかりなバトルだった筈だが、ゆうべの今日でもあり、また特に強い興味を惹かれるものでもなかったので、結果までは聞こうとしなかった。 「勝った。口ほどにもない連中だったんで、途中からは度胸試しがてら若い奴らも結構出してみたんだが。勢いのある勝ち方だったな、そういや」 人事のようなあっさりとした口調で言った京一に対して。 「なら、そいつら須藤に渡すつもりのチョコ積んで走ってたって訳?それって終わったら、つか、いいとこ見せて勝ってさ……んで、それ渡そうって思ってたりとか……」 いやに詳しい心理描写を言ってのけた啓介は続けて、そりゃ、リキも入るんじゃねーの、と誰に向かって言うでもなく独り言のようにぽつりと呟いた。 「…………!」 思わず想像してしまった京一が絶句する。 今日という日は、京一が無言になる事が多い日ではあった。 「結果が良かったんならいいんじゃねーのか。やっぱ素直に受け取っておけよ。ま…あ…おかしいといや、おかしいけどな」 またしても黙り込んでしまった男を前にして先程の笑いの発作がぶり返しながら、だけどあんまり笑ったら悪いよな、と堪えようとして、でもそれは成功しているとは到底言い難く啓介が、すっきりと通った鼻梁の両脇と薄い唇をピクピクと震わせる。 「ほっといてくれ。いらねぇのなら帰って貰おうか」 双眼に険悪さを滲ませて、京一が低く恫喝する。 「須藤さぁ、そういう態度はちょっと大人げないんじゃねーの?」 ちぇっ、とわずかに唇を尖らせた啓介が、眇めた目で京一を眺めた。 京一の眉間がピクリと動く。 以前聞いたようなセリフ、見たような視線。 その兄―――涼介から。 全く違う外見に全く違う性格。見せる動作も聞かせる声も。 纏う雰囲気にさえも何らの共通点はなく。 そんな事は顔を会わせてまだ短い時間の中でも自然、分かる事だった。 なのに。 同じ反応と言葉。 ―――血ってヤツか?……いや。たまたま……だ。 気を取られた自分に苦笑を漏らした京一は。 「高橋」 詮無い考えを打ち消そうとしながらの反動でふと、些細な戯れ事を思いつく。 「なに」 「俺の事は、京一でいい」 自分でも何故そんな事を言いだしたのか。 ―――同じなのだろうか。 何が。 「……え」 啓介が驚いたように目を見開く。 「言ってみな。そしたらそれ、好きにしていいぞ」 京一はそれ以上深く考えるのをやめて、啓介の足元の箱を指差した。 「須藤を名前で呼ぶのとチョコと何の関係があるんだよ?」 啓介が、眉をひそめて警戒するような表情を見せる。 「関係はない」 ふん、と鼻で軽く笑う。 自分でもそれが理不尽な事であるのは重々承知の上で、京一はそう口にした。 「それって何かズルくねー?」 不利な状況にある啓介が、ひそめていた眉を更に寄せて不満そうに言った。 「呼べよ」 京一がゆっくりした低い声で促す。 「仮にも年上の人間を名前で呼び捨てしちゃいけねーって……オレは」 どこで覚えさせられたものか、だがそれを本当に実行に移しているのかどうかまでは怪しい啓介が、世間一般の常識に照らし合わせれば至極真っ当と言える礼儀を引き合いに出して文句を言う。 「ここでだけそう呼べばいいさ。それに、本人がいいって言ってるんだぜ」 別段、先程の爆笑に対する返礼のつもりもないのだが、啓介が困惑している気配を感じ取って、それをどこか楽しんでいる自分がいることを京一は頭の隅で認識する。 「…………」 顎を引いて上目遣いになった啓介は、舌で湿した唇をキュッと噛み締めて沈黙した。 |
![]() |
![]() |