Stigma


     6  







「やっぱ、なかなか入らねーな」
 啓介が、戸惑うような声を漏らした。
「ヘタクソ」
 身動きする訳にはいかない京一が、口だけを動かす。
「うるせー。……この辺かな……違うな」
 入り口に近い最初の方はすんなりと入ったものの、途中で薄い肉の壁に遮られるような感触があり、そこからなかなか先に進めない。
「おい、無理はするなよ」
 こちらからは見えぬながらも啓介が慎重に内部を探っているのは感じ取れるのだが、どうも危なっかしいようにしか聞こえない台詞に、京一が危惧を覚える。
「大丈夫だって。だから動くなよ?」
 むーと唸りながら啓介は、諦めずに入れたり出したりしながら穴へと差し入れる角度を微妙に変えていたが、段々と焦れたような動きを見せ始める。
「おい」
 堪りかねて京一が声を掛けた。
 瞬間。
「あ」

 ブツ―――ッッ。

「ツ……ゥ」
 京一が唸った。
「ごめんっ」
 啓介が慌てて謝る。
 肉の奥へと突き抜ける筈の通路を探って一心に集中していたところへいきなり声をかけられた所為で、思わずグッと力がこもってしまったのだ。
「でも……入った」
 続けて、驚いたような声を漏らした。
「何を言ってる。お前が入れたんだろうが」
 京一の口調には、憮然としたような響きがあった。
「オレ、こんな事したの初めてだったから、ホントに大丈夫なのかどうか分かんなかったんだけどな」
 耳裏へ無事にキャッチも填め込んだ啓介は、よかったぜ、といつの間にやらうっすら浮かんでいた額の汗を拭う。
「お前……」
 はははっと笑う啓介に京一は、微かな頭痛を覚えた。




 ごく小さな銀のクロスが、鈍く微かな光を放ちながら京一の左耳朶に填っていた。
 しかし。
 ジワリ……。
 無事に収まったかと思えたそこから真紅の鮮血が滲み出して。
 見る見るうちに紅い珠がふぅう―――っと浮かび上がり始めた。
「やべ……」
 それを見た啓介が、焦ったような声を上げる。
「どうした」
 自分では見えない京一が尋ねた。
「ごめん。やっぱオレ、無理に突っ込んだのかな……血が……」
 小さな穴からの筈なのにとてもそうとは思えない程に、朱の珠は少しずつながら確実に盛り上がっていく。
「まあいいさ」
 長らくしていなかったところに入れるからにはそうなるだろうと分かっていた京一は、軽く受け流した。ジンジンとした熱い痺れは感じるが、だからといって別段気になるほどの痛みがある訳でもない。
「どうしよ」
 だが、啓介にしてみれば自分のした事である。申し訳なさそうな声で呟いた。
「構わねぇよ。放っておけばそのうち止まるだろう」
 大した事だとは思えなくて京一は、いい、と煩わしそうに片手を振る。
「でもよ、結構血ィ出てるぜ」
 指で拭おうとしたが、ふと、雑菌が入ってしまうだろうかとも考える。ここから見える場所に置かれているティッシュボックスを取りに行こうかどうしようかとしばし迷って、啓介の視線が京一の耳と箱との間を揺れ動いた。
 そうこうしている間に。
 トロ……リ。
 大きく盛り上がってとうとう形を崩して溢れた朱の滴が、重力に引かれて肌の上を滑るように移動した時。
 素早い気配が、動いた。




「何を…ッ!」
 京一が思わず声を上げる。
「むー……」
 啓介が、京一の耳朶を口の中に含んでいた。
 ベッドの上に血が滴り落ちそうになった瞬間、落ちる―――!と咄嗟に反応して飛び付いてしまったのだ。
「……おい」
 ハァ、と京一が疲れたような溜息をつく。
「ほへん……」
 ごめん、と言いたいらしい啓介が、京一の耳を咥えたまま唇を動かした。途端。
 ゾク―――リ。
 啓介の吐息が耳の中に滑り込み、喋ろうとする振動で耳を数回、緩く甘噛みされた京一の肌が粟立った。
―――う……。
 唐突に身の裡へ、あらぬ衝動を覚える。
―――こ、の、怖い物知らずが…ッ。普通そういう事をするか?
 それでも啓介に他意はないと分かっている京一が、急激に沸き上がった感覚を散らそうとする。
 とそこへ。
 そういうつもりではない筈だがまたしても京一を煽るかのように、耳朶の穴から滲み出す血を舐め取って拭おうとする啓介が、口の中に含んだ耳朶の上でゆっくりと舌を蠢かした。
―――く…そ…ッ。わざとやってるんじゃねぇだろうな……。
「啓介……もういい」
 京一は抑えた声で言いながらもこれ以上はまずいと身をもぎ離そうとしたが、罪悪感と責任感に駆られている啓介は逃れようとする躰を追うようにして、その肩を思いがけず強い力ではっしと掴まえる。そのまま覆い被さるようにして京一にのし掛かり、耳許を覗き込んだ。
「でもまだ血が出てるぜ」
 再び耳朶を咥え込んだ啓介が耳許でわずかに唇を開き、腰に甘い痺れを呼び起こす囁きと振動を吹き込んで、更に男を刺激する。
 耳許でぴちゃぴちゃと濡れた音がした。
――――――!!
 京一が思わず片目を細く眇めて、瞼をひくりと痙攣させる。肩にかかる、青年の温かい重みを強く意識した。
 ベッドの中で前戯の一環としてされた行為であれば、自分の躰の反応ぐらい自在に捌ける筈が、そうではないごく日常的な時間の中で全くその気がない相手からいきなりされた事であるためか、意志に反して抑制がきかない。
 京一の耳許へひそりと顔を寄せた啓介は、時々傷口を確認する為に顔を上げてはその間にまたしても滲む血を見るとまた、舌を尖らせては一心に舐め取っている。
―――チ……クショウ……。
 京一の気が、男のものにと変化して。
 ユラリ、と。
 立ちのぼった。
「離せ」
 京一がずしりと低く据わった声を放つ。
「ん?」
 強く言われて啓介が、ようやく京一から唇を離した。
 二人の間に、一瞬の沈黙がよぎる。
「―――けいすけ」
 自分の名を呼ぶ声の調子が今までと微妙に違うのに気付いて、京一の顔に目を遣った。
 無言で自分へと視線を当てている男。
 その双眸の奥には。今まで見た事のない強い光が何か意図を持って明滅しているような。
「なん、だよ」
 何が起きているのか分からずに戸惑いながらも、追いつめられているような気配を敏感に嗅ぎつけて反応した啓介が、無意識のまま反射的に双つの瞳へ力を込めて京一の視線を跳ね返し、更にはねじ伏せようとして睨み返す。
「――― 」

 ジリ――― 。

 息詰まるような空気が数瞬、二人の周囲に渦を巻く。
「……何でもねぇ」
 部屋裡へ焦げついた金属臭を放つような緊迫感は、唐突に破られた。
 深く息をついた京一が自分から、すい、と視線を外したのだった。
「変なヤツ」
 逸らされて置いていかれた啓介は、あやふやな気持ちながらも他に言葉が見あたらずに、とん、とベッドを降りながらそう呟いた。


 京一は自分が、啓介へ目を向ける回数が増えている事に気づいていた。
 毎回、意識を逸らす事には難なく成功するのだが、ふと気がつくと手にした誌面の字面ではなく、啓介を視界に入れている自分がいる。
―――チッ。何でこんな……。
 思わず舌打ちをしたい気分にもなる。

 しかし啓介は京一の視界に入ってくるのだ。
 目に見えると、そう言う意味ではなく。


 京一の目には、他人が彩を持った存在として映る事が少ない。
 他人。ヒト。記号の集合体。
 血と肉と骨でできた体と。形と色と匂いと熱と。性格と行動。言葉と表情と声。
 その他様々な要素で構成されている、ニンゲンと言う名の生き物。

 いつの頃からだったのか。
 京一を通り過ぎていく多くの知り合いと多くの友人と多くの仲間と多くの情人と。
 それが誰なのか何という名前を持つ個体であるのかを認識するのはたやすい事なのに。
 個体を認識する事はできても。
 実体のある存在として認識の触手を伸ばそうとすると意識が乖離して分散する。
 現実感のない、薄っぺらな空虚さを味わう事になって。後に残るのは。
 目に見えぬ薄い紗を挟んで歯車が噛み合わなかったような、もどかしさと苛立ち。
 思わず銀紙を噛んでしまった時に奥歯へ感じる嫌悪感にも似た、気味の悪い軋み。
 意味もなく手応えもない何かを掻き毟った後のような、微かな疲労感と虚脱感。
 それらに飽いた京一はいつしか、自分から手を伸ばす事をやめてしまっていた。

 京一にとってバトルとは、常に自分へつきまとう希薄な実在感が真実味を帯びる瞬間だった。その度に自分が生きているのだという現実を知る。バトルの中で全精力を注いだ時、全てが解放されて深層に閉じこめていた熱が躰の中を荒れ狂い、その熱の中に身を浸して闇を駆け抜ける事で、滾るような歓喜の獣が身の裡で咆吼を上げるのが分かった。
 そして、ある一定の熱量に達して意識の中に白い不可視の焔を感じる時、自分が別の領域に飛び込んだような感覚を覚えるのだった。
 沸き立つような浮遊感と共に自分がこの狭い肉体を離れて、どこまでも拡大する意識に変容する感覚がある。
 ひとたびその状態に切り替わってしまえば、車体と完全に一体の意識となった自分が相手との距離も思惑も辿る先のコースも緩衝までの隙間ですらも、視認する事なく知覚可能である気がするのはそうそう間違っていない筈だという事は、今までの経験が教えてくれていた。
 人と躰を繋げている時にも。それと同じと言うには程遠いながら僅かなりとも、それに近い擬似的な熱が躰の中を通り過ぎていくように感じる事がある。
 微かではあるが、はっきりとした手応えを。
 だから、それを思い起こさせる人の体温が、幾ばくかの鮮明さと熱を味合わせてくれる人肌が、京一は嫌いではなかった。
 抱き合う事で、互いに与え与えられる熱へと無心に溶け合って融合し、肉体の檻から解放されて意識が拡散するかのような感覚を暫し味わう事が、嫌いではなかった。
 その感覚は、相手がどんな意味であれ形であれ、京一と比肩するような何らかの強さを有する者であればあるほど、更に強まる事が分かっていた。

 そうして。輪は、繰り返される。

 今まで京一自身が、そしてチームを率いてバトルを挑んでは下してきた相手の中には名だたる速さを誇る奴も幾人かはいた。京一の目から見ればそれが恐れるには未だ足りぬ程度の腕前ではあっても、自分のプライドに見合うだけの力量を備え、己の敗戦になお怯むことなく更なる高みを見続けようとしている奴は大抵、ある種の強さを備えており、多かれ少なかれの彩鮮やかさを持って京一の視界に入ってくる事が多かった。
 視る事のできる人間が。
 それ故、相手にそういう嗜好があった場合に興味がある風を見せられれば、一時的な繋がりを持ってみるのも悪くはないと思っていた。そうやって付き合いを始めた相手を挙げれば、きりがない程に。
 しかし、クルマを降りた男は、ただのつまらないヤロウに成り下がる事が多かった。
 そうであれば相手がバトルで京一に負けている以上、持てる興味は殆ど残らなかった。
 京一にとって、その他の利用価値がないのであれば尚更。
 それを知れば京一も同時に、欲していた鮮やかな熱への期待を失い、視えていた彩は跡形もなく褪せてしまう。
 それでも一時は視えていた相手であり、視界に入れておこうとの努力はしていた。
 会って、話して、過ごして、寝る。
 少しばかりの熱の残滓を求めて。与えて。
 だがそうやって惰性の営みを続けているうちに大抵、相手は何故か次第に京一を詰り始めるのが常であった。
 それは、男でも女でもみな同じ事だった。
 それまで色鮮やかさを保っていた相手でさえも、時として自ら同じ結末を辿りたがる。
 日常の中でともに過ごしている時間に、平素と同じく無表情で無愛想なままで在れば不機嫌になり、ベッドの中でただ純粋に相手へ熱を与えてまた求めようとする京一が情欲を貪って堪能し、ごく自然に無表情を脱ぎ捨てて熱く躰を繋げて深く口吻ければその時ばかりは優しいと不審の目を向ける。
 そして、自分だけを見て欲しいと。次には、自分だけを見てくれと。そして最後には。
 好きだからと、酷い時には愛しているからと、免罪符のように口にする。
 付き合っている間はせめてもと。相手の事が既に視えずとも視界に入れようと、視線を向けようとしている京一に向かって、そう、言うのだ。
 これ以上、自分にどうしろと。
 そうなると遠ざける労力を費やす事すら京一には煩わしく感じられる。
 
 うっとうしい。

 ただでさえ視ようとしなければ見失いそうな糸が、視ようとし続けていた細きに過ぎる糸は、京一がそう意図するまでもなく勝手にぷつり、と断ち切られて。
 何の感慨もなく、一切の興味がどこかにふい、と消え失せる。
 そして京一にとってその相手は、元の記号の集合体に。そしてニンゲンという名の母集団の中に埋没する一個体へと戻るだけの話だった。
 一人増え、二人増え。一人減り、二人減る。
 こうした恋愛沙汰や情事に関しては種々多様な人間が京一の周囲を淘汰されながら通り過ぎていき、そうして後に残る者は。京一の許に留まる者は、常にごく僅かだった。


 だが涼介は、はっきりと視える。
 クルマとバトルとテクニックと。全てにおいて合理性だけを追求し、反映してきた筈の自分が、涼介には二度、負けている。合理的でなかったのは、皮肉にも自分自身。
 自分の走りにおける弱点に気付く必要もないままに、長い間を勝ち続けていた。
 だがやはり、こいつもクルマを降りればただの男なのだろう、と冷めた気持ちを抱えていた京一の目に映ったのは。
 高橋涼介。
 赤城の白い彗星。公道のカリスマ。そう呼ばれるに足る清冽に過ぎる表層と。
 この男の心の中にぽっかりと口を開けていた深淵、真っ暗い深層の闇。
 そのアンバランスさと見え隠れする歪みに、尽きぬ興味を覚え、彩鮮やかさを視た。
 ただ真っ白いだけ、ただ綺麗なだけのものになど、自分が気を引かれる筈もなかったが。
 再会をきっかけにして、付き合いが始まった。
 緊張感のある軽口の応酬をし、熱く躰を繋げて溶け合い、それきり別れて、また出会う。
 灼き尽くすような渦巻く熱を与えて、与えられる。互いに割り切った関係のままで。
 涼介に半ば引きずり込まれた感は否めないが、京一はそれでも構わなかった。
 このまま、あの暗闇を抱えた男の鮮やかに過ぎる彩を目にしながら、その行き着く先を傍観しているのも悪くはない。
 そう思える程には、自分の中で涼介の存在が少しずつ興味深いものへと変化しているのを京一は感じてはいた。
 興味?そう、興味。
 何か別の、もっと適した表現―――言葉もあるような気もするのだが、それほど深く考える程の事でもないだろうと、京一は思っていた。


 そして啓介も。視える。
 冬だというのに眩しく輝いている太陽光を一身に浴びている、傍らの啓介へと目を遣る。
 その身へ福音を与えるかのように、燦々と降り注ぐ何条もの陽光。
 しなやかな若木のような全身へ、引き締まった頬へ、秀でた額へ、薄茶に透ける髪へと。
 美しい螺旋を描きながら輝く光がキラキラと、その周囲に溢れ零れているような。
 
 走り屋の世界において名高い赤城の高橋兄弟。
 表裏一体。光在る所には必ず影ができると言われているように。
 兄の涼介が光り輝く頂点であり、弟の啓介はその影だというのが世間一般の見方だが。
 しかしこの時、京一の目には。
 輝く光を放つ啓介。暗闇を裡に抱く涼介。
 それが全くの逆であるかのように映っていた。

 光が、踊り。光が、煌めく。
 誇示するように眩く、その存在を輝かせる。
 この部屋のただ、そこへだけ。
 啓介のいる場所にだけ、日溜まりが造られる。

 啓介のその強い輝きは、軋むような目を背けたくなるような痛みをも京一に喚起する。
 自分がはっきりと陽の当たる場所にいないのだと、思い知らされるからか。
 それに不満を抱いた事はなく、それを夢想だにせず、自分がそうやって生きてきた事に何らの悔いはなく、いっそ誇りですらあるのに。
 それでも、その光は自分からは余りにも遠くに在り、直視したくはないのだろうか。
 目を背けるすべを知らずに京一は自分の奥底をじっと見つめて相対しながらも、その事へ微かに身の裡を掻き毟られるようなそそけた思いをも抱かせられる。
 
 しかし、啓介がそれだけの存在ではない筈だという事も既に識ってはいた。
 だから京一には、啓介が視えるのだろう。
 それはきっと。決して光り輝いているからだけではなく―――。
 今まで培ってきた、京一の人を見る目は確かな筈だった。
 最前、自分を睨み据えた時の啓介を思い出す。
 鳶色をした双つの瞳から放たれた噴き上がるような気炎。相手を真っ直ぐに射抜く視線。
 若い獣のような激しさと力強さと敏捷性。臆せぬ態度。燃え立つような気性。
 涼介の弟だと思っていた。
 だが、そうではなく。誰の付属品でもなく啓介は自分にとって。
 高橋啓介という存在なのだろうか。

―――もしかしたらこいつは……。
 今までも多くの人間からもたらされてきた、一時のまがい物のような熱ではなくて。
―――ならば。
 俺に、味わわせてくれるのだろうか。公道での、あの。
―――手合わせしてみたい。
 灼けるような時を領域を―――。

 そうする事をやめてからは既に久しい、期待にも似たようなものがどこかへ生まれて。
 啓介の横顔を見ている京一の唇は知らず綻んで、ふっと薄い笑みを形作っていた。