Stigma


  3     







「……高……橋」
 振り向いた京一は、ほど近い所に立ってこちらを見ている青年の名を口にする。
 高橋―――啓介。涼介の弟。赤城レッドサンズのナンバー2。
 直接話をした事はなくとも、今までの様々なバトルの夜、常に涼介の傍らにある存在として何度も目にしている顔だった。過去には、涼介と話をしている時に啓介が居合わせていた事もある。向こうとしても、こちらを見知っている筈ではあった。
「…あ…っと」
 自分から京一に声をかけたものの、目の前の若い顔は続く言葉に困ったような風情で口ごもった。どうやら知った顔を見かけて思わず、といったところであったらしい。
「お互い珍しい場所で出会うもんだな」
 当たり障りのない挨拶のような言葉を口にしながらも、過去からのいくつもの記憶と思惑とが京一の脳裏を駆け抜けていた。
―――涼介が自ら言う事はありえない。こいつは、俺が知っているって事も、それに俺達の間に横たわっている因縁事の存在も知らない筈だ。声を掛けて来たのは偶然か……。
 いささか複雑な思いに捕らわれる。
「須藤もチョコ買いに来たのか?」
 言葉に詰まっていた啓介は、京一の言葉に促されて自分達が今いる場所を思い出したのだろうか。しかし、彼がようやく口にした内容は、場所柄的には最もふさわしいと思えるが、この場に居合わせているメンツを考えた場合、最もふさわしくないのではないかと思えるものであった。
「…………」
―――も?
 意味が取れなかった京一の頭の中に瞬間、白い風がびょうと吹いた。
 その視線がふと、啓介の手許に止まる。
 眉根を寄せてじっと見つめた。
 京一の訝しげな視線に気付いた啓介が、ハッとして両手を後ろに回す。
 視界を掠めて行ったのは、目の覚めるような濃紺の包装紙に銀のハートマークのシールが貼られている小箱の残像。
「貰うんじゃなかったのか……」
 背後に回った啓介の手を視線で追った京一の口から、意外に思った心中のままが思わず小さく滑り出た。
「……え」
その言い方にどこか引っかかるものを覚えた啓介が、胡乱げな顔をする。


―――須藤のこの問いは。
 普通に考えれば、バレンタインのチョコレートとは、本命であれ義理であれ女性が男性に渡すものである。男である啓介が貰う立場であるのは当然だった。なのに須藤はそう口にした。まるで啓介が貰う側ではない可能性でもあるかのような。

 今日大学に行った啓介は朝から、何人もの女からチョコレートを押しつけられそうになった。知っている女もいれば知らない女もいた。しかし、数々のこれらを受け取ったら受け取ったで後々面倒な事もあると、経験上知っている啓介にはうざったくて、駐車場から早々にFDを引き出すと、ただでさえ午前の2コマしかなかった授業にちゃっかり自主休講を決め込んで大学を後にしてきたのだ。
 しかし、チョコレート自体は好物であったので何となく損をした気分にもなり、暇にあかしてここへ足を向けてみたのだが。
―――アニキがオレにくれるなんてこた、ないもんな。
 涼介は、甘い物にも、ここぞとばかりの菓子屋の商戦にも興味を持たず、眼中にない。
 きっと自分と同じような目に―――いや、更に激しい攻勢をかけられている筈の兄は、押しつけられる面倒を被らぬよう、毎年上手く立ち回って一つも家には持ち帰らないのが常である。世の中の浮かれた行事に煩わしさを感じこそすれ、自分で買う事などは思いつきもしないだろう。
 ということは、せっかく種々様々なチョコレートが巷に乱舞するおいしい時期だというのに、このままだと啓介は食いっぱぐれる可能性があった。
 啓介は、節目節目の賑やかなイベント事というものが嫌いではない。
 くれる筈のない兄を空しく待つぐらいなら、美味いチョコレートを見繕って買って帰り、渡してみようかなァという頭もあった。さすがの兄も受け取ってくれるのではないだろうか。そうしたら一緒につまむのもいい。気に入りの紅茶でも入れてもらって―――と啓介の中では、帰宅後の涼介との予定が着々と組まれていた。
 だが、そんな啓介の胸中を知る人間がいる筈もない。
 なのに。
―――貰うんじゃない?どういう意味だ。オレが誰かに渡すって……いや、勘繰りすぎか。
 何か含みがあるのだろうか。
 この男が、自分と―――兄との事を知っている筈もないが。
 しかし自分から余計な事を気取られるような事はすまいと用心する啓介が、油断のない顔付きでピタリと口を噤む。

 含み。京一に含みは―――特になかった。
 涼介から貰うんじゃなかったのかお前が渡す立場だったのか?と。
 実際の事実関係があるのか無いのかどうかまでは知らないが、もっと端的に言えば。
 寝るんならベッドの中ではどっちがどうなんだ、と涼介を抱いている京一としてはそうただ単純に湧いた、しかし下世話にすぎる疑問をふと洩らしてしまっただけなのだが。
 しかしそれを口に出す訳にもいかず、今度は京一が続く言葉にぐっと詰まる。
 二人の間に間の悪い沈黙が漂った。

「……高……橋」
 振り向いた京一は、ほど近い所に立ってこちらを見ている青年の名を口にする。
 高橋―――啓介。涼介の弟。赤城レッドサンズのナンバー2。
 直接話をした事はなくとも、今までの様々なバトルの夜、常に涼介の傍らにある存在として何度も目にしている顔だった。過去には、涼介と話をしている時に啓介が居合わせていた事もある。向こうとしても、こちらを見知っている筈ではあった。
「…あ…っと」
 自分から京一に声をかけたものの、目の前の若い顔は続く言葉に困ったような風情で口ごもった。どうやら知った顔を見かけて思わず、といったところであったらしい。
「お互い珍しい場所で出会うもんだな」
 当たり障りのない挨拶のような言葉を口にしながらも、過去からのいくつもの記憶と思惑とが京一の脳裏を駆け抜けていた。
―――涼介が自ら言う事はありえない。こいつは、俺が知っているって事も、それに俺達の間に横たわっている因縁事の存在も知らない筈だ。声を掛けて来たのは偶然か……。
 いささか複雑な思いに捕らわれる。
「須藤もチョコ買いに来たのか?」
 言葉に詰まっていた啓介は、京一の言葉に促されて自分達が今いる場所を思い出したのだろうか。しかし、彼がようやく口にした内容は、場所柄的には最もふさわしいと思えるが、この場に居合わせているメンツを考えた場合、最もふさわしくないのではないかと思えるものであった。
「…………」
―――も?
 意味が取れなかった京一の頭の中に瞬間、白い風がびょうと吹いた。
 その視線がふと、啓介の手許に止まる。
 眉根を寄せてじっと見つめた。
 京一の訝しげな視線に気付いた啓介が、ハッとして両手を後ろに回す。
 視界を掠めて行ったのは、目の覚めるような濃紺の包装紙に銀のハートマークのシールが貼られている小箱の残像。
「貰うんじゃなかったのか……」
 背後に回った啓介の手を視線で追った京一の口から、意外に思った心中のままが思わず小さく滑り出た。
「……え」
その言い方にどこか引っかかるものを覚えた啓介が、胡乱げな顔をする。


―――須藤のこの問いは。
 普通に考えれば、バレンタインのチョコレートとは、本命であれ義理であれ女性が男性に渡すものである。男である啓介が貰う立場であるのは当然だった。なのに須藤はそう口にした。まるで啓介が貰う側ではない可能性でもあるかのような。

 今日大学に行った啓介は朝から、何人もの女からチョコレートを押しつけられそうになった。知っている女もいれば知らない女もいた。しかし、数々のこれらを受け取ったら受け取ったで後々面倒な事もあると、経験上知っている啓介にはうざったくて、駐車場から早々にFDを引き出すと、ただでさえ午前の2コマしかなかった授業にちゃっかり自主休講を決め込んで大学を後にしてきたのだ。
 しかし、チョコレート自体は好物であったので何となく損をした気分にもなり、暇にあかしてここへ足を向けてみたのだが。
―――アニキがオレにくれるなんてこた、ないもんな。
 涼介は、甘い物にも、ここぞとばかりの菓子屋の商戦にも興味を持たず、眼中にない。
 きっと自分と同じような目に―――いや、更に激しい攻勢をかけられている筈の兄は、押しつけられる面倒を被らぬよう、毎年上手く立ち回って一つも家には持ち帰らないのが常である。世の中の浮かれた行事に煩わしさを感じこそすれ、自分で買う事などは思いつきもしないだろう。
 ということは、せっかく種々様々なチョコレートが巷に乱舞するおいしい時期だというのに、このままだと啓介は食いっぱぐれる可能性があった。
 啓介は、節目節目の賑やかなイベント事というものが嫌いではない。
 くれる筈のない兄を空しく待つぐらいなら、美味いチョコレートを見繕って買って帰り、渡してみようかなァという頭もあった。さすがの兄も受け取ってくれるのではないだろうか。そうしたら一緒につまむのもいい。気に入りの紅茶でも入れてもらって―――と啓介の中では、帰宅後の涼介との予定が着々と組まれていた。
 だが、そんな啓介の胸中を知る人間がいる筈もない。
 なのに。
―――貰うんじゃない?どういう意味だ。オレが誰かに渡すって……いや、勘繰りすぎか。
 何か含みがあるのだろうか。
 この男が、自分と―――兄との事を知っている筈もないが。
 しかし自分から余計な事を気取られるような事はすまいと用心する啓介が、油断のない顔付きでピタリと口を噤む。

 含み。京一に含みは―――特になかった。
 涼介から貰うんじゃなかったのかお前が渡す立場だったのか?と。
 実際の事実関係があるのか無いのかどうかまでは知らないが、もっと端的に言えば。
 寝るんならベッドの中ではどっちがどうなんだ、と涼介を抱いている京一としてはそうただ単純に湧いた、しかし下世話にすぎる疑問をふと洩らしてしまっただけなのだが。
 しかしそれを口に出す訳にもいかず、今度は京一が続く言葉にぐっと詰まる。
 二人の間に間の悪い沈黙が漂った。


「じゃあ、須藤は何なんだよ。こんなとこ来て」
 気を取り直したように再度、啓介が口火を切った。
「……デートだデート」
 都合よく提供された話題に乗った京一は、適当な答えを返しながら顎で示す。その先には、レジに並ぶ華音の姿があった。
「へぇ。すげぇ美人じゃねーか。須藤の彼女か?」
「そういう訳でも……あるようなないような」
「はっきりしないヤツだな。照れるなよ。お似合い……じゃないか」
 目を引く豪奢な外見を持ち華やかな装いをした女から、デートだと言う割にはかつて何度か目にした夜と同じような、軽く羽織ったブルゾンの中にざっくりしたシャツ、それにカーゴパンツという適当にすぎるラフな格好をしている京一へと目を移した啓介が、いささか苦しそうな口調で言う。
「そうか」
 礼儀だと思っているのか無理に世辞を使おうとしているらしい相手に、苦笑いが漏れる。
 京一は別に照れている訳ではなく、単に。
 彼女だとかそうでないとか、昔からの付き合いで時たま寝てるだけだとか、煩わしい説明もせずに分類できなかっただけの話であったのだが。
「そういう高橋はどうなんだ。くれる相手には不自由しないだろう」
 スラリと細身の長身、逆立てている短めの髪の柔らかい薄茶の色合い、吊り上がったアーモンドアイズ、引き結ばれた薄い唇。整って意志の強そうな凛とした端正な顔立ちの持ち主に目を遣りながら言った。
「誰から貰おうと貰うまいと、須藤にはカンケーねーだろ」
 軽くいなすような口調だったが、微妙に警戒心が覗いているのを感じる。
「いや、さぞかし女が放って置かないだろうって事さ」
 特に他意はなく、見たままの感想を言っただけの京一が再び苦笑を誘われる。
 しかし、ある程度の内情を知る身としては、啓介の反応が意味するところが手に取るように分かって、それはそれで面白い。
「そりゃあそうだけどよ……」
 そんな事はないと謙遜をしないのは立派だが、恐らくは京一の知る理由から、何やら後ろめたい思いもしているらしい啓介の歯切れはどことなく悪い。
「まあ、男がチョコレート買って食ったからって別に悪いこた何もねぇだろう。買うのか」
 フェアではない己の立場を知っている京一は追求を放棄して、啓介が背後に隠した包みを軽く指差す。
「いや……どうしようかな、と思ってさ。ないんだよオレの好きなのが」
 再び関心がチョコレートに向いたのか、深刻な顔でむーん、と唸る啓介を京一は無遠慮に眺めた。
 人見知りしないたちなのか、それともバトルの場で会った訳ではないから、相手が自分達とは友好的な関係を築いているとは言い難い走り屋チームのリーダーだということを気にも止めていないのか。
 わだかまりを感じさせない態度で世間話に乗ってくる啓介に意外さを感じる。
 初対面の相手は大概、京一の大柄で分厚い体躯と射抜くような鋭い双眸、滲み出す威圧感に出会っただけで多かれ少なかれ萎縮してしまうものだったが、そんな気配は微塵も見せずに揺らぎのない視線で真っ直ぐな反応を返してくる啓介へ、京一は新鮮な思いを抱いていた。


 啓介は、以前に食べた事があり、なかなか気に入っていた商品を買って行こうと探していた。しかしこれで5軒目だと言うのに、群がる女共に全て買い尽くされて売り切れてしまったのだろうか、記憶にあるそれは影も形も見当たらない。
 諦めて適当な物を見繕って帰ろうと、豊富な品揃えをしていそうだったこのチョコレート売場に戻って来た所で、たまたま見知った顔を発見した啓介はつい思わず声をかけてしまったのだった。
「何が好きなの?」
 突然、脇から女の声が聞こえた。気付くと、レジが終わったらしい華音がひょいと横から顔を出して啓介を見上げていた。
「こんにちは。私、華音。宜しくね」
 にこりと微笑む。
「かのん?へえ、珍しい名前だなァ。あ……オレは高橋啓介。えーと、こんにちは」
 毛並みの良さを発揮して啓介が礼儀正しく挨拶をした。
「須藤の彼女、だよな?」
「あーら。嬉しい事言ってくれるわね。啓介くん」
「違うのか?」
 あれ、と言う顔で啓介が京一と華音の顔を見比べる。
「ううん。そうよ」
 華音がふふふ、と楽しそうに笑った。
 京一は黙って苦笑している。
「で。どこのが好きなの?」
 華音は、最前耳に挟んだ内容をもう一度啓介に尋ねる。
「リンツってメーカーだったのは覚えてるんだよな……ええと。赤とか青とかの丸い形してた奴が好きなんだけど、ってこんな説明じゃ分からないよなァ」
 こういう、と親指と人差し指で三センチ程の小さな円を形作った指がすぐに戸惑うように持ち上がり、自分の短い髪をガシガシとかく。
「あ!リンドール、かな?あれ私も好き。美味しいわよね。ビター?ミルク?」
「ええと、赤い包み紙の……甘い方」
 よく分かったな、と驚いたように目を瞠りながら啓介が答える。
「ミルクね。うんうん。私もたまーに欲しくなると我慢できなくなるわよ。あの甘さ」
「だよな。美味いだろ?」
「中に詰まってるトリュフのコクがまた」
「そうそう、柔らかくって…うーん、何てーの?」
「とろり?」
「いや、もっとこう……」
 京一には不可解にして意味不明な話題で、二人の間ではひとしきりの会話が弾む。
「そう言えば、この辺りでは見かけなかったわね。最近あんまり出回ってないみたいだし。あれ?でも……京ちゃんの部屋に転がってたわよ……ね?」
 疑問詞と共に、華音が背後を振り返った。
 聞くともなしに聞こえてきた華音の台詞に啓介は、京ちゃんってもしかしなくても須藤?京ちゃんてカオか?と眉根を寄せて男の顔を盗み見ながら、ひとり心中で呟いていた。
「知らねぇ。俺に菓子のメーカーやら種類やらが分かるとでも思うか?」
 酸っぱいものを食べたような表情で京一が答える。
 否が応でも思わず部屋に置き去りにされている不気味な山を思い出してしまって、華音をジロリと睨みつける。
「ううん。思わない。でも、確かあったわよ」
 そんな京一の態度には慣れきっている華音は平然として流す。そしてハナから実のある返事を期待していなかったらしい女の声はしかし、確信に満ちていた。
「いいなー」
 話の成り行きを聞いていた啓介が、今にも指を咥えそうな声を上げる。
 綺麗さっぱり見あたらないのであれば諦めもつくが、ひとたび所在が明らかになるや否や、反動で余計に欲しくなるのが人間というものである。
「時間があるなら取りに行ったら?一つや二つや三つや四つ、減った所で構わないでしょ」
 部屋を出る前の殊勝な言葉はどこへやら、華音は京一宛である筈の時節物にして期間限定である贈答品の一部処分を勝手に決めようとする。
「おい……」
 誰とは言わないが誰かの断りもなく、啓介を自分の家になど連れ帰ったらまずいだろう事だけは容易に判断がついて、京一はとっさに待ったをかけようとしたが。
「え?ホント?やったっ!」
 嬉しそうに踊る声に遮られる。そして声の主は続けて。
「須藤ってそんなにモテるのか?」
 自分よりも数センチほど高い場所に目線がある男をマジマジと見つめて、恐る恐ると言った口調で尋ねた。
「うく……っ」
 瞬間、吹き出す華音。
「…………」
 押し黙って無言の京一。
「何だよ?」
 訳が分からずに啓介が、すっきりと秀でた額の間に皺を寄せる。
「ええと?でも私は、残念だけれどこれから用事があるから……連れて行ってあげれば?」
 賢明にも啓介の疑問へは答えずに、それでも、笑いすぎにより滲んだ涙を白く細い指先で拭いながら華音が京一を促した。
「本気か?」
「いいじゃないの」
「食いたい」
 三人三様で発したセリフと、勢いのある二対の視線に期待を込めて見つめられた結果。
「……分かった」
 京一が腹の底から息を吐き出す。
――― 知らねぇぞ俺は。
「よかったわね」
「へへ。サンキュ」
 傍目には特段、何の変化も見られなかった無表情の裏で、何とはなしに天を仰ぎたいような気分になっている京一の心中も知らず、啓介と華音は和やかに言葉を交わす。
 こうしてこの日、めでたく啓介は目的の物を入手する予定となったのである。


 華音が京一の袖口を引っ張って少し離れた所に連れて行く。
「送っていかなくていいのか」
 途中、京一が尋ねた。
「いいわよ、ここからタクシーですぐだし。でもたまにはパパにも顔見せてあげてね」
「……ああ。分かった」
 不義理をしている自覚はあって京一が、いささかきまり悪げな顔をする。
「あ、それから雅史に会ったら礼を言っといてくれ。丁度よかったってな」
 思い出したように軽くそう言って付け加えた。
 兄からだと言って華音はゆうべ、手土産に酒を持って来ていた。京一がその酒を好む事を知っている雅史は時折、それを寄越してくる。店の客に出す為に仕入れたものが余分だった時などに片付けさせようという魂胆らしいが、それはそれで京一にとっては都合のよい事であった。
「……ん、伝えておく。それよりちょっと京ちゃん。手出すんじゃないわよ?」
―――『余っているから、持って行け』
 そう言って兄から何気なく渡されるそれが大抵、京一の手元のものが切れる頃合いを見計らったかのようなタイミングである事を知っている華音は内心で嘆息しつつも、京一の背後に視線を飛ばして声を潜めるようにしながら言った。
「お前、俺を何だと思ってるんだ。俺にも一応好みってものがあってだな」
 涼介の弟だぞ出せるか馬鹿、とは思っていても京一は、私情についての一切を例え身内同然の相手であろうとも洩らすつもりはなく、自分では至極無難だと思える答えを適当に口にする。
「そんな事言って……手応えありそうなの好きでしょうが」
 にも関わらず華音は、疑いの眼差しで丈高い男を見上げた。
「信用ねぇな」
 京一が面白くなさそうに、ふん、と鼻を鳴らす。
「今更そんなものあるわけないでしょ。一応、ですってぇ?もう……」
 京一とは旧い付き合いのある女が、盛大に溜息を付いた。