Toilette-トワレ-


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 地下にある馴染みのバーのカウンターに腰を落ち着けて、京一は独りで酒を楽しんでいた。
 ざっくりとした薄手の黒いニットに生成のワークパンツ。
 浅黒く陽に灼けた肌。
 名のある名工が蚤を振るったような、滑らかに削げた頬とがっしりした顎、彫りの深い顔立ち。
 バンダナに覆われる秀でた額。
 絞られた照明がいつもの無表情を照らし、眼窩に深い陰を落としている事で、その男性的な容貌の横顔を静謐な彫像の如くにも見せている。

 夜の店としてはまだ早いと言える時間帯のせいか、そう広くもない店内に客の姿はまだ少ない。
 カウンターに座るのは京一のみだった。
 店の奥には数少ないながらボックス席もある。
 京一が率いる走り屋チームのメンバーのうち、歳嵩の者が溜まっている事も多いその場所に、今日はそれらしき人影が見当たらない。
 あるテーブルではごく数人の男が静かに話し込んでいる。
 また別のテーブルでは店の女達と低く笑い合いながら語らっている男もいた。

 京一もたまの上機嫌な夜には、店内を泳ぎ廻る、さながら熱帯魚のような彼女らと会話や軽口を楽しむ時があった。そんな時、すでにして完成された大人の男の色気を放つ京一は、夜の女達を誘蛾灯のように惹き付ける磁力を持っている。
 しかし、今日は特にそういう気分な訳でもなさそうだ、と彼女らは判断したらしかった。
 一人で飲みたい時には反対に、うるさく纏わりつかれるのを極端に嫌う京一を経験上よく知る女達は、時々こちらを気にするような目線を寄越しながらも、無情につれなくされる危険を避けてか、あえて近寄ってはこない。

 京一と数少ないながらも二言三言、時たま言葉を交わすのは、カウンター内に収まるバーテンだけであった。
 やや長めの髪を後ろに流して撫でつけている彼は、長身で分厚く逞しい体躯を、お仕着せの白のドレスシャツ、黒のパンツとベストに包んでいる。
 店の用心棒をも兼ねているのだろうか。場所が場所であれば、紋々を背負っていてもおかしくないとも思わせるような見てくれと鋭さを隠した目付きをしていた。
 本人が意図して押さえているのかそうでないのか、威圧感を感じることはないが、落ち着き払った態度に燻したような風格と風貌を備えている。
 しかし時折垣間見える敏捷な動作の端々からは、彼がまだ若くある事が知れた。外見から推し量り強いて言うのなら、歳の頃は三十をいくつか越えたあたりか。
 元来寡黙な質なのか、無駄話で自分から進んで口を開くこともなく、手許に並べたグラスを黙々と磨いていた。

 京一の眼前には、琥珀色の液体が揺れるショットグラスと、氷が浮かぶ冷水のタンブラーが置かれている。
 酒を一口含み、舌の上で転がして、口腔いっぱいに広がる焦げたようなバーボンの香ばしい薫りを楽しむ。
 喉の奥に送り込み、チェイサーで落とし込む。
 胃の腑に酒が到達すると、腹の底がカッと灼けるような熱を感じた。
 そしてやがて襲ってくる、軽い酩酊感が心地よかった。


 カラン―――。

 涼やかな音をさせてドアのカウベルが鳴り、地上から洩れてきた光が細く長く射し込む。
 蔦の絡まる重厚な黒のドアをゆっくりと開けて、光の奔流の名残を背にした女が店内に足を踏み入れた。
 小造りだが美しく華やかな顔立ち。背中の中程までを波打つ長い栗色の巻髪。
 そう高くはない身長だが、躰のラインが綺麗に出るシャープなデザインをした黒檀色のスーツがよく映える。短めのタイトスカートの裾からは、動きによっては薄く腱が浮き出る形の良い脚がすらりと伸びていた。細い頸を巻いたチョーカーと耳に填る小さな紅い綱玉を囲むプラチナが、光量を押さえてある照明に反射して、冷たく煌めく。
 そちらにチラと目をやった京一は、軽く目を眇めた。
 満更、知らぬ仲ではない女だった。


 「いらっしゃいませ。……おや、珍しいな華音、こんな早い時間に」
 黙々と自分の仕事をこなしていたバーテンが声をかける。ごく低音だが、外見に反して意外にも愛想の良い穏やかな声だった。
 もしくは客商売をするからには身につけざるを得なかったものなのか。
「ちょっと時間が空いたから。……いる?」
 華音と呼ばれた女はかろく頷き、柔らかな笑みを向けて訊いた。
 くい、とバーテンが顎で示す。
 暗い照明の中で、カウンターに座る京一の姿を見つけた女は、通り過ぎる時にすれ違う女達からのさり気ない会釈に軽く応えながら、真っ直ぐに歩み寄って来た。
 滑らかな動作で、すっ、と隣のストールに腰掛ける。
 京一は煙草を銜えたまま、億劫そうに視線だけを動かす事で応えた。

「何か飲むか?」
 バーテンが尋ねる。
「そうね……。ミモザを」
 軽いプレ・ディナーのカクテルの名を口にすると、バッグを探って取り出したシガレットケースから一本を抜き取り、細いメンソールの煙草に、白く細い指で火を灯した。
 バーテンは視線を一瞬、京一の方へとチラと流してから、華音に眼で尋ねる。
 それに対して、華音が曖昧に頷いた。
「……」
 無言のまま、ふっ、と小さく笑ってオーダーを受けた彼は、棚から華奢なフルート型のグラスを手許に用意する。
 次いで、カウンター下の冷蔵庫からオレンジを取り出すと、ナイフで捌いて素早くスライスを作った。
 柑橘類独特の豊潤な芳香が、周囲にふわ、と漂う。
 残ったオレンジをラップで包み、元の位置に戻すと、今度は別の冷蔵庫を開けてよく冷えたオレンジジュースとシャンパンを取り出した。
 優美なデザインの細長いグラスにオレンジジュースを注ぎ、その上からシャンパンをゆっくりと満たす。
 グラスの底から、幾筋かの微小な気泡が立ちのぼった。
 マドラーで二度程、軽くステアする。
 スライスしたオレンジをグラスの縁に差すと、最後に数葉のミントを乗せた。

「どうぞ」
 年ふりた飴色に磨かれて、木目のグラデーションも美しいカウンターの上で、橙色の液体が揺れ、止まる。
「ありがとう」
 煙草を置いて、嬉しそうにグラスを手に取った華音は、京一の方を向き軽く一度持ち上げて乾杯を表意する。
 それを眺めやった京一がかすかに顎を引くと、微笑んで、綺麗にルージュが塗られた紅唇に一口含んだ。


 コトン。

「はい。これお土産」
 特に華音へ声をかける訳でもなく無言のまま手許のグラスを交互に口へ運び、紫煙を燻らせていた京一の前に、軽い音と共に何かが置かれた。
 シンプルな包装紙に包まれた縦長の小さな箱。
「―――土産?そういやぁ最近顔見かけなかったな……どこか行ってたのか」
 京一が、初めて華音に対して口を開く。
「用事があって、半月ぐらい外に出てたのよ」
 言ってから京一を軽く睨む。
「京ちゃん相変わらず冷たい……。今の今まで気付かなかったのね?」
 怨ずるように言った。
「……そういう関係じゃねぇと思っていたが」
 そう思っていたのは俺だけか?と、問いかけるように軽く目を見開き、驚いた素振りをする。
「知らないもう……。でも、まあいいわ。開けてみて?」
 諦めたように肩をすくめ、こちらもさらっと受け流して催促した。
 京一は怪訝そうな顔をしながらも、ガサガサと開封していく。
 その手元から現れたのは。
 深紅と濃紺のコントラストが眼にも綾かな化粧箱。
「……んだこれは?」
 眉をひそめながら、掌に入るサイズの小箱を指先で弄ぶ。
「見て分からない?香水よ香水。トワレ。……どう?」
 京一の顔を覗き込むようにしながら女が軽やかに艶やかに笑う。
「どうって……何で俺に寄越すんだ。俺がこんなもんつけると思うのか?」
 そう口にした時、かすかな既視感があった。

―――どこかで……

「え……これつけてたでしょ?半年ぐらい前……かな。時々は使ってるんじゃないの?」
 聞いたつもりが反対に、さも意外そうに問い返されて、掴もうとしていた感覚が指の間を擦り抜ける。
「お前それ……人違いじゃねぇか?」
 京一は訝しむ表情で見返しながら、箱を包む透明な包装の端を探す。
「京ちゃんよ。こんな外見のバカでかい男、見間違える訳ないじゃない。すっごく!綺麗な人と一緒に歩いていたわよ、その時」
 すっごく、に力を込めて華音が教える。
「すっごく綺麗……?」
 その形容詞に、ここ半年ぐらいで一緒に歩いた覚えのある気がする女達を、適当な順番で脳裡にスクロールさせながらそう呟く。その合間にも、器用に動く長くがっしりした指で、セロファン紙を剥がしていた。
 ようやく箱を開けて、その中身を取り出した京一の視線が、途端にそれへと吸い寄せられる。
 暗く揺らぐ火邑の色をした香水瓶。

―――……あぁ。……思い出した



「俺がこんなもんつけると思うのか?」
 あの時も確か自分はそう言ったのだった。