Toilette-トワレ- |
「どれか試してみたらどうだ。気に入ったものがあったら買ってやろうか」 いつの間に用を終えたのか、隣に立っていた涼介が眼前に並べられている瓶を指差した。 冗談だとしか思えない口調と内容であった。 事実、ふとした思いつきが彼にそう言わせたのだったが。 「俺ぁいい」 興味なし、と京一が肩を竦めて拒絶する。 「これは?『ジュール』と言うトワレだ」 聞かず、涼介が一つの小瓶を手に取った。その白く端麗な容貌に嵌め込まれた闇色の瞳に、かすかな悪意が透けて見える。 言外にたっぷりと含みを持たせた表情で京一を見つめた。 「……ジュール?意味は」 相手にするつもりは更々なかったにも関わらず、その余りに意味有り気な涼介の態度に、思わず言葉が京一の口をついて出た。 ―――ふん。他愛もない。 「『私の男』」 心中を綺麗に押し隠して涼介が、サラリと答えた。 それを訊くや否や、予想通りさも厭そうな表情に歪んだ京一を目にして、満足そうにくっと冷笑する。 「……勘弁してくれ」 苦虫を噛み潰したような顔になって京一は、やはり聞くんじゃなかったと臍を噛んだ。 「買ってやろうか?」 誘うように艶やかな笑みを浮かべて涼介が、重ねて京一に問う。 ひそりと両端が持ち上がった薄紅色の唇の蠱惑に、思わず目を奪われた。 遠い日の、その感触を思い出しそうになる。 身の裡のどこかで、舌舐めずりをする気配がした。 「いらねぇっつってんだろ。大体、どうして俺がお前に買って貰わなきゃならねぇんだ」 意志の力で無理やりに涼介の唇から視線を引き剥がした京一は乱暴な口調でそう言うと、真っ平ごめんだね、とばかりにヒラヒラと片手を振った。 「そうか……嫌か」 一変して、作ったとはっきり判る残念そうな表情で呟く。 「じゃあこれはどうだ?『ファーレンハイト』。クリスチャン・ディオールの名香だ」 懲りずに、しかし今度は馬鹿にするでもなく何かを確かめるかのような目の色で次を選び、京一に見せる。 滑らかなカーブを描く円錐形の香水瓶。底辺は紅が滲む琥珀色。上部に向かって少しずつ深紅が強くなり、そして取って代わる。凝った血のような暗い紅へと。 宙に透かして揺らされるとそれは、不思議な色合いを垣間見せる。中で揺れる液体が、見る者に瓶の中で埋み火がチラつく錯覚を与えるかのような。 「で。こいつの意味は?」 先程の一幕に懲りた京一は、とりあえず訊いた。 涼介がふっと笑む。 「さっきのような意味はないぞ。『ファーレンハイト』の意味は「華氏」だ。華氏温度の略だが。この華氏温度の創始者がファーレンハイトという人物だった。そして中国では彼の名に「華倫海」の字を宛てた事から、彼の創った温度基準の事を「華氏」と言うようになった」 京一を見上げながら、涼介がゆっくりとした口調で教える。 「……俺がこんなもんつけると思うのか?」 諦めておとなしく聴いていた京一だが、涼介の真意が判らずに尋ねる。憮然とした中に知らず、わずかな困惑が混じった声音になった。 「まあ、そう言うな。試すぐらいはいいだろう?ほら、手を出せよ」 あっさりと決めつけた涼介は、目の前のテスター瓶を取り上げる。 はっきりと男の物でありながらも白くしなやかなその指をすい、と伸ばすと、有無を言わせずに京一の頑丈な右手首を持ち上げた。 シュッ 一吹きしたスプレーから放たれた独特の香りが周囲にふわ、と拡散する。 「どうだ?」 患者への投薬結果を医者が冷静に探るような眼差しで、涼介が京一に感想を求めた。 「どうって……どうもこうもねぇよ」 勝手が分からずに戸惑っていると、素早く首筋にも軽く吹きつけられた。 「やめろ。涼介」 京一は空いている左手で、香水瓶を握ったまま逃げを打とうとする涼介の右手を引き寄せて掴まえる。 「この香りは嫌いか?」 思いもかけず息のかかるほどの間近から闇色の瞳で見上げられて、再び京一の裡がぞくり、と波打った。 ―――つ……やべぇ…… 反応が一拍遅れる。 「……そういう問題じゃない」 妙な感覚を押し込める事に何とか成功した京一は、会話に集中して顔をしかめた。 実際、躰の周囲へ纏わりつく香りの存在というものは初めての経験であり、煩わしい事この上ない。 「そうか?ファーレンハイトはウッディ・フローラルに属されて、女性にも好まれる柔らかな芳香だと言われている。自分では使った事がないが、俺も好きな香りの一つだ。しかし、どちらかと言えば柔らかいと言うよりは……特にファーストノートは。力強く大地に根を張る広大な針葉樹林を連想させるかような、峻烈で辛口な香りだとも感じられる。あくまでも気高く、そして意志は強固な凛とした香り。黒いエボIIIで咆哮を上げ闇を疾駆する、森林の若き孤高の狼の如きお前には、似合いだと思ったんだがな……」 滔々と言葉を紡いた涼介だったが、最後の方はややもすると独り言のようでもあった。 それを聞くともなしに聞いていた京一は、涼介の言葉に揶揄する響きを探してしまう。 しかしそれは、二ヶ月前に自分の全勝記録を止めた当の本人である涼介への、引け目から来る気のせいなのか。 「いい加減にしろこの蘊蓄野郎。似合うとか似合わないとか、そんな事は聞いちゃいない。いらねぇって言ったろ?」 京一は、すげない態度を一気に硬化させた。 と同時に今更ながら、自分と涼介が互いの手首を握り合い、今にも顔が触れなんとするばかりの接近を果たしていた事に気付いて、いささか動揺する。真っ昼間に人通りのある店の前で、それも目立つ長身の男二人連れのあるべき姿ではない筈だ。 周囲を通り過ぎて行く人々がそれとなく投げて行く、好奇に満ちた視線が痛い。少し離れた所からおとなしく、客の動向を伺っている女性店員の営業用の微笑も、心なしか引き攣っているのが分かる。 焦って涼介の手を離し、握られていた自分の手をも素早く振りほどいた。 「そうか」 それを横目に眺めて人の悪い余裕の笑みを浮かべながらも、その中にわずかだけ別な色を織り交ぜた表情で涼介はそれだけ言うと、京一に解放されて宙に浮いたままだった右手の中の紅い小瓶を、元の位置に戻した。 本当は。涼介に吹き付けられたその香りが、固く閉じていた蕾から周囲の大気中へと鮮やかに大輪の花開いた時。 奥深い森林に吹き渡る一陣の風を感じて、解き放たれるような感覚を味わっていた。 しかし。 ―――柄じゃあねぇ…… 京一は、涼介が棚に戻したその香水瓶をほんの数瞬だけ見つめ。そして忘れたのだった。 |
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