Toilette-トワレ-


       8 









 昼間エボIVで清次と共に出かけて帰って来て、バーへ行く前に預けてあった荷物を回収する為に、京一は清次の部屋へとやって来ていた。そう広くはない部屋の中には、車関係の雑誌やビデオ、それに様々なクルマのパーツまでが所狭しと散らばっている。
「そういや腹減ったな。何か食う物あるか」
 足の先で適当に物をどけて場所を空け、持ち帰る物を集め始めた京一がふと手を休めて言った。バーでは酒しか飲んでいなかった事に気付いたらしい胃が軽い空腹を訴えている。

「えーと?何かあったっけかな……」
 要求を言うだけ言った京一は、冷蔵庫を眺め始めた清次をよそに荷物を纏める作業に入る。
 身の動きを拘束する上着が邪魔だった。
 脱ぎ捨てて床に放り投げる。カン!と固く甲高い音が響いた。
 思い出して焦り、投げた上着の内ポケットに手を突っ込む。
 幸い、紅い小瓶に割れた様子はない。蓋を開けてみた。
 ミニボトルは以前見た物とは違って、スプレー式ではなく直接指で付けるタイプだった。
 口の開いた瓶から記憶にある香りが、ふわり、と立ちのぼる。
 子細を観察していた冷静な灰色の双眸に、ふと別の色が混じった。
 見るともなしに視線を当てていると、鼻腔を嬲る香りと共に甦ってくる。
 顔をしかめて素早く瓶の蓋を強く閉めたが遅かった。
 思考を逸らそうとしたが治まらない。それどころか。

 チロチロと揺らぐ埋み火。
 京一の昏い情念のような。
 そして腕の中で悶える躰。
 己を欲して乱れる白い…。
 
 ぐぅ…ッ―――!

 火が点る。

「な……ッ!京一……ッ?」
 背後から突然抱きすくめられた事に驚いて清次が振り返った途端、荒々しく唇を重ねられた。何の物音もさせぬまま襲いかかった京一の、一瞬の仕業だった。
 驚愕して抵抗もままならぬ清次を羽交い締めにしたまま、一方的に自分の都合のよい態勢に入れ替えると、更に深く唇を重ね合わせて口腔を犯す。
 空気中に残留する、清々しい筈の香りが、生々しい記憶を伴って躰に纏わりつくようだった。
 滴るような甘い毒の記憶に脳が灼かれ、躰の芯が痺れたような感覚を覚える。
 鮮烈に再現され甦った疼きが臨界点を超えていた。
 繰り返し襲い来る幻惑をこれ以上やり過ごして耐える事には、もう我慢がならなかった。
 躰が熱い。体内で、あの白い熱が焔を放って荒れ狂っている。
 
―――ここには……がいねぇ……

 それならば。この滾りを鎮められるのであれば。今はもう……誰でもよかった。

「京一……ッ!待て……ってッ!」
 一方的に貪られていた清次が、空気を求めて掠れた声で喘ぐ。
 息も絶え絶えな清次を手荒く突き飛ばした。
 床の上の雑物に足を取られ、よろけた躰を引っ捕らえてベッドの上に投げ出す。
 遅滞のない一挙動で素早くのし掛かると、獲物に食らいつく獣のように清次の四肢を押さえつけ、爛々と光る鋼色の双眸で睨み据えた。
「今更ぶるんじゃねぇよ。清次。おとなしくしてろ……」
 低く唸る京一の声も軋んで掠れ、呼吸は荒く早い。
「急にどうしちまったんだよ京一……ッ。メシは……?」
 訳の分からぬまま組み敷かれ、未だに状況が掴めぬ清次が困惑した声を出す。
 しかしその中には既にして微妙な変化が混じっていた。
 京一と清次では、清次の方に体格の分があり体重も重く、腕力もわずかながら上である。
 しかし本気でやり合った場合、テクニックで優る京一に、ギリギリのラインで負ける可能性が最後まで拭えない事は判っていた。
 それは出会いの時、互いの経験を通して身をもって知った事でもある。
 ましてや清次には、そこまで死力を尽くして京一に逆らう気持ちも毛頭なかった。

 かつて形を変えて二度挑み。そして敗れた。
 自分はそのまま、京一の前から姿を消す事もできた。
 しかしあの時。

 この魂と器に惹かれて。
 自らの意志で屈した。
 隷属して数ヶ月。

 今の清次には、京一の手荒い愛撫を甘んじて受け入れるしか他に道は無い。

「メシはとりあえずお前に変更だ」
 情欲にも空腹この上ない飢えた獣が、猛々しい肉食獣の笑みを見せた。
「邪魔だ。服を脱げ」
 促して手伝わせながら手際よく清次の衣服を剥ぎ取り投げ捨て、合間に自分も脱ぎ捨てる。性急に清次の首筋や胸、脇腹へと最低限の愛撫を施してゆく。
 ムードもヘッタクレもない、ただ躰の準備としての前戯であった。
 が、このようななだれ込みが少なくない事もあり、また京一とのこうした行為に馴染んでいる清次は、愛撫が進むにつれて意志とは関係なく段々と息が上がっていく。
 京一の身を焦がす凶暴な情欲が清次にも伝染したようだった。
 被虐の趣味はないと思ってはみても、躰の異様な興奮は高まっていく。
 下腹部には既にして血液が集中し、重い熱が集まっていた。

「……きょう……い……ち……」
 顔の横で勃ち上がり愛撫を欲している熱源を無視したまま、腰骨の上を舌先でなぞっていた京一は、名を呼ばれて顔を上げる。
「……何だ。もう欲しいのか」
 もどかしげに焦れたような清次の顔を見出した。
 喰われるのを待つばかりの獲物を前に、にやりと満足げな舌舐めずりをして唇を濡らす。
「―――あ……」
 口にする事はどうしても慣れないらしい清次が、羞恥を煽られて、その無骨な顔に似合わぬ表情を浮かべた。
「ふん」
 鼻で笑うと、清次の躰へそれ以上の余計な手間は掛けずに、ベッド脇の小物ケースに手を伸ばす。様々なものが雑然として入っている中から、表面にただ『JELLY』と書いてあるだけの透明なチューブを掴み出した。蓋を開け中身を捻って掌に押し出す。

「自分で足を開いて曲げろよ」
 激しい羞恥に襲われて京一の顔を正視できずに顔を背けつつ、渋々といった風情ながらも清次が素直に命令を実行する。京一が掌のゲル状のものを、既に用意の調っている己自身と清次の入り口に手早くたっぷりと塗りつける。
 続けて、膝裏を肩に乗せる要領で重い下半身を難なく抱え上げると、自身に手を添えて清次への挿入を開始する。
「……ぐうッ……」
 いくら潤滑剤を使っているとは言え、ろくに慣らされることもなく押し入られる圧迫感と痛みに、清次の口から苦痛の呻きが洩れる。構わず身を進め、幾たびか抜き差しを繰り返した末に全てを納めた京一が、本能の命じるままに激しい抽送を始めた。

 代替品ではあっても、ようやく待ち焦がれていた感覚を得た京一の顔が、全身へとスパークする鋭利な快感に歪む。
「……くッ……はぁッ……!」
 痛いほどに怒張し欲望を訴えていた一物の鋭敏な先端が、擦り上げられてジンジンと痺れる。躰の芯が白く麻痺した。グラインドして更に腰を打ち付けて、自分の望み求める感覚のみを逃さず追い続け、上昇する。
「……あ……あッ……!」
 刻まれる律動に揺らされる清次の表情も、次第に苦悶だけを訴えるそれではなくなってゆく。
 見間違いようのない悦楽の色が入り交じり、耐えようのないその苦しさ故に眉根を寄せる。力強く激しいリズムと共に、京一の下腹の筋肉に当たる清次の物も上下に擦られて快感を生む。
 堪らず自分でも自らへと手を伸ばして扱き、それを煽る。
 後庭からの刺激と共に、馴れた躰が慣れ親しんだ感覚へと次第に追い上げられてゆく。
 感情を伴わずにただ躰のみを繋げて貪り合う行為に更ける二頭の獣の熱く乱れた呼吸と、巨大な気配と質量とを誇る雄同士の汗に濡れた肌と筋肉がぶつかり合う打撃音のみが部屋一杯に篭もった。

「……も……俺はッ……。京一……ッ!」
 清次が悲鳴を上げる。
「チッ」
 既に余裕のない清次の顔を見遣り、小さく舌打ちをすると京一は抽送のピッチを速めた。
 軽く目を瞑って、薄く開いた唇の間から舌先を閃かせながら痺れにも似た快感を追った京一も、眉根を寄せて切羽詰まった表情になる。
「……く……!うッ……う!」
 最後に数度、強く大きく奥まで突き入れ迸らせて自らの禁を解いた。
 ガクガクとのけぞった清次もまた同時に達している。
 己を握る清次の指の間から、白濁が溢れて零れ滴った。
 複数の荒い呼吸音が響き、二頭の雄の吐精した証が部屋に充満する。


 京一がふと思い出したように、未だ興奮さめやらぬ熱く濡れた躰には似合わぬ、冷めた表情を浮かべて清次に覆い被さると、ゆっくりと口吻けた。
 清次も無言のまま、それを受け取り応える。
 暗黙のうちに告げられる一方的ないつものキス。
 口吻けを終えた京一はそっけなく清次から上体を離す。

 暫くして余韻が消え、充足したように深い息をついた京一が、緩慢でゆっくりとした気怠げな動作で身を起こした。
 一言の断りもなく無言で引き抜く。
「……うァッ……!」
 内部への急激な刺激から来た快感の残滓にビクンと震えた清次には目もくれず、数枚のティッシュを掴み取って自身を拭き清めるとダストボックスに投げ入れる。
 放り出していた上着から煙草のパッケージとジッポを抜き取ると、再び全裸のまま、今度はベッドに伸びるように長くなり、自分の片腕を枕にして仰向けになると一本銜えて火を付けた。

 ふうぅ―――っ。
 
 ベッドの下半分を半ば占領して虚脱している清次の巨体が暑苦しくうっとうしい。
「おい。シャワーでも浴びてこいよ」
 蹴り出すようにしながら体よくベッドから追い出した。
「……ああ」
 フラつく躰を壁に手をついて支えながら、清次がベッドを降りてのろのろと風呂場に向かう。
 燻らせている紫煙の向こうで、その後ろ姿が京一の視界に映った。
 木の根のように太くゴツい脚の内股を伝い流れ出して濡れ光る、緩い体液が目に入った。
 顔をしかめると、腕枕をしている腕を下にしてゴロリと横向きになる。


 床の上に転がっている小さな物体が、視線を捕らえた。
 先程まであんなにも熱く飢え餓え悲鳴を上げていた躰は、一時の放熱を終えてようやく鎮まっている。
 なのに、もどかしいまでのかすかさで空虚な軋みと痛みを告げている。

 躰は充足しているのに。
 ここではないどこかで。

 それは今に始まった事ではなく、常に京一の傍らに在る長年の連れのようなものだったが。
 
―――恐らくは刻印を背負ったあの時から。

 京一はその遠い痛みを感じながら、いつまでも。
 その、揺らぐ焔を閉じ込めた深紅を静かに見つめていた。