Toilette-トワレ- |
この日、街中で二人が顔を合わせたのは偶然だった。 京一はのんびりとエボIIIを流して、この街までやって来ていた。 人もクルマも多すぎる地域であり、渋滞して抜けるのに苦労するであろう帰りの事をも考えたら、電車を使った方が早いのは間違いなかったが、特に深く考えることもなく京一は自分の手足であるエボIIIを選択していた。 目的はと言えば、こちらに住む知り合いとのちょっとした用事だった。約束した相手とは、先程まで昼食を共にしていた。この後は何の用事もなく時間が余っていたので、久しぶりの街を特に目的も持たぬままフラついていたのだった。 「京一……か?」 本屋の店先で雑誌を手に取って眺めていた時、後ろから確かめるような声で名前を呼ばれて、何気なく振り向いた視線の先には。 忘れ得ない記憶と思念を想起させられる存在が、白い彗星と呼ばれている美しくも希有な男の姿が、そして今や己の屈辱の象徴として憎んでも有り余る相手の姿が、あった。 京一が公道バトルで初めての、そして信じられないような黒星を突き付けられたあの時から、二ヶ月が経っていた。 「お前……どうしたんだ。その髪」 相変わらずのその信じ難い美貌に、珍しくも軽い驚きを浮かべて涼介が尋ねる。 それに対して京一にとっては。 ―――……こんなに穏やかなヤツだったか? このいきなりの邂逅での涼介の静かな物腰は、意外なものであった。 数度の記憶にある鋭く剃刀のような冷たさそして激しさが、今は形を潜めているように見える。 それとも、クルマを降りた涼介は普段、こんなにも穏やかなのだろうか。 いささか勝手が違って京一は困惑気味だった。 特に交わす挨拶があろう筈もなかったが、何とはなしに涼介に促され、二人は既にあの場から歩き出してしまっている。 「……。どうしようと俺の勝手だろうが」 しかし、顔を合わせた瞬間から京一は不機嫌であった。当然の事である。 あれから二ヶ月。未だ名前どころか顔も見たくない相手だった。 呼びかけられて振り向いた自分を呪ってさえもいた。 ましてや、お前に負けたのが間接的な理由だなぞとは口が裂けても言えない。 勿論言うつもりもなかったが。 「ふうん……?しかし、なかなか似合うぞ、その金髪。どういう風の吹き回しかは知らんがな」 京一の不機嫌なぞお構いなしの、笑みの気配が潜む声で涼介が言った。凪いだ態度ではあっても、嫌味さ加減は相変わらずであった。 こちらの思惑が見透かされているような気もして忌々しい。いや、実際に分かって言っている可能性がある。 こいつは、こういう余計な始末の悪さがいつもつきまとう男だった。 今も……昔も――― クルマ以外の物事には何であれ執着を見せず感情の起伏も少なく、怒りどころかその他の感情であっても滅多な事では表情まで届かない自分を、涼介はいとも容易く憤らせ激高させる。 そしてそれだけではなく混乱さえも。 激しい感情の発露に不慣れな京一にとって、涼介は非常に理不尽で不可解な存在だった。 「うるせぇ。黙れ」 ギンッと眼光鋭く相手を睥睨する。 「まあ、そう睨むなよ。今日はお互いクルマで会った訳じゃあないんだし」 牙を剥いて威嚇する獣を宥めるような涼介の冷めた苦笑の響きに、京一の嫌気がいや増す。 ―――あの時、あれだけ俺と折り合いの付かない諍いをした挙げ句に物別れのまま終わったってのに、こいつは何にも感じちゃいねぇのか。 それとも、圧倒的な勝利を収めた今となってはもう気にする程の価値も無いのか俺には……。 「何の用だ」 重い口を開く。さっさと用件を済ませてここから離れたかった。 ―――こんな事ならブラブラしてねぇでさっさと帰るべきだったか……。 「いや。特にお前に用があって声をかけた訳じゃない。今日は買う物があって来たんだ」 用事はないとあっさり言った涼介に、身構えていた京一は気を削がれ、その反動で怒りすらを覚える。 「わざわざこんな遠くまでか」 なら気安く声をかけるんじゃねぇ、と怒鳴りたいのは山々だったが、出来るだけ早くこの場を立ち去りたい京一は事をこじらせる発言を避けた。当たり障りのない事を言いはしたが、押さえる気のない怒気が分厚い体躰から滲み出て威圧感となる。 「地元では手に入らないんでね」 京一の一切を気にせぬ素振りであっさりと返された。 「……何を買うんだ」 そう簡単に怒りが冷める訳もないが、何となく話の接ぎ穂を求めてしまった京一は、会話の流れとしては至極当然だが、自分にとってはどうでもいい事を聞いて墓穴を掘った。 「ちょっとした日常品だが。そうだ、京一。お前つき合えよ。今暇だろう?」 丁度いい連れができたとばかりに、京一の都合も聞かず気軽に誘って強引に自分の予定を押し付けた涼介は、そう言って確信犯の微笑を浮かべた。 「何で俺がッ」 くわ、と目を見開く。涼介の無軌道な発想についていけない。 ここは間違っても笑う場面ではない筈だが。 急激に疲れを覚える。 張りつめた緊張感を保つ好敵手の間柄だと思っていたのは、やはり自分だけなのか。 「そういう態度は少々大人げないと思うんだが……」 涼介は一歩下がって、自分よりいくつか年上の相手を眇めた眼で眺めやり、微笑みはそのままに冷たい口調で思慮深げに呟く。 「チッ」 ―――この野郎。人が下手に出てりゃあ……ッ! 腹の中で呪いの言葉を吐き散らす。 「分かった……」 しかし、二ヶ月前に負けている引け目も手伝って観念した京一は、両拳をギュッと固く握り締めて苦渋を飲み込みながらも、そう答えた。 ―――俺は、こいつのお陰で手酷い惨敗の憂き目を見た。 今までの信念と矜持をガタガタに砕きやがったんだ。この男が。あの時の屈辱の味を忘れた訳じゃねぇ。忘れるつもりもねぇ。 俺は間違っちゃいないって事を、事実としてこいつに叩き付けてやるまでは、どうしても俺の気は済まん。 それがほとぼりも冷めねぇうちから、どうしてこんな所でこいつとツラ突き合わせて、呑気に世間話なんぞしてるんだ俺は……。 京一は自分でも説明できない、曰く言い難い感情に翻弄されつつも、事の成り行きにかすかな頭痛を覚えていた。 買い物と聞いて、てっきりクルマ関係だろうと思っていたのだが。 涼介の目的地とは、驚いた事にフレグランス・ショップだった。 勿論、今までにそんなものとは全く縁もゆかりもなかった京一である。そんな洒落た名称は知らない。 通りに面して解放されている店内に足を踏み入れた途端、空気の動きと共に自分の周囲へ運ばれて来た多種多様な香りに顔をしかめながら、香水か―――と思うだけであった。 涼介は、様々な香水瓶を手に取っては蓋を開け、顔の前で左右に緩く振ったり、瓶の前にカードにも似た白い紙が置いてある場合は、それに吹き付けてヒラヒラさせたりしていた。 ああやって香りを確かめているのだろうか。 店内は、多くの香水瓶が手に取りやすいように考慮され配置されている。 しかし、店に立ち寄った客の気を惹いて購買意欲を刺激するようにと、いくら趣向を凝らして商品が美しくディスプレイされていたところで、ハナから興味がない京一には何の効果も上げない。 自分には必要のない、値段ばかりが高い贅沢品だとの認識しかなかった。 ―――しかし。女ならともかく、どんな野郎がこんな物を買うんだか……と思っていたが。 オフホワイトのコートに身を包み、香りを試している涼介の優雅で端正な容姿に目を遣る。 ―――……ああいう奴、か。成る程。 納得はするが、何となく面白くない。 ―――ふん。 視線を戻すと、特に見るとも無しに商品を眺めながら店内をブラブラしていた。 そして、いい加減それにも飽きてきた頃。 「どれか試してみたらどうだ。気に入ったものがあったら買ってやろうか」 いつの間にかレジを済ませ、京一の横へ立った涼介が瓶の群を指差して、口を開いたのだった。 |
![]() |
![]() |