Toilette-トワレ-


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 京一が涼介を連れて来たのは、人間がごった返すこの街の中にあって商売をする上ではそう目立つとも思えない、少々引っ込んだ場所に位置する建物だった。
 表には何も看板が出ていない。しかし一歩足を踏み入れるとホテルらしい小綺麗なスペースが広がっていた。
 フロントには、暇そうに座って読書に耽っている若い男が一人。
 客の気配にふと上げた顔を見ると、なかなか端正で愛嬌がある青年だった。

「あっれ。京一じゃないか。久しぶりだな」
 驚いたように京一の顔を認めて、嬉しそうに破顔する。
「ああ……。部屋借りるぜ」
 懐から数枚の札を取り出して手渡す。
「こっちはそれが商売だからな」
 青年がそれを受け取りながら、肩を竦めて笑った。
「最近あんまり顔を見ないな……地元の方では派手にやってるのか?」
 軽口を叩きながら京一の背後を見遣った彼の口から、ピュウゥッ、という口笛が洩れる。
 涼介は怜悧な美貌を無表情に保ったままである。
「今までお前が連れて来た中じゃあ、男は勿論女を混ぜても群を抜いての別嬪だな。どうやって落としたんだよ?」
 到底、小声とは言い難いボリュームで京一に囁いた。
「余計な事を喋っていないで早くキーを寄越せ」
 顔をしかめながら手を突き出す。
「はいはい。ま、ごゆっくり。美人の兄さん、京一に壊されないように気を付けな」
 にやにや笑いを張り付かせながら、青年が京一に部屋のキーを手渡した。
 京一は無言の威圧を込めて青年を睨め付けながらそれを受け取ると、涼介を促してエレベーターへと向かう。
 フロントの青年は、去り際に涼介から吹きすさぶ雪嵐のように凍った一瞥を食らって硬直した。
「うっわ、ものすっげーきっつぅ。めっちゃ美人だけどさ。京一ってああいうの趣味だったっけ……?」
 愛嬌のある顔を引き攣らせて眼を瞬かせると、首を傾げながら呟いた。

 エレベーターが上昇を開始する。
「他になかったのか」
 柳眉をひそめて涼介が問う。
「こんな街中で男同士でも入れる所っていや、どこでもそう数は多くねぇんだよ。あきらめろ」
 苦笑しながら言った。
「しかし、それにしても。男女含めて……ね。これまで一体何人を連れ込んでいる?」
 淡々と今度は責める風でもなく、寧ろ興味深げさえある様子で涼介が再び聞いた。
「放っておいてもらおうか。誰と寝ようが俺の勝手だ。そう言うお前の方こそどうなんだ。白い彗星のそういった噂は聞かねぇが」
 己の自由奔放な性癖が白日の下に晒された事に少々のバツの悪さを覚えて、くだんの青年を恨みながらもやり返す。

 京一から問いかけられた瞬間。
 自らを取り巻く状況が怒濤の思念が割れかけた欠片が渦巻き荒れ狂う奥底から。
 垣間見えた。

 輝く笑顔。日向色をした。信じ切って振り向く―――。

 意識に浮上する前に、素早く全てに蓋をして暗黒へ閉じ込める。
 その、両の瞳と同じ彩をした深く深い闇の中へ。
「どうでもいいだろう。それこそお前の知った事じゃないさ」
 涼介は京一の耳には本当にどうでもいいように聞こえる口調でそう言うと、それきり口を噤んだ。
 本気で興味があった訳ではない京一も、軽く肩を竦めるにとどめて、この話題を流す事にした。

 涼介は横目でそっと、京一に目を遣った。
 今日初めて間近からゆっくりと眺めた京一が、自分よりも一回り以上も体格が上回っている事に、今更のように気付く。
 涼介自身も百八十三センチあり、大柄な部類に入る。実際、京一と比べても身長にはそれ程遜色がないように思う。数センチといったところか。
 しかし。身体の厚みと骨格が桁違いだった。
 がっしりした肩幅、分厚い胸板、引き締まった腰、長い腕と脚。
 先程抱き込まれた時も、決して小柄ではない筈の自分の躰がすっぽり腕の中に入ってしまった。
 得てして大き過ぎる男は、身体のパーツのバランスが悪く間延びして見えるものだが、京一のそれらは見事に均整の取れた肉体を形造っていた。
 そして、強靱でしなやかな逞しい筋肉で全身が覆われているのが、服の上からでも分かる。

―――この男は、こんなにも男だったか?

 二ヶ月前には、そんな事に気付く機会はなかった。
 バトルではお互いのプライドを賭けて凄絶な火花を散らした。
 京一の敗北でひとまずの決着を見た後も、結論の出ない口論に終始して、それ以外の何を話す事もないまま別れた。
 そして唯一、隣に並んだ記憶があるのは。
―――あの時、自分達の体格にそんなに違いがあっただろうか。そしてあれはまだ。彼の背に在るのだろうか……。
 京一は、口にするのを避けている。俺にとっても最悪の記憶だが。だが、あの時の事が無ければ自分が今、京一とここにいる事もなかったのだろうか

 ふ……と我知らず理由もなくおかしさが込み上げる。唇から洩れ出して、くぐもった音になった。
「何だ」
 京一が胡乱な目付きで涼介を見降ろした。
「いや、別に」

 チン。

 小さな笑いを響かせる涼介と憮然とした表情の京一を乗せた箱が、目的の階に着いたと知らせのチャイムを鳴らす。
 弾むような軽い足取りで部屋に向かう涼介を眺めた京一は、諦めたように溜息をつくと、その後ろ姿を追った。

「シャワーを浴びてもいいか?」
 もの珍しそうに部屋の中を眺めていた涼介が尋ねる。
 どんな所に連れて来られたものやら……と思ったが。そう詳しい訳ではないながらも、ラブホテルとしては普通の部屋だ、と思う。見たところ内装にも、ケバケバしかったり奇抜だったりするような気配は特にない。
「ああ」
 上着を脱ぎ捨ててベッドの上に放り投げ、備え付けの冷蔵庫を覗き込んでいた京一が答える。
 背後では、随分と思い切りのよい衣擦れに続いて、バサリという音が聞こえた。
 ビールを引っぱり出した京一が立ち上がってバスルームの方に目をやると、ちょうど扉が閉まった所だった。涼介の着ていた服が、カウチの上に纏めて投げ出されている。
 ビールのプルトップを引いて缶を呷り喉を潤すと、明かりのついたバスルームの方を眺めながら煙草を銜えて火を付けた。

 数メートル先の眼前では。
 非常に刺激的な対象が、非常に興味をそそる光景を繰り広げていた。
 涼介の後ろ姿が両腕を上げて、気持ち良さそうにシャワーコックから迸る熱い奔流を浴びている。
 バスルームの中は瞬く間に白い湯気で満たされる。白くもやもやと立ちのぼる湯煙に包まれ、引き締まった仄白い肢体が蠢く淫靡な光景に幻惑されて、腰に重く熱い疼きを感じる。
 部屋とバスルームとを隔てる壁は、こちら側からだけ向こうが見える造りなっていた。
 涼介が京一の視線に気付く様子はない。
 独りだけの空間で撥ね散る湯の飛沫と戯れている姿が、音のない映像として視覚に灼き付けられていく。

 京一は短くなった煙草を、ベッド脇の鏡台コンソールに載る灰皿へと押し潰して消した。身につけているものを手早く脱ぎ捨ててバスルームに向かった。
 一気に扉を引き開けると暖かな空気が押し寄せて、躰を包み込む。
 最前から情欲を掻き立てられていた唯一最大の原因である、白い湯気を纏うしなやかな肢体が、まっすぐ視界に飛び込んで来た。
 流れ込む涼しい空気に気付いた涼介が振り返り、わずか驚いたように眼を瞠ったが、透明な滴を全身から滴らせながら無言のまま、婉然と微笑む。
 京一は白磁の裸身へと、その力強い腕を伸ばした。
 涼介は導かれるままにゆっくりとその熱い躰を寄せる。
「京一―――」
 熱を帯びた声で囁きながら男の首に両腕を絡め、ひたりと腰を押し付けた。



「邪魔だってプレゼントを嫌がる京ちゃんでも、これぐらいならいいでしょ?腐るものじゃないし」

 誰かの声が、強烈なショックを伴って京一を現実へと引き戻した。
 自分の名を囁いた熱い声が一瞬のうちに遠のく。
 あまりの生々しい記憶の奔流に目眩がする。自分が今どこにいるのかを瞬間、把握できなかった。
 自分が白昼夢―――と言うにはもういい加減、宵の刻ではあるが―――に陥ってからどれ程の時間が経ったのだろう。
 京一は暗い照明のバーのカウンターに凝然と腰掛けていた。
 そして目の前では、華音が京一へ向かってふふふっと笑いかけている。
 罪のない笑顔だった。