Toilette-トワレ-


    5    









 店を出た二人は、店脇の路地裏を通ってとりあえず駅方面へと向かった。
 首尾良く目的の物を手に入れたらしい涼介は、京一の隣で機嫌良く歩いている。
「結局何を買ったんだ?……とは俺が聞いても無駄だったな。いい」
 何気なく口にしたが、すぐに言い直す。
「いつも使っているヤツだ。もうそろそろなくなりそうだったからな」
 涼介は口許に薄い笑みを刷き京一を見たが、特に銘柄に触れる事もなくそれだけを告げた。
「いつも?」
 そう聞いてふと意識を向けると、確かに隣を歩く躰からは、ふわりと立ちのぼり漂っているものがある。それは節度を守って付けられており、嫌味がない程度に品良くかすかに薫っているだけだったのだが。
 これまで気付かなかったのが不思議なぐらいはっきりと今、京一はその存在を感じていた。

 肌に温められた、柔らかく瑞々しい馨り。
 先程押し込めた筈の気の昂ぶりが再び甦る。

「俺は基本的に一つの香りを使っているが、いくつか揃えておいて気分に合わせて使い分けるのも楽しいものだ。最近は様々なものが出回っているし、色々試してみるとなかなか興味深くて面白い」
 京一の気も知らぬまま、涼介が教える。
「そうか」
 何となく間が悪い気分を持て余して涼介から目を逸らす。
「これも、そのうち買おうか……」
 涼介がごく自然な動作で少し伸び上がり、くん、と京一の首筋に顔を近付けた。
 そのままの姿勢で止まった涼介の気配を訝しく思うと同時に京一も足を止め、横を向く。
 と、数センチの傍らで、わずかにこちらへ仰向いた涼介の顔を見出して、心臓が激しく暴れた。
 闇色に濡れ光る眼で無言のまま京一を見つめる涼介と真っ向から視線がぶつかり、喉に息が絡む。
 涼介の暖かい肌の気配を、すぐ側に感じた。

「そういう目で俺を見るんじゃねぇよ」
 急に喉の渇きを覚えながら、苦々しい思いで口にする。
 涼介は少し首を傾げたが、闇色の視線が京一から離れる事はなかった。
 そのまま言葉を紡ぐ気配がない。
「襲われても知らねぇぞ」
 仕方無しに、冗談めかした風を装って言う。
「……俺はそれでも構わないが」
 食事の誘いでも受けて承知したかのような、気軽な涼介の口調だった。
 予期せぬ答えに思考が止まり、思わず京一が黙り込む。
 不自然に間が空いた。
「どうする?」
 反対に涼介が尋ねる。京一の体躰から猛った気が噴き上がった。
 次の瞬間、涼介の躰は京一の力強い腕に引き寄せられ、その腰を抱き込まれていた。
 そしてほぼ同時に、顎を捕らえられて唇を塞がれる。縺れ合った二人の躰が、道脇のビルの壁にダン、とぶつかって止まった。
 この時、路地裏に人通りが殆ど無かったのは、誰に取って幸いだったのかそれとも不幸だったのか。


 京一の舌が荒々しく涼介の唇をこじ開け歯列を割り、押し入ってくる。
 目を開けたままそれを受け止めた涼介の瞳には、冷静な思考の光が宿っていた。
 実際、構わないと思っていた。
 もしかしたら、自分は京一に声を掛けた時から予想していたような気がする。
 この成り行きを。
 いや。京一が何にどう反応するかを知りつつ、それを期待していたのかも知れない、とさえも思う。
 今の自分には、京一のような相手こそが好都合―――と見なすだけの複雑な事情と逼迫した状況が、ここ最近の涼介にはあった。
―――俺に振り回されて、都合の良い捌け口にされる京一には気の毒な話だが……な
 と、そこまで考えると涼介はその雄弁な瞳を閉じて、京一の口吻けに応え始めた。


 京一の濡れた唇が一度離れた。間をおかず、薄い唇が再度降りて来る。角度を変えて深く口接けられた。
 京一の舌が涼介に絡まり、味わい、思いのままに蹂躙する。絡めたまま舌先で、涼介の舌の根を存分にまさぐってから離す。
 うねる舌に口腔を柔らかく舐め上げられ、それは更に奥をもゆっくりと撫でてゆく。
 ざわりとした疼きが、涼介の腰から背筋へと這い上がった。
「……んっ……ふ……」
 余裕を無くした涼介が、耐えきれずに小さな喘ぎを洩らして唇を離そうとする。
 許さず舌を捕らえられた。
 京一の尖った舌先が涼介のそれを促すように軽くつついて押す。
 快感と擽ったさに怯み、舌を浮かせたところを絡め取られ強く吸い上げられた。
 溢れそうな蜜を交換するように流し込まれ喉を鳴らすと、ようやく涼介の舌が解放される。
 最後に一度、名残惜しげにゆっくりと涼介の舌裏を舐め上げて、京一の唇が離れていった。
 涼介の躰から力が抜ける。
 京一の片腕で縫い付けられていた壁からずり落ちそうになったところに、両脚の間へ京一の片足が入って止めた。
 今にも崩れ落ちんとする己の躰を支えようと、涼介もとっさに眼前の胸元を掴む。

 京一は、そのまま涼介を強く抱き寄せた。
 腕の中にある躰は、記憶の中のものとは大分異なっていた。
 なだらかに広がる肩幅、しっかりとした厚みを持つ胸、すらりと引き締まった下半身。
 涼介の背を抱く腕には、しなやかな筋肉の存在を感じる。
 もう、すっかり大人の男の骨格と肉体だった。
 この躰を思う存分に組み敷いて噛み砕き味わい尽くしたい。
 覚醒した凶暴な情欲が体内を駆け巡る。

「お前……自分で言っている事の意味が分かっているのか」
 唇を離した京一は、涼介の耳元へ、低く掠れた獰猛な囁きを吹き込む。
「分かっているさ。十分にな」
 涼介が応えた。呼吸が乱れ、浅く息が上がっている。
 その頬は淡く上気して、唇は紅く濡れ、眦には艶を刷いていた。
 京一から身を離し、ぐらつく足を踏みしめ自力で立つ。自分の躰が熱を放っているのが分かる。
「どこへ?」
 それでも強気のままに、涼介が行き先だけを問う。
 思わぬ成り行きに暫し逡巡した京一だったが、腹を決める。
「知ってる場所がない……事もねぇが。本当にいいんだな」
 半ばあきらめたような風情を見せながらも念を押す。
「くどい」
 涼介は京一の迷いを見抜いて、切り捨てた。

「……付いて来い」
 そんな涼介を一瞬だけ凝視したが、最早それについては何を言う事もなく、京一は踵を返した。