Toilette-トワレ-


      7  









 無言で眼前の小造りな顔を見つめる。
 それを華音は、自分のセリフに対して態度を決めかねた京一の困惑と受け取ったのか。
「ほんとに気にしないで。現地通貨余ったから空港で買ったの。ミニボトルだし。一ヶ月保たない……かな?」
 肩を軽く竦めてそう言うと、様子を伺うようにして小首を傾げた。
 どうやら、思った程のタイムラグはなかったらしいが。
―――俺はどのくらいの間、自失していた……?


―――チッ……!

 京一は腹の中で鋭く舌打ちすると、まだわずかにブレている意識を現実に合わせて素早く修正した。撥ね散る水音、躰を包む湯気、白く熱い肢体、様々な光景の残り香を脳裡から完全に消去する。
 そして、意識が伴わずとも先程耳が捕らえていた華音のその言い草に、呆れたような目を向けた。
「お前……それはそれであんまりな言いようじゃねぇか?嘘でもいいから、『一生懸命選んだの』ぐらい言ったらどうなんだ」
 軽口を叩くと、華音がくすくすと笑った。
「やぁねぇ。私だって、私が留守だった事にも気付いてくれないような男へ余ったお金でお土産買うのに、頭と時間を無駄遣いする程ヒマじゃあないわよ」
 あっさりと言い放つ。
 それに対しての反応として京一はただ、苦笑してみせた。

 自分の顔に、今し方の驚愕と動揺が現れることがなかったかどうかは定かでない。
 元々表情が豊かな方ではない自覚はある。
 実際、本人は無意識の事ながらも鉄壁のポーカーフェイスを誇り、仲間からはいつも表情を読めないとぼやかれる彼は普段、突然の事態に対しても殆ど顔色を変えることはない。
 しかし。何も気付かれなかったかどうか。
 いや、今までのつきあいから考えるとそうとも思えない。
 それとも気付かない振りをしたのか。
 どちらにしても華音がそれについて触れて来るような事はなかった。
 いくら昔馴染みとはいえ、こういう女だからこそ、時々思い出したような間隔ながらも京一としては長く続いていた。

「今日はいつもの取り巻きつれてないのね?京ちゃん。さっき上のサ店も覗いて来たけど 誰もいなかったし」
 奥のボックス席を見回した華音が言う。
 ビルの一階に入っている喫茶店とこの地下のバーは同じオーナーの持ち物で、一人の事業家がその経営を肩代わりしている
 地元の走り屋なら週末の夜に峠を、いろは坂を走るような馬鹿はいない。
 どこからともなくあちこちから湧いて出る余所者のお陰で、走り込みどころか普通に通過する事さえもままならない地点もある。
 そんな時は地下のバーによく来る京一に倣うかのように、チームメンバーの幾人もが入れ替わり立ち替わりやって来てはこの店やサ店にたむろっている事も多い。

「取り巻きじゃねぇ。仲間だ。それに俺だって、たまにはのんびり飲みたい時もあるさ」
 肩を竦める。
「ふぅうん?どうだか」
 信じられないわね、という素振りで、華音が独りごちる。
「今日はヤケにうるせぇから奴等はもう帰した。いや、清次の奴は残ってたな。何か用があるって出てったが……。もうそろそろ戻って来るんじゃねぇか?」
「やぁだ。まだつるんでるの、あなた達」
 眉をひそめて呆れたように言う。

「エンペラーの連中ってどいつもこいつも京ちゃんにベタベタして。かと思うと遠巻きにしてじっと眺めてるような奴等もいるし。厳しく叱って檄飛ばしてる時なんかでも、殊勝な顔しながら嬉しそうに顔赤くしてる奴とかもいるじゃないの。絶対変よ。走り屋ってどうしてそうベタベタしたがるの?」
 細い眉をひそめて、嫌そうに言った。
「いや……何もベタベタって訳じゃねぇだろ?」
 あまりな華音の言いように京一が苦笑する。
「ベタベタ……よ!京ちゃんがチーム作ってから、私なんて何度京ちゃんの部屋へ行くのを連中に邪魔されたと思ってるのよ?奴ら、自分達の京ちゃんに、女の私が近づくのが我慢ならないのよ。寄るんじゃねぇよあっちに行けって態度が見え見え。京ちゃんの為なら命捨てる覚悟のある奴、手挙げさせたらきっとゴロゴロしているわよ。隠れファンも混ぜたらもっと。間違いないわ。走り屋なんて人種、みーんなホモの集団よ!」
 過去の恨み辛みを思い出してよほど腹に据えかねたのか、気炎を上げる華音は、聞くも恐ろしいセリフを吐いた。
 京一は苦笑するしかない。
 華音は一息入れると、今度は態度を改めて正面から京一を見つめた。真面目な顔でゆっくりと諭すように言う。
「京ちゃん。あなた、来る者拒まずで去る者追わず。気に入ったら男でも女でも構わない。顔の善し悪しも気にしない。おまけに、従順なのよりも性格は悪い方が好き、なんだから……。痴情の縺れで刃傷沙汰っていうのだけは避けてよ?気を付けてね?」
 これだけを聞くと冗談としか思えないような発言だったが。
 長いつきあい故に、これまでの京一の過去を大方知っている上での華音の台詞は、充分に笑えない冗談だった。


 ドアのカウベルが乱暴な音で鳴り響き、入り口に清次が姿を見せた。
 最前、京一の言っていた用事を終えて戻って来たらしい。
 途端に、京一の隣に華音の姿を見つけてむっとした表情になり、大股で近付いて来た。
「お前、何でここにいやがる……」
 視線を尖らせ、不愉快そうに呟く。
「あなたにお前呼ばわりされる筋合いはないわ。華音よ。か・の・ん!分かった?何遍言わせるのよ。どうせ覚えちゃいなかったんでしょ。んもうっ!あなたってばいつま経っても犬なんだから。少しは人間並みの知能を見せたらどうなのよ。……京ちゃん、よくこんなのの面倒いつまでも見てるわね?」
 先程の理不尽な怒りが甦ったのか、ポンポンと言う。最後の台詞は京一を振り返りながらのものだった。
「まあ、そう言うなよ。こう見えてもこいつにも特技の一つや二つはあるんだぜ?」
 華音の勢いに押されて苦笑した京一は、気乗りしなさそうながらも形だけは一応の弁護を試みる。
「特技……?何よ」
 疑わしそうに聞き返された。
「ドラテクと料理」
 平坦な口調で教える。
「……」
 華音は複雑そうな顔で細い眉を寄せ、頭痛がしたかのように右手の先でこめかみを押さえた。
「クルマはともかくとして。料理?するの?清次が?」
 一言一言区切って確かめるように言う。
「ああ……。結構食えるぞ」
 まあ、信じられないだろうがな―――と素振りで付け加えた。
「確かに。とりあえず、嘘でしょ?としか言いようがないわね。本当にできるの?」
 呆れたように肩を竦めて、華音は清次の無骨な巨体を上から下まで眺めた。

「人が黙って聞いてりゃあ、さっきから随分と勝手な言い草じゃねぇかっ。俺が何しようと関係ねぇだろうがっ!」
 清次が華音に噛みつく。
「お黙り。飼い犬の分際で」
 言いながら華音が、ビシリと清次に人差し指を突きつける。
「清次。私の名前は?」
「……カ、カノ……ン……」
 メタリックな銀色にコーティングされて輝く、鋭く研ぎ澄まされた爪先とその勢いに瞬間ビビった清次が、不器用な発音ながらも思わず反射的に答える。
「あぁら偉い。よくできたわね。じゃあ次回からはきちんと漢字で発音できるようになりましょうね?」
 大仰な身振りで音のない拍手をしながら華音が、挑発的な態度で褒める。昔鳴らした地が出ていた。清次の怒気が膨れ上がる。
「娑婆っ気出してるんじゃねぇよ。華音」
 その光景を眺めてくつくつと忍び笑っていた京一が、言いながら壁の時計をチラリと見た。

「そろそろあがるか……」
 呟く。
 財布を引っ張り出して札を数枚抜き取り、す、とカウンターに滑らして立ち上がる。
「もう帰るの?久しぶりに京ちゃんと美味しい御飯でも食べようと思ってたのに……」
 華音が既に諦めたような口調ながらも、グラスを爪先で弾いて言う。
「済まない。今日はまだ片づけなけりゃならない事が残ってるんでな」
 特に済まなそうな顔も見せず、ただ態度だけは誠実さを見せるかのようにそう言って、誘いを断った。
 脇に置いていた上着を取り上げて羽織り―――ふと、手が彷徨ったが、結局は小瓶を取り上げて懐に突っ込んだ。

「じゃあな雅史。ごっそさん。華音、一応礼言っとくぜ。ありがとよ。今度また……な」
 華音に片目を瞑って声を掛けながら、酔いを覗かせない切れの良い動作でその長身を鮮やかに翻し、出口へと向かう。
 清次がぱくぱくと声にならない声で口を動かし、引き留めようとしてか手を伸ばすが京一へはかすりもせずに宙へ浮く。
「約束よ。またね」
 笑いを噛み殺しながら華音が軽く片手を振る。
「おう」
 バーテンも軽い笑いの衝動を押さえきれずに肩を振るわせたまま応えて、京一を見送った。
 京一が黒い扉の向こうに姿を消す。
 後には笑い続ける華音とさすがに少々気の毒そうな苦笑を浮かべるバーテン、怒気も萎えて茫然としたままの清次が取り残される。
「お、おい……!待てよ!京一ッ!」
 目もくれずにあっさりと置いて行かれて慌てた清次は、騒々しい足音をたてながら、京一の後を追った。



 後には静寂が残る。二人の顔から笑みが消えた。
「華音……京に期待するなよ」
「……分かってる」
「こっちに何の思惑もなけりゃあ……無愛想ながらも意外につき合いはいいがな」
「そうね」
「あの性格でチームなんか旗揚げしやがってどうなる事かとも思ったが。意外に下のモンの面倒見はいいようだし、相変わらず慕って来る奴には事欠かないようだな。まあ、ヤツらは速さの信奉者だから当然と言えば当然だが、京の下へ群れるのはそればっかりでもないだろう……」
「昔っから男でも女でも、京ちゃんに惹かれて近付いて来る人間は多かったもんね……」
「だが、自分のものにしようと―――手を伸ばして掴まえようとすると、冷たい眼をして無情なツラであっさりと離れて行く」
「……いつもそうだよね。誰にも執着しない」
「あいつは束縛や馴れ合いを嫌うからな。する事も、される事も。俺達に対してもそれは例外じゃあない」
「……そうね。私の手には入らないもの。手に入らなかったもの。それはもういいの。でも雅兄いは今だっ―――」
 男の口許が苦笑の形に歪むのを見てハッとする。
「……ごめん」
 華音が俯いて小さな声で謝った。
「いや、いいさ。だが、さっき……ちっとばかし様子が妙じゃあなかったか?」
 苦笑しながらも思案する顔付きになる。
「あ。雅兄いが言うなら間違いないか。やっぱりそうだったんだ。……珍しいよね?」
 華音が軽く眉をひそめる。
「そういや、前にも一度あんな―――……」
 ふと思い出したように雅史が呟く。
―――……京。お前。
「え?何か言った?」
「いや……。何でもない」
「……そう」
 空間が沈黙の海へと沈む。
 あり得ない事へのまさかの思いと共に、じんわりとした得体の知れぬ感覚が二人の胸に広がった。

 雅史は無言のまま、京一がカウンターに残していったグラスを片付けようと手を伸ばす。

 グラスの中の氷がカラン、と冷たい音を立てた。